2019年4月5日金曜日

戦争経験者と接した経験について (2014/8/15)

 アジア・太平洋戦争の直接経験者が生命の定めによりいなくなっていく以上、直接経験者と接した経験の保存はそれ自体大事なことと思います。しかし,その大事さの中身については,よく考える必要があります。

 私のように親類が戦争経験者という位置にあるものは,戦争経験を、他人の経験の伝達ではなく、「経験者と接したという自らの経験」としてアーカイブすることが独自の役割のように思います。これは非常に難しい。前の投稿でも,私は親類の戦争経験をどのような場面で聞かされ,それをどう受け止め,それが今の自分にどうつながったかを書けていません。事実の叙述としてよりも伝聞調で書いて,それを1969年なり,1980年なりの私がどう受け止めたかを書くことが望ましい。でも,整理できていないから書けないのです。

 しかし,そうであってもこの経験の伝達には重要性があること自体は主張したい。「戦争経験者と接した経験」は,書物やネット情報から学ぶ戦争よりは,いくらか「自分のこと」であるから,忘却せずにとっておく価値があると思うからです。

 以下,やたらと理屈っぽくなりますので,しちめんどくさい方は無視してくださって構いません。

 経験に価値があるというのは,経験イコール真実ということではありません。経験にも経験談にも,経験者との接触経験にも偏りや欠落や思い違いがあります(例えば、よく言われますが加害経験よりも被害経験の方が伝わりやすい。私の親類の経験談も被害の方が多い)。しかし、偏りや欠落がある経験もまた経験です。絶対視してもいけないですが,無視するのはもっとまずく,そこから出発して考え直していくべきものです。

 また「戦争経験者と接した経験」は、特定の主張のために役立つから大事なのではありません(役立ってももちろんいいのですが)。戦争防止に役立つから大事で、役立たなければ無価値なのではない。経験から何を汲み取るべきかは、幅のあることで、後世の人間の置かれた状況と問題意識に応じて多様であってよいのです。私は,アジア・太平洋戦争について一定の主張を持っていますが,前の投稿では「覚えておくべきだ」というところでいったん話を区切るべきだと思いました。それは,私の「戦争経験者と接した経験」は,私と主張の異なる人にも意味があると思ったからです。

 では,経験はなぜ大事なのか。偏りや欠落があってもなぜ大事なのか。それは,アジア・太平洋戦争の直接経験者がやがていなくなるという現実の中で,戦争に関する議論が空理空論にならないようにするためではないでしょうか。戦争は理論でも把握できます。文章でも把握できます。写真でも把握できます。しかし,それらで把握できないこともあります。経験者と対面で会話し,声を聞き,傷跡の有様を見,表情をうかがい,息遣いを感じてでなければ把握できない側面もあります。そうした側面を欠落させた空理空論を決してせず,今から将来に向かい,戦争について地に足をつけた捉え方をするために,「戦争経験者と接した経験」は必要なのではないでしょうか。

 社会学や心理学などの用語では,このようなことをもっと適切な用語で把握するのでしょうが,私なりには,以上のように思います。

光瀬龍氏と阿修羅王のこと (2014/9/21)

 光瀬龍氏の最後の単行本『異本西遊記』(角川春樹事務所、1999年)をアマゾンマーケットプレイスで購入。理由は、この作品に阿修羅王が登場するらしいと知ったからだ。
 『百億の昼と千億の夜』に登場するあしゅら王は、同書を1970年代に角川文庫で読んだ中学生の私、続いて萩尾望都氏のマンガで読んだ高校生の私に強烈な印象を残した。しかし、その強烈さの正体はいまなおつかめない。表現しようとすると文才のなさを露呈するので書くことができない。
 空前のSFブームが到来し、ファンがそれぞれ勝手なことを(ネットがない時代としてはたいへんな労力をかけて)言い合い、「そんなものはSFと認めない」「それは人それぞれだから」という身もふたもない宣告を乱発しては罵倒しあっていた1980年代、光瀬龍氏は過去の作家扱いであり、論じられることがなかった。実は、1985年か86年の大学の春のフェステバルで光瀬氏がおいでになり宮城県民会館で講演されたことがあったが、客はまばらであった。光瀬氏自身もSFのことはおっしゃらず、地方と中央の関係みたいな話をされていて、切れ味は今一つのように思えた。共催団体の一員だった私は、萩尾氏のマンガをコラージュして宣伝ビラをまいたりしていたのだが、まるで効果がなかったことを知った。講演終了後、廊下でお見かけした光瀬氏に何か話しかけたかったのに何も思い浮かばず、黙礼しただけであったことを覚えている。
 1999年に光瀬氏が亡くなったときは、それほど話題にならなかった。2009年に写真の本『光瀬龍 SF作家の曳航』が刊行された。SFから遠ざかっていた私はそのことを知らず、3年ほど前にようやく読んだ。私は本書のおかげで、あしゅら王が登場する別の短編小説「ある日の阿修羅王」「説法」「廃墟の旅人」を読むことができた。また、『SFマガジン』2008年5月号に宮野由梨香「阿修羅王は、なぜ少女か」が掲載されていたことを知り、そちらも入手して読むことができた。今回購入した『異本西遊記』のことも、ネットに掲載されていた宮野氏のエッセイで知った。
 この本で光瀬氏の生涯についてある程度のことがわかり、また宮野氏の評論や光瀬氏とのやりとりの記録によって、『百億の夜と千億の夜』がどのように少女マンガとして読まれたのかということと、それが光瀬龍の実存とはおそらく異なっていたのであろうことは理解できた。
 それでは、私はどう読んだのか。あいかわらず、よくわからない。未読の材料も、今日買った『異本西遊記』と、昨年までSFマガジンに連載されたという光瀬氏の評伝くらいだろう。それを読み終えてももやもやしたままであったらどうしようか。