2019年1月19日土曜日

映画版『ラプラスの魔女』(2018/5/5)

  東宝シネマズで映画『ラプラスの魔女』を観る。原作ではかなり情けないキャラの青江教授をそのまま櫻井翔に演じさせるのは大人の都合上,無理だろうと思っていたら,案の定,家庭に居場所がない父親という設定はオミットされていた。しかし,それ以外は結構元のままで,広瀬すず演じるヒロインに「ですます」調で話すなど,かえって弱気になっている面も。ポスターの強気そうなイメージ画像は誇大広告である。
 しかし,原作を読んだときは気づかなかったが,この作品のキャラ配置は,つまり「主人公男子は事の成り行きを観察して語るだけであり,本当に力を持って事態を動かしているのはヒロイン」という,近年のアニメ・ラノベ界でしばしば見かける設定が,ついに東野圭吾ミステリーにまで採用されたということではないか。それはまだしも,その主人公が大学教授で,若者女子に「現場に連れてって欲しいの!」とか「車出して,速く!」とか言われるとあっさり流されて言うことを聞いてしまうというのはどうなのか。そこはかとない不安を感じざるを得ない。

「ラプラスの魔女」公式サイト。

2019年1月17日木曜日

宮部みゆきミステリーにおける「ピュアな少年」のフェードアウト(2013/12/29)

 宮部みゆきさんの現代ミステリはおそらく4分の3くらいは読んだと思う。いつも楽しく読んでいたが、ある時期まではどうしても気になることがあった。物語のどこかにピュアな人間、とくに少年を置いて、それを価値基準として世界が解釈されていることだった。そのために、勧善懲悪とは言わないが、単一の価値観によって物語が裁断される傾向があり、そこに納得がいかなかった(急いで付け加えると、『火車』にはそういう単純化はなかったと思う)。
 しかし宮部さんは、『理由』あたりから、様々な価値観、様々な人生を交錯させて描くようになった。話は多層的になり、複雑な現実を複雑なままに描くようになったと感じられた。直木賞を受賞されたのももっともなことだ。
 杉村三郎シリーズは、大コンツェルンの令嬢と結婚してコンツェルンの、ただし目立たない職に就いた男性が主人公である。その性格はまじめで正義感が強く、いわばピュアであるが、社会的な立場は複雑かつ中途半端、すわりの悪いものである。ピュアな人間がそのまま現代社会で生きることはできないということを作者が悟り、そのことがもたらす問題を自覚的に描こうとしたからではないだろうか。

宮部みゆき『ペテロの葬列』集英社,2013年。

2019年1月16日水曜日

1969-70年代の東北大学学生運動に関する2論文を読んで (2017/2/11)

 私が入学する数年前まではもう歴史になったか。1本目の論文はa)1969年の大学臨時措置法と教養部封鎖問題,2本目の論文はb)1969-71年頃の経済学部などでの学部長選挙への学生参加問題,c)1972年10月以後の教養部サークル棟移転問題,d)その延長線上にある1975年の処分問題とそれをめぐる全共闘系学生運動の暴力化をとりあげている。加藤氏は名誉教授が保管されていた文書を史料として用いているので,文書に収録されていなかった話題は取り上げられていない。例えば,教養部でa)とd)の間に起こったe)1972年前半の学費値上げ反対無期限ストと大量留年問題や,経済学部でb)の背景となったf)経営学科設置問題だ。

 2つの論文は当時の学生運動の状況をよく再現していると思う。ただ,細部は十分ではないところもある。例えば,私の知る限りd)の事実関係は,途中から不鮮明であり,たぶん誤認もある。これは使用した史料の限界だろう。教養部教授会議事録や配布資料を総ざらいすれば違っただろうが,史料館の教員と言えどもアクセスできなかったのかもしれない。また,関係者はまだ多数お元気でいらっしゃるのだから,ヒアリングで資料を補えばもう少し細かく書けたようにも思うが,そうすると今度は多数の人がそれぞれに異なる立場で証言することが予想され,きりがなくなると判断されたのかもしれない。

 著者が史料館においでならば,そのうちお会いできるかと思ったが,東京大学文書館に移られてしまったようだ。

2019/1/16追記。また東北大学に戻られたようだ。

加藤諭「1969年における東北大学の学生運動 : 豊田武教授収集資料を通じて」『東北大学史料館紀要』第7号,2012年3月。

加藤諭「1970年代における東北大学の学生運動」『東北大学史料館紀要』第9号,2014年3月。



緊張感を3割ほど欠きつつ,話は楽しく進む:東野圭吾『危険なビーナス』(2016/9/22)

