2018年10月31日水曜日

裁量労働制の労働者に一律の出退勤時刻を強制してはならない (2018/9/3)

「第111回労政審労働条件分科会に提出された、労働者を対象とした『裁量労働制に関するアンケート調査』をまとめた資料では、『一律の出退勤時刻がある』と回答した労働者の割合は、専門業務型で42.3%、企画業務型で50.9%とされており、自主点検の結果とは全く異なる結果となっています。」

裁量労働制にはグレーな部分が多く,したがって法に違反していても取り締まるのが困難な場合が少なくない。しかし,クリアーに違反と言える部分もあり,それは取り締まられねばならない。さもなければ厚労省・労基署の怠慢である。

裁量労働制の本旨とは「働き方を労働者の裁量に(言い換えれば自由に)委ねる」ものであって,「何時間働いても『みなし労働時間』だけ働いたものとみなす」のはそこから派生する事柄に過ぎない。ところが,ここを勘違いして「残業代を払わなくていい」とだけ思っている政治家や経営者が少なくない。上記の数字はその証拠だ。

裁量労働制の労働者に一律の出退勤時刻を強制してはならない。強制している勘違い企業・事業所は即刻警告を受けるべきであり,改めなければ処罰されるべきである。
「「裁量労働制」ザル運用が明らかに、違法適用の疑いが続出「拡大の前にルール厳守を」」弁護士ドットコムニュース,2018年9月1日。
https://www.bengo4.com/c_5/n_8435/

2018/9/3 Facebook
2018/9/4 Google+


「振り込みに行かなくてもよい」ようにできたとき,LINEペイは普及する (2018/8/29)

 手数料無料化でLINEペイが普及し,銀行預金の決済取引が減り,銀行の収益基盤を切り崩すだろうといういう記事。モバイルSuica/楽天Edyは使っていてもLINEはアカウントすら持っていないので,まちがえるおそれがあるがコメントする。

 店舗での支払いについて,LINEペイの普及はこれまでの電子マネーを超えて大いにありうるだろう。LINEペイは,「a)客がスマホにバーコードを表示し,店が専用読み取り機で読み取る」方式だけでなく,「b)店側がスマホでバーコードを提示し,客がスマホのカメラで読み取る方式」も導入している。a)だと手数料に加えて店の設備投資コストがかかるが,b)ならば小さな商店でも導入できる。よってLINEの手数料無料化+b)方式が可能な仕様は普及を大いに助ける。ちなみに私の使っているモバイルSuicaや楽天Edyは「c)客が特別仕様のスマホを使い,店が専用読み取り機で読み取る」方式なので,タッチ1秒という便利さにもかかわらず普及しにくい。

 しかし,現金取引に慣れ切った日本人は,「現金を持ち歩き,店で現金で払う」ことを不便と感じず,むしろ着実・堅実と見てそこから容易には離れないかもしれない。これも大いにありうる。

 思うに,多くの日本人がLINEペイを使いたいと思う決定的理由があるとすれば,それは「店舗で現金を使わずに払える」ことよりも,「振り込みをしなくてよくなる」ことではないか。

 「店で現金で払う」ことは全然面倒と思っていない人も多い。しかし,そうした人でも,「銀行やATMコーナーに行って,振り込みによる送金をしたり受け取ったりする」のは恐ろしく面倒だと思っているのではないか。この「振り込みをしなくてよくなる」ことは,LINEペイで可能だろう。親から子への仕送りも,公共料金の支払いも,われわれの業界なら学会費の支払いも,スマホでLINEを操作すれば完了する(ただし,受け取った側が出金したいときは,LINE Moneyを自分の銀行口座に移して出金する必要があり,そこには手数料がかかる)。これらは,中国ではAlipayとwechat payでとうの昔に実現しているし,日本でも九州電力や神奈川県企業庁では対応しているとのこと。この「振り込みをしなくてよくなる」分野を広げられるかどうかが鍵ではないだろうか。

木内登英「銀行が「LINEペイ」に到底勝てない根本理由」東洋経済オンライン,2018年8月24日。
https://toyokeizai.net/articles/-/233362

2018/8/29 Facebook
2018/8/30 Google+

開発過程へのサプライヤー関与における「タダ働き」は何を意味するのか:建設業の事例から自動車部品産業を考える (2018/8/28)

