2018年12月25日火曜日

松竹伸幸「元外交部長が明かす 矛盾に満ちた共産党の安保政策に共感できる理由」を読んで (2016/1/6)

 共産党の元外交部長で,党中央と方針が合わずに辞任したが,いまもリベラル・左翼の立場で論陣を張っている松竹伸幸氏による論稿「元外交部長が明かす 矛盾に満ちた共産党の安保政策に共感できる理由」。共産党の自衛隊政策の変遷についての要約は正確だと思う(ただ,1970年代のスローガンは「中立・自衛」でなく「非同盟・中立」であったと思うが)。まず,左右問わず,共産党というといつでもどこでも護憲派で,自衛隊違憲論で,自衛隊即刻廃止論だと思っている方には,一読をお勧めする。昔も今も意外とそうではないし,結構,主張が変わっているのだ。
 ただ,私は,松竹氏よりも,共産党の自衛隊観は以前は単純だったと見る。つまり,もっとマルクス主義の古典的国家論に影響されていたので,「民族独立・民主主義の権力の下では,これを守る自衛の軍はありうる,対米従属・独占資本の政権の下では悪いことばかりするから不可」という命題が底に座っていたのだ。そのために日本国憲法の規定を活用していたにすぎない。だから,政権をとったら,自衛隊は大幅縮小だが原則廃止ではなく,国民の総意次第で改憲して防衛力整備もありと言っていたのだ。
 これはある意味硬直的な理論なのだが,皮肉にも逆の効果も持っていた。旧社会党が「非武装・中立」という,いくら何でも無理だろうという理想主義を掲げたため,共産党の方が「右」で現実的な対応をしそうに見えるということが起こったのである。外交政策で,旧社会党よりもむしろ共産党の方が民族主義的で,ソ連や中国や北朝鮮の覇権主義的行為を批判することが多かったという事情もあり,これがまた共産党の方を現実的に見せた。このため,官僚などの一部にも共産党と組む人が現れる(元外務官僚の浅井基文氏など)一方,徹底したヒューマニスト,理想主義的平和主義者ほど共産党は日和見だと「左」から批判する現象が,1980年代まではよく見られていた。
 そして,この20年ほどの共産党の動きは,松竹氏が自らその中で悩まれたように大きな転換だ。「自分たちが権力をとらないと自衛隊の行動は認められない」というマルクス主義の図式の単純適用をやめ,簡単に言えば「自衛隊が国民を守る行動をとるならよい,国民を脅かし,侵略に加担する行動ならだめ」というプラグマティズムに転換したのである。自分たちが政権をとっていない時でも,日本が攻撃されたときに,本当に個別的自衛権と専守防衛に徹して行動するならば,否定はしない,ということである。集団的自衛権は,自衛でなくアメリカの世界戦略の手伝いだから悪いという批判だ。
 それは,一方から見れば,政策的にも理論的にも柔軟で現実に即した対応だ。しかし,矛盾もある。やはり松竹氏が紹介しているように,共産党はマルクス主義国家論の単純図式から離れる過程で,もうひとつ,日本国憲法9条の理想を強調し,自衛隊違憲論で徹底することによって平和運動の理念を掲げるという動きも強めているからだ。そうした憲法論から言うと,プラグマティズムへの転換は問題だ。何しろ,自衛隊は違憲だけど即時解散はできないというだけでなく(ここまでは従来も言っていた),時によっては自衛のため活躍してもよい,というわけで,自分たちの考える憲法論と政策との間に矛盾が出てしまう。そして,原理的にプラグマティズムで自衛隊を取り扱ってよいというならば,憲法は時々の政権や世論動向によって変更してはいけないとか,歴代の国会審議を無視するような解釈改憲はいけないとかいう,自らの主張が危うくなる。松竹氏が指摘する共産党の矛盾を敷衍するとこうなる。
 ただ松竹氏は,共産党が抱えるこうした矛盾を,共産党がいい加減だからと非難するのではなく,矛盾せざるを得ないような現実によるものだ言う。「そもそも、立憲主義を守るということと、国民の命を守るということと、その二つともが大事なのである。その二つをともに守ろうとすると、誰もが矛盾に直面するのである」。そして,安倍政権の言う通りにすれば確かに矛盾はなくなるが,その方が国民の生命が脅かされるので,「スッキリしていればいいということではない」という。また,非武装中立にすればやはり矛盾はなくなるが,氏はこれも国民を守れないと批判する。「矛盾のなかで苦しまないような政党、あまりにスッキリとした政党には、ちゃんとした政策をつくれない。その代表格がかつての社会党だった」という。矛盾している方が,矛盾しないよりましなこともありうるというのだ。プラグマティズムの側から見れば松竹氏の言うとおりだろう。しかし,矛盾はやはり矛盾であり,理論的に批判され,それによって運動が動揺したり,弱まったり,不団結が生じたりすることもあり得るだろう。
 法や政治は専門外ではあるが,私は,これが共産党や,これと協力する平和運動や護憲勢力が考えておかねばならない,ひとつの大きな問題だと思う。松竹氏の論稿は,その所在を教えてくれるものだ。

