2019年2月24日日曜日

伊東光晴『アベノミクス批判 四本の矢を折る』岩波書店,2014年について(2014/8/23)

 私は伊東光晴氏から一度だけ電話を頂いたことがある。ウォルター・アダムス&ジェームス・ブロック『アダム・スミス,モスクワへ行く』の拙訳をお送りした時である。「アメリカの産業組織論の中でもアダムスはまともですよ」という趣旨のことをおっしゃっていた。これは伝統的産業組織論(SCPパラダイム)をとるアダムス教授の反独占と分権化の論理を指してのことである。

 伊東氏は,歴代日本政府の経済政策を論じるときに,目新しい理論を使っているわけではない。逆である。いまでは古臭いとされている理論,たとえばケインズ当人による資本の限界効率の不確実性論,ハロッドの人口成長率を組み込んだ経済成長論,SCPパラダイムの独占批判(ただしガルブレイスの拮抗力の理論も使う),政策論では完全雇用余剰を利用した反循環政策論,クロヨン是正論,より広く混合経済論などを駆使するのである。

 私は伊東氏の主張すべてを支持するわけではない。たとえば,福島第一原発事故に関する全額国家補償論は納得できない。広く社会的行動についても,たとえば,鹿児島国際大学教授懲戒解雇事件での理事としての伊東氏の行動は受け容れられない。

 しかし,私は,伊東氏による「古い」理論を駆使してのアベノミクス批判は,まことに理に適っていると思えるのだ。むろん,私が新しい理論と経済学の数理的な理解に疎い「古い」学者だからそう思うのかもしれない。伊東氏の主張を批判する経済学者が少ないのは,「古い」理論だから相手にしないということなのかもしれない。しかし,古くても,間違っているとは限らない。後になってみると「古い」理論の方が正しかったのかもしれない。そこが,ときどきの支配的な価値観,流行り廃りに流される経済学や経営学のやっかいなところだと,私は思う。

「安倍首相は自らの政策を三本の矢と称した。
 第一の矢--量的・質的緩和は,株価の上昇にも為替の変化にも何の関係もない。株価が大きく上昇したのは外国ファンドの買いのためであり,リーマン・ショック以後落ちた欧米の株価が低金利政策もあって上昇し,元に復し,残る市場である日本に向かったのである。第二章『安倍・黒田氏は何もしていない(続・第一の矢を折る)』がこれである。」
「 第二の矢--国土強靭化政策は,予算化されていない。2014年度予算案の検討でこれを明らかにした。
  第三の矢--経済成長政策は,具体化の姿が見えない。何よりも,その時代ではないのは,第四章『人口減少下の経済』で明らかにした。」(本書108ページ)。

伊東光晴(2014)『アベノミクス批判 四本の矢を折る』岩波書店。

ついで。すみません,たぶんまだ売れ残ってますので。
W. アダムス&J. ブロック(川端望訳)『アダム・スミス,モスクワへ行く』創風社,2000年。

2019年2月20日水曜日

東日本大震災後1か月の仙台での被曝量を求めて(2013/9/10)

 2011年4月。私は「本震後も仙台に住んでいて、おおよそどれくらい被曝したと考えればよいのか」という疑問を持っていた。当然、周囲の同僚や学生も持っていた。しかし、毎日これでもかというくらいに放射線について報道されている割に、この単純な質問に対する答えはどこにもなかった。「使えない」報道だと腹が立った。しかし、素人に計算できるわけもないと思っていた。

 ところが、ある日、放射線医学総合研究所のサイトに、東京に1か月暮らした場合の簡便な被曝量計算方法が掲載されたことに気が付いた(※)。まったく同じ方式と、対応する地元のデータを使えば、それほどまちがわずに仙台についても計算できるのではないかと考えた。そこで何度か放医研に電話して、大きなまちがいがないように気をつけながら試算した結果がこうである。

3/13-4/12の仙台市における、福島第一原発事故による総追加被曝量(放医研に相談しながらの素人計算)