東野圭吾『危険なビーナス』講談社。帯にある「失踪した弟の嫁に会った瞬間、俺は雷に撃たれた」という文句がすべてを物語る。ラノベか、アダルトか。いや、ちゃんと話が組み上がった東野ミステリーなのだが、主人公の獣医、伯朗のダメさ加減と、「お義兄様」「お義兄様」というヒロイン楓のむやみなはしゃぎぶりによって、本当に弟のことを心配してるのかと読者にかすかな不安を与えつつ、緊張感を3割ほど欠きながら、謎解きはそれなりに進む。そういうのが好きなら楽しめる。イラっと来る人は楽しめない。

個人的には,主人公と読みは違うが同じ名前の同僚がいるので、最初50ページほどイメージの混乱に悩まされた。

東野圭吾『危険なビーナス』講談社,2016年。

2019年1月12日土曜日

子どもの人生の破壊としての「グリコ・森永事件」:塩田武士『罪の声』を読んで(2016/12/15)

 塩田武士『罪の声』講談社、2016年。『週刊文春』を買ったらミステリーベスト10国内部門第1位で紹介されていたので買って読んだ。グリコ・森永事件を題材にしたミステリー。主人公が、ある日、「ギンガ萬堂事件」で企業恐喝に用いられた子どもの声が、自分の声であると気がつく。
 面白く一気に読んだ。グリコ・森永事件で明らかになっている事実の裏側は、実はこうではなかったかという想像をかき立てられ、心は一気に昭和に飛び、そして21世紀との往復を始める。そのたびに、パズルのピースは少しずつ組みあがっていく。
 この小説の焦点は、事件に巻き込まれた子どもであり、子どもであった今の大人である。犯人が誰なのかは問題だが、人間としての犯人は、実はさほど重要ではなく、むしろ矮小なものとして描かれている。そこは、たとえば犯人グループと刑事にフォーカスした高村薫『レディ・ジョーカー』と大きく異なる。この違いが、私には印象的であった。
 極論すれば、本書は、「ギンガ萬堂事件」≒「グリコ・森永事件」を、戦後史の闇とか企業史の秘密とか犯人像とかの問題ではなく、子どもの人生を破壊した事件なのだととらえているのである。これは非常に大胆で新鮮な視点だ。しかし、そこからものを言おうとすると、つまりは「子どもたちを守ろう」という、正しいがありふれた命題に帰結しかねない危うさもある。この危うさを伴った新視点を著者は打ち出した。その結果については、私の偏った感性を披露するよりは、それぞれの評価に任せるべきだろう。



塩田武士[2016]『罪の声』講談社。

佐々木譲『回廊封鎖』と『地層捜査』(2012/11/24)

 佐々木譲『回廊封鎖』集英社、2012年8月と、同じ作者の『地層捜査』文藝春秋、2012年2月とは、近い時期に出版されているが、物語の色調は鮮やかなほどのコントラストをなしている。前者は消費者金融問題が背景をなし、六本木の超高層ビルで開催される国際映画祭が舞台となり、香港から来日する実業家をめぐる暗殺計画が展開する。決着は超高層ビルの回廊でつけられる。後者は公訴時効の廃止が背景となり、15年前の老女殺人事件の再捜査が、東京の一つの町が舞台となって繰り広げられる。捜査のために主人公の刑事は、その町をひたすら歩き回り、失われた過去を掘り下げていくことになる。『回廊封鎖』では国際的な舞台の中で現在の主人公たちが直面する日本社会の冷酷さが浮かび上がり、『地層捜査』では一つの町の地層のように積み重なった出来事を掘り下げることで、主人公は過去の日本社会の鬱々としたやるせなさに直面する。
 両方を読んでどちらに魅かれるによって、読者は自分の時間と空間に対する感覚を知ることになるのかもしれない。私は後者に魅かれた。私はアジア産業の現状分析家であり、地域の歴史研究に方向転換したいと思っているわけではない。しかし、失われた過去というものへのこだわりが強く、現在を過去からの帰結とみる傾向が強いことは事実である。これが心情告白なのか、学問的方法論なのかはわからないが、二つの犯罪・警察小説を読んで、自分の持つ空間・時間感覚に気がつかされたことは事実である。この2冊のコントラストに何事かを感じる人が他にもいるだろうか。

佐々木譲『回廊封鎖』集英社文庫,2015年。
佐々木譲『地層捜査』文春文庫,2014年。