 松竹伸幸「元外交部長が明かす 矛盾に満ちた共産党の安保政策に共感できる理由」 『iRONNA』2016年1月5日。

2018年12月20日木曜日

松井和夫先生のこと (2014/10/19)

 1988年,日本証券経済研究所大阪研究所の松井和夫主任研究員が連続講義のため東北大学に来られ,前期課程院生だった私に研究指導をしてくださった。その時にいただいた,論文原稿のコピーが出てきた。この論文は後日,『季刊経済研究』11巻2号に掲載された。肉筆とはいかないが,貴重なものである。この時の指導まで,私は「M&Aはマネーゲームになっていて,産業再編としては無意味化している」という先入観に固まっていた。松井氏は,そうではなく,産業再編の論理から生じたM&A&Dは現に行われていること,投機化するに際しては,産業再編の論理が投機に逆転していくメカニズムが繰り返し作用しているのであり,その逆転のメカニズムをつかむべきことを説いてくださった。その原理的な根拠としては楊枝嗣朗『貨幣・信用・中央銀行』を参照することを勧めてくださった(※)。この指導で私の修論の視角は大きく変わった。そして,M&Aにせよ為替にせよ株式にせよ,「投機だ,マネーゲームだ。市場の機能は無意味化している。だから通常の経済学はもう意味がない」式の批判はやめることにした。

 松井氏は,研究所の『証研レポート』に毎週(毎月ではない)アメリカの金融・証券情勢に関するレポートを書きまくり,さらに論文誌『証券経済』にもたびたび執筆する看板研究員で,実務の世界に大いに貢献されていた。しかし,実は大学院では名和統一ゼミ出身で(※),この写真の論文のタイトルに見られるようにマルクス経済学に造詣が深く,ヒルファーディングやレーニンが述べた金融資本とは,つまり産業と銀行のどういう関係のことなのかを,多様な諸現象のうちに探求されていた。同じマルクス経済学の中でも,現代の金融の諸現象をただ「マネーゲームだ」と非難して終わる研究もあれば,松井氏のように,産業再編の媒介,恐慌の価値破壊機能の代替,決済システムを通した情報集中を基礎とする銀行の産業政策の表現,など,分析的にとらえようとする研究もあったのだ。

 松井氏は1991年に大阪経済大学の教授になられ、2004年に逝去された。私にとって,価値観の転換につながるほどの影響を与えた,忘れがたい先生の一人である。

松井和夫氏略歴・業績目録(『大阪経大論集』55巻5号)
http://www.osaka-ue.ac.jp/file/general/5125

※(マニアックな注)ということは,大阪市大の院生ではあったが,貨幣・信用理論では同大学で絶大な影響を持っていた川合一郎理論を採用されなかったということだ。どちらかと言えば九州大学の岡橋保理論に近かったようである。そのせいか,東北大学での懇親会では村岡俊三先生と話が合っていたことを覚えている。

2019/12/20 表現を修正。

続稿。「続・松井和夫先生のこと」Ka-Bataブログ,2018年12月27日。


2018年12月14日金曜日

アニメの労働環境おそるべし+ミッキーマウスのストライキ (2015/3/14)

 濱口桂一郎さんのブログ。アニメ産業の労働問題を取り上げている。トム・シート『ミッキーマウスのストライキ アメリカアニメ労働運動100年史』の訳者久美薫さんの投稿に濱口さんが応えての紹介だ。

 何が重要かというと,久美さんはこの本の訳者解説「アニメーションという原罪」をネットに全文公開していて,このブログからリンクが貼られている。この訳者解説が,実は「戦後アニメ産業労働問題史」になっているのだ。見つけたら,あまりの迫力に思わず読みふけってしまった。

 『鉄腕アトム』の製作費が安すぎたことは有名だが,『オバケのQ太郎』,『アルプスの少女ハイジ』,『ミラクル少女リミットちゃん』『うる星やつら 乙女バジカの恐怖』などの作品製作過程で何が起こっていたか,高畑勲,宮崎駿,大塚康生らの大家たちは労働問題にどう関わってきたかが掘り下げられている。こういう話題では必ず出てくる「アニメーターは本質的にミュージシャンなどと同じ自営業です」「ラーメン屋がスープ仕込むのに何時間と営業時間外も働いてて『残業代』と言う奴いるか」などの言説もとりあげて論じている。しかも,ただの告発ではなく,業界の構造にどういう問題があるのか,アメリカのように労働組合が強くならないのはなぜなのか,下請けとフリーランス化はどのようなロジックで進められているのかなど,問題を考えさせる叙述になっている。