注意:自然放射線に対するプラスアルファの被曝分に限って計算。

1.空間放射線からの外部被曝 0.066ミリシーベルト
・データ出所:理学研究科田村教授が仙台市青葉区で測定。

2.水・食べ物からの内部被曝 0.255ミリシーベルト
・データ出所:水と野菜は宮城県のサンプル調査のうち、放射能が最大のもの。魚は県内データなく、放医研のもの。

3.放射性物質吸引からの内部被曝 0.0363ミリシーベルト
・データ出所:残念ながら地元データがなく、放医研の東京の大気のデータを流用。

*合計(1+2+3)
 0.358ミリシーベルト(四捨五入の関係で上記合計と0.001の差)

 これは、胸のX線集団検診(0.05)より多く、胃のX線精密検査(0.6)より少ない程度、または東京・ニューヨークを 2 往復した場合に宇宙線を余分に浴びる最大値(0.38)より少し少ない程度である。私は「今後、原発事故が徐々にであっても収束に向かうのであれば、仙台に住むことは放
射線防護の観点からはまったく心配ない」と判断してゼミ生にそう伝えた。

 何の根拠もなく「安全だ」「危険だ」とは言いたくなかった。だからこの試算をしてゼミ生に送ったことは今でも正しいと思う。しかし、素人計算が間違っていたらどうするのかと思うと、とても恐ろしかったことも事実である。いまでも恐ろしさがなくなったわけではない。いまさら私の試算値で不安に駆られる人もいないだろうと思うので公表するが、まちがいがあると思う方は、遠慮なくご指摘いただきたい。計算方法を教えろと言う方には無論お教えする。

 後日、原発問題のシンポジウムの後、放射線を仕事で扱っている理系の先生方にうかがうと、「だいたいはそれでよい。しかし、自分たちは、たいへん低い確率で特定の人が深刻な健康被害を受ける可能性があることを知っているので、危険はないと断定できないのだ」と言われた。またそのシンポジウムで原子力工学の先生は、原子炉の状態については明快に説明してくれたが、被曝の話になると「私、放射線については弱いので……」と困った顔になり、新聞報道と同様の解説だけを紹介された。これらは、いずれも科学的には正しく、学問に誠実な態度なのであろう。専門的に厳密に話したい、専門外のことに口を出さないという姿勢である。

 しかし、正確さが保証されなければ何も断言しないということは、いつでもどこでも正しいのだろうか。ある状況で、ある責任を負っている場合には、誤差がかなりあり、専門的にはまちがいを含むかもしれないとしても、その危険性を認め、さらに手元でできる限りの正確さを期したうえであれば「○○の理由で、だいたいこうです」と言わねばならないとき、言わねばならないこともあるのではないだろうか。

 この経験以来、私は原発にかかわる事柄について、いつでもどこでも同じことを言う態度はとれなくなり、また短い一言で「危険だ!」「安全だ!」ということもできなくなり、さりとて「科学的に確かめられていないことを主張したり、専門知識のない分野で主張したりするな」という自然科学者の意見にも、直ちにはうなずけなくなったのである。

※放射線医学総合研究所「放射線被ばくに関する基礎知識第6報」2011年4月14日(現在公開のバージョンは8月24日更新)。

2019年2月19日火曜日

山崎豊子さんのご逝去に際して(2013/10/1)

 作家の山崎豊子さんが亡くなられた。私は小説は『大地の子』と『華麗なる一族』しか読んでおらず,ドラマは『大地の子』の途中からしか見ていない。『大地の子』を偶然テレビで見て,その後,鉄鋼業研究者となったため,宝山製鉄所建設とそれに対する新日鉄の技術協力が舞台の一部となる原作を精読,数年前に『華麗なる一族』もいわば鉄鋼業ものだよなと思って読んだ。

 『大地の子』で感銘を受けたのは,日本と中国の双方の社会の複雑な闇と,それを乗り越えて生きようとする人間の強さを描いたことであった。山崎さんは執筆構想を立てた当時の胡耀邦総書記に「中国のよいところも悪いところも,遠慮なく書いてください」と言われ,その通りにしたという。中国の現代化を目指す懸命な努力も描けば,国民党軍・八路軍双方による長春市包囲による飢餓も描き,文化大革命による弾圧も描いた。中国残留孤児である主人公を,中国人の育ての親たちが命がけで文革の弾圧から守ろうとする姿も描けば,その妹を別の中国人夫妻が労働力として死に至るまで酷使する姿も描いた。

 このドラマが日本で放映されて日中関係が緊張しただろうか。当時の日本で,最近のようにことあれば中国の悪口を言う人間が増えただろうか。それはなかったと記憶する。このドラマから,日本も中国も光と影がある社会であること,だからこそ双方とも人間の強さを信じて生きねばならないこと,愛情が国境を超えるのは難しいが不可能ではないこと,少なくとも二度と戦争を起こしてはならないことを感じ取った人が多かったからではないかと思う。

 自分の国の影の部分は見せないことで評判をとろうとする態度も、隣国の達成はくさし欠陥はあげつらうという態度も浅はかだ。このドラマが作成されたときには、中国政府も日本の視聴者もそのような態度はとらなかった。

※『大地の子』には,戦前から1950年代まで中国に住んで,長春市包囲で死線をさまよった遠藤誉さんから,自らの著作を引き写したのではないかという批判があり(裁判では遠藤さんが敗訴),いささかの警戒感も私は持っている。また,遠藤さんの著作からも私は多くを学んでいる。しかし,『大地の子』から私が受けたインパクトが大きかったことも事実である。

NHKオンデマンド ドラマスペシャル『大地の子』
山崎豊子(1994)『大地の子(一)』文藝春秋,Kindle版。





2019年2月11日月曜日

劉江永先生と東日本大震災のこと (2013/10/15)

 清華大学の劉江永先生は,中国における日本問題専門家の政治学者である。多くの問題で中国政府に近い見地からこれを補強し,日本政府を批判する論陣を張っている。日本政府から見れば論敵の中の論敵といってよい。ふだん数々のことで日本政府に批判的な私であっても,尖閣諸島などについては劉先生の主張に賛成できないところが多い。

 しかし,私はここで,劉先生が東日本大震災に際して,日本と中国の人々にとって重要な発言をしていたことを紹介したい。

 2011年3月11日,大地震発生のニュースはただちに中国にも伝わった。北京で夕方からテレビに出演した劉先生は,以下のように発言した。

「日本にいる中国人が中国に避難できるように政府は支援すべきだ。中国人の安全を守らねばならないし,これから食料や物資も足りなくなるから,中国人を退避させることが日本の被災者のためにもなる。ただ,リビアの場合と異なり(当時,中国はリビア在住の中国人を全員帰国させようとしていた),日本にいる中国人は数が多いし,日本で働いている人や日本人と結婚している人など,生活基盤が日本にあって帰国できない人もいる。だから帰国を強制するのではなく,帰国するかしないかは当人の自由に任せ,帰国したい人を支援するのがよい」

 中国政府が,この意見を直接に聞いたのかどうかは,私は知らないし,劉先生本人もわからないそうだ。しかし,実際に中国政府がとった措置はこの提案のとおりであった。東北大学に通う留学生の間では,3月13日ころから政府が帰国を支援するという噂が流れ始めた。私たち教員は,それが本当かデマか判別することができず,中国大使館に電話をかけても常に話し中で通じないために苦慮していた。15日になって,ついに大使館と総領事館のウェブサイトに公告が中国語で掲載された。私はゼミの留学生の助けを借りてこれを解読し,「帰国したいものは支援するから,○日○時に××に集合せよ」という意味であり,帰国を命じるものではないことを確認した。