 アニメ産業に関心ある方,まずこの訳者解説を読んで損はないと思います。

濱口桂一郎「日本のアニメ産業環境は厳しいのではない。”違法な劣悪環境”である。」hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳),2015年3月。


2015年3月15日追加。トム・シート(久美薫訳)『ミッキーマウスのストライキ! アメリカアニメ労働運動の100年史』合同出版、2014年。買ってみたら、ピケティとほぼ同じ厚さ。

出版社のページ。
http://www.godo-shuppan.co.jp/products/detail.php?product_id=438





2018年12月5日水曜日

「利用可能な最善の技術(Best available technology=BAT)を途上国に移転する」という日本鉄鋼業の地球温暖化対策について(2012/12/5)

 この投稿は6年前にFacebookに書いたものだが,日本鉄鋼業の地球温暖化対策を検討する上でほとんど古くなっていないので,アーカイブする。

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 利用可能な最善の技術(Best available technology=BAT)を途上国に移転する手法について。この手法は有効だが、以下のような限界を踏まえて用いる必要がある。とくに、相手がアセアン諸国やインドならまだよいのだが、世界最大の鉄鋼生産国である中国に対して効果が薄いことに気をつける必要がある。
 第1に、この手法は日本と対象国の鉄鋼業において、エネルギー効率に差があればあるほど有効であり、差が縮まってくると当然だが有効でなくなる。ざっくり言えば、ロシア、ウクライナ、この記事で取り上げられているインドあたりにはかなり効き目があるだろう。しかし、たいていの日本人には意外なことだろうが、中国への効き目は以上の諸国よりも小さい。鉄鋼業に関する限り、中国のエネルギー効率は向上傾向にあり、政府が指定した「重点大中型企業」と日本企業との差は6.6パーセントに縮まっているからである。
 第2に、たとえ効率に大きな差があっても、対象国において改善の対象となる工場に移転しなければ効果がない。アジアの鉄鋼業は設備能力が需要を大きく上回っており、その中には汚染とエネルギー浪費において問題が大きすぎ、各国政府によって淘汰政策の対象とされているものが含まれている。中国では「重点企業」以外のところに多い小型高炉、インドでは誘導炉がこれにあたる。こうした企業は閉鎖政策の対象であり、技術移転の対象になりにくい。ごくまれに、小型高炉から始めて日本人技術者に操業を学び、立派な大企業に成長した例もあるが。
 第3に、同じく効率に大きな差があっても、自国で環境設備への投資や改善ができるならば、技術移転には及ばない。ここでもインドは技術移転の対象となりやすいが、中国は必ずしもそうでもない。設備国産化比率が上昇して、大型高炉の自主設計にまで至っているからである。もっとも、環境設備の先端部分や管理面での改善については、まだ日本から移転の余地はある。
 第4に、BATの移転は同じ技術体系の中で行うものである。つまり、高炉・転炉法の製鉄所には高炉・転炉法のBATを、電炉法の製鉄所には電炉法のBATを移転するのである。すると、高炉・転炉法と電炉法の選択に問題があって汚染やCO2排出が増えている場合には事態はさほど改善されない。この点も中国相手だと問題になる。中国は高炉・転炉法が粗鋼生産の90%を占める国であり、世界平均の70%を大きく上回っている。ところが高炉・転炉法は、たとえBATを備えた立派な設備であっても電炉法の2.4-6倍程度のCO2を排出する(数字の開きは、電気の発電方法の違いによる)。
 第5に、鉄鋼生産量が急拡大すると、エネルギー効率の改善効果を打ち消してエネルギー消費とCO2排出が拡大してしまう。これは個々の企業の経営効率にとっては問題にはならないが、地球全体でCO2排出総量を規制しなければならない現状では、やはり問題としなければならない。この点では、やはり中国が筆頭であるが、世界の巨大製鉄国はみな問題を抱えている。技術の出し手である日本でさえ、世界第2の鉄鋼生産国である以上、CO2排出総量削減への貢献を迫られざるを得ないのである。
 BATの国際移転という手法の限界は以上のとおりである。この限界を乗り越える方法は、製鉄技術のブレークスルーで温室効果ガス排出を画期的に削減するか、トン当たりCO2排出が小さい電炉法の比率を上げて、それに伴う問題(屑鉄から高級鋼が作りにくいなど)にもとりくむかの、どちらかだというのが、私の意見である。

※2018年12月5日追記。この考察を学術論文内に組み入れたものは以下にある。
川端望・趙洋[2014]「中国鉄鋼業における省エネルギーとCO2排出削減対策」『アジア経済』第55巻第1号,日本貿易振興機構アジア経済研究所,2014年3月,97-127頁。