 この確認はきわめて重要であった。まず,帰国支援が本物であったことにより情報の混乱が収拾された。また,大学の政策を,留学生を保護することから,帰国する留学生に必要なメッセージを出し,今後の連絡経路を確保することにシフトさせることができた。さらに重要なことは,帰国した大半の留学生だけでなく,種々の事情があって帰国しないことを選んだ留学生の立場も守られたことであった。彼/彼女らが政府の帰国命令に反しているわけではないことが確認できたので,本人は中国政府との関係を心配する必要はなくなり(他方で日本に残ったために,この後,心配する親類を説得したり,放射線の恐怖とたたかうという困難に直面した),大学も,留学生と大使館の間に挟まってしまうという事態を避けることができた。中国政府はともすれば一方的な命令を出しがちであるが,この時の「帰国したい者は支援する。帰国するかどうかは本人の選択」という方針は,絶妙なものだったのである。実際,帰国を選んだ学生たちは,大使館の支援の下で,日本人との摩擦をまったく起こさず,秩序を守って帰って行った。また日本に残った学生たちも,大使館から何らとがめられることはなかった。

 私は,2012年3月末に東北大学で開催された「東日本大震災1周年 日本再興東北フォーラム」の会場で劉先生と出会った。劉先生は,仙台市に寄贈するための「絆は力」という書を持参されていたが,どうすれば市に届くかわからず,スケジュールの都合で会議終了直後に帰国しなければなかったので,事務局を訪ねてこられたのだ。私は,このときに,劉先生の震災当日の提案のことをうかがった。書は,会議終了後,劉先生に代わり,経済学研究科長から仙台市に届けられた。

 劉先生は日本政府と鋭く対立している。それは確かなことだ。私は劉先生の政治・外交に関する主張を肯じ得ない。それも確かなことだ。しかし,劉先生は日本人を憎んでいるのでもないし,日中関係を破滅的対決に追い込もうとしているのでもない。彼自身の立場から日本人を思い,日中関係を発展させようとしているのである。それもまったく確かなことだと,私は信じている。そして私は,あの不安と混乱の中で,日本人と中国人の双方にとって適切な提案をされた劉先生に心から敬意を払う。

2019年2月10日日曜日

手塚治虫先生が亡くなられた日 (2018/2/9)

 1989年2月9日。私は大学から帰って築30年(推定)のボロアパートで「ニュースステーション」を視ていた。突然,画面が白黒になって「空を超えて~」という歌をバックに「鉄腕アトム」のアニメ画面が。ギクリとしたが,案の定,小宮悦子さんが手塚治虫先生が亡くなられたことを告げた。
 
 子どものころ,私にとって「先生」とは手塚治虫先生と藤子不二雄先生だった。家にあったカッパコミクス版『鉄腕アトム』が私にとっての未来であり,虫コミックス版『オバケのQ太郎』が私にとっての今だった。この世界と続いているすぐそばの世界。ロボットやオバケと友達になれる世界にわくわくした。それだけに,『アトム』でロボットと人間のシビアな対立が描かれ,アトムが破壊される「青騎士の巻」は衝撃で,おそろしくてめったに読み返せなかった。とくにカッパコミクス版は青騎士の巻で終わっており,壊れたアトムを抱えてお茶の水博士が科学省に向かうところで終わっていた。私は『アトム』はこの悲劇で幕を閉じたのだと思っていたのだ。その後にアトムが復活するのだと知ったのは,何年か後にサンコミックス版に触れてからだった。

 『アトム』で最も印象的なセリフは,「人工太陽球の巻」に搭乗する英国諜報部員ホームスパンのものだ(ホームズと007が混じっている?)。彼は事件調査大けがをして頭脳以外はすべて機械になっているが,自分は人間だということに誇りを持ち,その反面ロボットをひどく嫌っている。アトムとの交流で考えを変えていくが,事件の最後に負傷して頭を打たれ,頭脳も機械化してロボットになってしまうのだ。彼は回復して新聞記者に語りかける。

「私をロボットと呼ぶなら呼ぶがいいよ。しかし私は…」
「ロボットになれたことを誇りに思うくらいだ」
「それはロボットがどんなにりっぱなものかということを知ったからだ」
「それは手術をうけるずっと前,アトムくんによって教えられた……」
「人間のように欲ばらずいばらず,ただ正しいことのためにつくすロボットたち」
「諸君,私はよろこんでロボットの仲間に……」

カッパコミクス版とはこんな感じのものです。
「光文社カッパコミックス版『鉄腕アトム』全32巻表紙集」『昭和otaku画報』ウェブサイト。
http://www.gahoh.net/enta/atom/index03.html

「手塚治虫について:プロフィール」手塚治虫オフィシャルサイト。
http://tezukaosamu.net/jp/about/

妙に親近感の湧く,吉田裕『日本人の戦争観』(2013/12/9)

 吉田裕教授は、まっすぐなリベラル派歴史家の代表のように思われていますが、子どものころは軍事マニアだったそうです。メディア、とくに軍事マニアの雑誌(『丸』とか)に日本人の戦争観の変化を読み込んで分析した『日本人の戦争観』岩波書店、1995年はたいへん面白い本でした。

 というのも、実は、私も小学生のころ軍艦マニアだったからです。高城肇『軍艦』(少年画報社,1962年)という本を小学校近くの子ども文庫で借りて、「哀れな戦艦、山城」とか「不思議な空母、瑞鶴」とか「突っ込め!防空駆逐艦秋月」などの話に夢中になりましたし(※)、小学校の図書室にあった伊藤正徳『太平洋海戦史』(おそらくあかね書房から出ていた少年少女20世紀の記録というシリーズ)も何度も読みました。親もまあ、左翼なのに寛容なものでプラモをずいぶん買ってくれました。その時に覚えた感覚は、吉田教授もある時期の戦記物の傾向として指摘した「海軍=知的で平和愛好、陸軍=ひたすら好戦的」という史観であり、山本五十六連合艦隊司令長官を極度に高く評価するものでした。いまではそういう考えから遠ざかっているものの、そう思いたくなる気持ちは何となくわかるつもりです。

 日本人は、なぜ日本軍をめぐる物語に惹かれてしまうのか。それを考える上で、『日本人の戦争観』は思想の左右を問わずおすすめできる一冊です。いまでは岩波現代文庫に入っています。

※2019年2月10日。書誌情報等を微修正。

吉田裕(2005)『日本人の戦争観:戦後史の中の受容』岩波書店。

2019年2月4日月曜日

大野健一『産業政策のつくり方』有斐閣,2013年,をいただいて (2013/12/17)

 大野健一氏より新刊『産業政策のつくり方』をいただいた。

「ある国の産業戦略がうまくいかないのは、何をすればよいか皆目わからないという場合もあるだろう。だが、より普通なのは、直面する課題も解決の方向も大体把握できているが、具体的な施策を戦略的に打ち出すための手順や組織が不明あるいは未熟なために前に進めないという事態である。すなわち、政策のWHATではなくHOWの問題である」(ii頁)。
「これまでの政策研究や政策提言は、WHATの描写は勧告が多く、HOWへの有益で戦略的な示唆が少なかったのではないか。とりわけ、当該国の政治社会状況を無視して長い政策要求リストを突きつける、あるいはどこの国に行っても同一の政策を説いて回るといったアドバイスのあり方は、有害無益というほかはない」(ii頁)。
「本書の目的は、政策当事者--国家指導者、政策の企画者および実施者、あるいは彼らを補助する専門家や研究者--に対し、開発政策の質を高めるための実践的かつ具体的なアイデアと材料を提供することにある」(vi頁)。

 大野氏に出会ったのは2000年のベトナム市場経済化プロジェクト(石川プロジェクトフェーズ3)の時であり、以後、7年くらいは高い頻度でベトナムを訪問して鉄鋼業育成政策を研究した。

 大野氏の問題提起に関連することで、当時、私が関連して感じた疑問は、「政策提言は、政策担当者に届いているのだろうか」と言うことであった。有効なプロジェクトであったことを前提にいささか戯画化して述べると、例えば、ベトナム計画省とJICAで国際会議を開く。逐語通訳で時間のかかる発表、長丁場の会議による疲労(隣のホールで音楽会が始まり、ツァラトストゥラが鳴り響いたこともあった)、ベトナム内の研究者や官僚の序列に影響された出席者の選択などゆえ、政策論がストンと腑に落ちるには至らない。そして発表論文に基づく報告書の作成、翻訳、送付。任務は達成されたと双方の官僚は満足し、政策評価を求められても作文は可能だと事務担当者は納得する。報告書は棚にしまわれる。研究者は大学に帰還して終了。内容は忘れられて、また別のプロジェクトが起こされ、一から議論をやりなおす。これでは予算消化と自己満足であり、だめに決まっている。

 この傾向に対して大野氏がとった手法は、実際的な議論ができる若い研究者を国民経済大学(NEU)から組織すること、政策を実際に起案したり、決定したりする人のところに報告書をきめ細かく届けること、こちらから政府機関を訪問して対話したり、実務者に呼びかけての小規模ワークショップをすることであった。つまり、届くべきところにメッセージが届くまで、コミュニケーションの機会をつくり続けるのである。私もいっしょに行動して議論をするうちに、政策現場ではなにが問題であり、何がボトルネックなのかが具体的にわかってきた。それは経済学の論理から自動的に生じる、それゆえ経済学者がどこに行っても同じように繰りかえすような論点(産業政策をするべきか、すべきでないかとか)とは異なっていた。実際的で具体的な論点に答えなければならないというのは、しんどいことだが、確かにベトナムの現実とつながっていると感じられる、やりがいのある仕事でもあった。

大野健一『産業政策のつくり方』有斐閣,2013年。

2019年2月3日日曜日

東島誠・與那覇潤『日本の起源』太田出版、2013年を読んで (2013/12/13)

 東島誠・與那覇潤『日本の起源』太田出版、2013年。2週間くらいかけて少しずつ読んだ。

 日本史について、時代別にどのような研究があり、それらの研究が、現時点の社会とどのようにつながっているのかがわかるという意味で、有益な対談。軽いノリなのに典拠注がびっしり充実していて参考になる。読書や勉強への実用性がある本だから、棚に保管しておく価値があると思う。

 しかし、私は、茶化しながら論評するというスタイル、とくに「○○はもう賞味期限切れですから」と決めつけるスタイルに抵抗感があり、なかなかお二人の世界に入っていけなかった。私は、歴史とは「事実かどうか」と「それをどう解釈するか」の二段重ねであり、前者を背景に持ちつつ、直接には後者であるのだと思う。だから「事実かどうか」「だけ」を争うのもおかしいと思うが、解釈だけを争う、例えば、面白い見方かどうかだけを争ったり、誰にとって都合のいい議論かだけを争うのも納得いかないのである(※)。この本はやや後者にブレ過ぎだと思う。

 とはいえ、自分も若いころはこういうしゃべり方をしていたなあと思う。齢を重ねるにつれ、はしゃぎすぎると足元をすくわれてすっころび、たいていのことは自分に跳ね返ってくると思うようになったという個人的事情も、この本との距離感の原因であろう。

※同僚の小田中直樹氏による『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年の見方に私は共感する。これも相当に軽めのノリで書かれた本だが。

東島誠・與那覇潤『日本の起源』太田出版、2013年。

2019年2月4日追記。誤解なきように付言しますと,私は與那覇潤『「中国化」する日本』はすごい本だと思い,影響を受けています。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/11/2011php2012-2013101.html





2019年2月1日金曜日

菅野よう子先輩のこと (2012/11/25)

 小学校、中学校、高校とは狭い世界である。極論すると、独自の雰囲気を持った閉鎖空間と言ってもいい。その中は楽しく、居心地がいい時もあれば、恐ろしいときもある(いじめられている場合など)。
 私は大学に行き、授業やサークルや社会活動を通じて、世界は自分が創造していたよりもはるかに広いのだということを、ようやく肌で感じ取ることができた。もっとも、その時の感触よりもさらに広大な世界に日々直面し続けて、いまも戸惑い続けているのであるが。
 小学校、中学校、高校の、繰り返しのような毎日の中で、ほんのわずかな時間だけ、周囲の空間ががらりとかわり、校舎や体育館の壁が消えて、数十倍、数百倍に広がりながら輝く瞬間があった。それは、ある女子の先輩がピアノを弾く瞬間であった。音楽関係の行事はこの先輩なくしては成り立たなかった。
 世界は広い。言葉では言い尽くせない。あの先輩のピアノはそれを教えてくれた。
 1990年代のある日。ある新興国を扱うNHKスペシャルのオープニングテーマで、私の心を揺さぶるメロディが流れた。これはもしや……と思ったところ、案の定、あの先輩の曲であった。
 私は、時々、ファーストガンダムをリアルタイムで見たことを学生に自慢することがある。それよりも自慢できるのは、あの先輩のピアノを小学生のときから聞いたことである

カルテル・トラスト・コンツェルンと独占概念についてのノート (2012/12/27)

 カルテル・トラスト・コンツェルンを独占の形態とするのは、独占論の古典的な区分である。私の師匠、金田重喜氏もよくこの3形態を論じていた。
 金田氏の場合、現代資本主義の支配的な資本形態は「独占資本」でなく「金融資本」であるとすることにこだわった。銀行資本と産業資本を両方含むコンツェルンを金融資本の具体的な存在形態とし、支配することから利潤を獲得することの重要性を強調したのである。これは古賀英正『支配集中論』と、Victor Perlo, The Empire of High Financeの影響下での見解であった(Perloの政治行動は論争になっているようだが、経済学上のことではないし、いま自ら検証する時間がないのでここでは触れない)。
 いま金融資本はわきに置くとして、カルテル・トラスト・コンツェルンがそれ自体独占体であるかどうかについては、今日では疑問視されている。カルテルはそれ自体の意味のうちに競争制限を含むので独占と言える。そして、独占は必ず競争を歪めるともいえる。ただし、生産の組織化や設備投資の増進に結びつく場合もあるので、独占といっても生産力を停滞させるとは限らない。これは現代の産業組織論をひもとくまでもなく、古くからシュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』や白杉庄一郎『独占理論の研究』が指摘していたところである。
 M&Aによる企業合同という意味のトラストや親会社・子会社による異業種間結合という意味のコンツェルンは、それ自体が独占なのではない。それ自体は別の原理、例えば規模の経済性や補完性、取引費用の節約、資本市場の内部化といった効率性増進の原理で成立しているかもしれないからである。これらは古くはガルブレイスなどによって指摘されていたが、いまでは経営組織論や企業の経済学の発展によって体系的に明らかにされており、私の授業でも取り上げていることである。このような内部組織や企業間関係の理論が今日では絶対に必要である。マルクス経済学が産業論で弱体化したのは、このあたりの研究が弱く、あまりに多くのものを独占概念で理解しようとしたからだと思う。
 とはいえ、トラスト・コンツェルンが独占でないと言い切るとまた逆の行き過ぎである。ある産業や、産業横断的な経済領域において、競争制限的な行動が支配的になり、その原因がトラストやコンツェルンによる経済力集中であるならば、それは独占であろう。独占による競争の歪みは分配の不平等の助長や社会的排除につながりやすく、場合によっては社会的生産力の停滞を招く。独占は現代資本主義のすべてではないが、一つのアクチュアルな問題であり続けている。
 もうひとつ考えねばならないのは私的独占と政府による独占の関係である。両者には共通項もあれば異なるところもある。例えば、成立した後の競争制限効果は共通であるが、存立基盤は異なっている。私的独占は、企業や企業集団が産業組織を操作することで参入障壁を築き、戦略的行動を行うが、政府による独占は国家権力によってこれを行うからである。各経済における規制産業の研究や、中国を含む政府による所有・経営関与の強い経済における産業研究には、政府による独占の独自性に関する研究が必要である。近年、中国の大型企業では、国有資産管理監督委員会が集団企業を100%所有し、集団企業が、股ブン企業(株式会社)を過半数ないし少数持ち株支配するという構造がよくみられる。この構造については故今井健一氏の研究が正面からとりあげていたと記憶するが、鉄鋼業でも中屋信彦氏の研究がある。中国企業・産業研究の重要論点であろう。