 この投稿「ゼネコンの"談合"はなぜなくならないのか」に示された「入札前のタダ働き」の構造を要約するとこうなる。プロジェクトへの参加において,企画・調査・設計の独自の対価(ソフトフィー)が払われないにもかかわらずゼネコンはこれらの作業に参画して発注者たる官庁のために努力する。その限りではタダ働きである。しかし,そのコストを回収しなくてよいわけではない。施工費用に上乗せして回収する。そして,上乗せして回収できるような価格に吊り上げるために談合が活用される。また,談合を通して,企画・調査・設計で汗をかいたゼネコンが受注できるように調整される。こうして帳尻が合わされている。
 ここでくみ取るべきは,「タダ働き」に見えるような行為を伴う取引には必ず解明すべき問題があるということだ。一つには,「タダ働き」が生じる理由だ。二つ目は,「タダ働き」を埋め合わせようという行動だ。そして,「タダ働き」があるにもかかわらず繰り返されている取引ならば,それを成り立たせている利害調整と動機づけの構造だ。
 しかし,そもそも「タダ働き」が存在することに気付かなかったり,気づいていても重要でないと思い込んで無視したりすると,そこで考察はストップする。

 私がここで言いたいのは,別の業界,すなわち自動車産業をはじめとする日本の加工組み立て産業のサプライヤー・システムを考える上での示唆だ。
 実は,日本の部品取引においても,実はサプライヤーは製造だけでなく設計開発にも参加している。ここまでは,ほとんどの産業研究者の常識だ。そして,製造だけに参加するサプライヤーは図面をカスタマーから貸与される「貸与図」方式,設計開発にも参加するサプライヤーは図面を自ら引いてカスタマーに承認してもらう「承認図」方式で取引をしている。これは,サプライヤーシステム研究者ならば常識だ。
 しかし,ここから先に,さらに進むべき領域がある。あえて言えば,進むべきだったのに,見落とされがちだった領域がある。
 第1点。実は部品サプライヤーは,製造と設計開発だけでなく,そのひとつ前の先行開発にも,さらにその前のコンセプト創造にも関わっており,のみならずそれ以前の,具体的なモデルの製品開発が始まる前の研究開発にも関わっている。
第2点。実は日本の部品取引への参画においても,設計開発を,また先行開発をカスタマーとともに行ったサプライヤーに対して,独自の対価は払われていないことがほとんどである。「払われていないことがほとんど」だと断言するのがまずければ,「払われているという証拠は存在しない」といってもいい。「承認図」取引でも払われるのは製造への対価である。
 だから,日本のサプライヤーの製品開発への参加は,実は形式的には帳尻があっていない。「承認図」取引も先行研究への参画も,直接には帳尻のあった取引ではない。そこには,一見すると「タダ働き」に見える行為が存在する。しかし,こうした取引は継続している。

 これらのことはもっと研究されねばならない。

野呂一幸「ゼネコンの"談合"はなぜなくならないのか」President Online,2018年8月24日。
https://president.jp/articles/-/25977

増加する社会保障の財源は消費税増税以外にありえないのか (2018/7/12)

 社会保障の財源として消費税増税しかないというのは,本当に正しいのだろうか。あまりに当然のように言われているが,再考する余地はないのか。



 宇佐美さんの意見に即してコメントしたい。まず,なぜ法人税ではだめなのか。



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法人税などの形で会社向けに大幅な増税を図ろうとすると、年金積立金はその相当部分を株式市場で運用していますから、その運用成績に悪影響を及ぼすことになります。株価というのは、基本的に上場企業の資産と利益配当で決まるわけですが、法人税をあげると配当原資が減るため、株価に対しては明確に下方圧力がかかることになりますからね。

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 21世紀に入ってからの状況を見ると,必ずしもそうではない。企業が資産を持っているだけで有効に活用できなければ,株価は上がらない。現に,現金や有価証券を手元に積み上げている企業に対して,ファンドが増配や資産売却を迫り,経営者はあわてて自社株買いによる株価引き上げに腐心するという構図がある。

 むしろ,企業の手元で遊んでいたお金が課税を通して有効に財政支出され,その恩恵が低所得層に回った場合,確実に消費需要が増える。そのことによって,一部の企業は利潤を上げ,株価は上がるだろう。この方が,まっとうな経済循環になるかもしれない。「政府よりも民間企業のほうが賢くてお金の使い方を分かっている」という話は,この35年ほどさんざ言われてきたが,今の日本の既存大企業ではそうとは限らないのではないか。きちんと検討する必要がある。



 次に,なぜ所得税ではだめなのか。



ーー

所得税に関しては、表面上は上がっていないものの、実質的には社会保険料の引き上げという形で10年近くかけて上昇してきており(2003年13.58%→2017年18.3%)、これ以上の所得増税にそれほど余地は残っていません。

ーー



 平均税率だけの問題ではないと思う。弱められる一方だった累進性を,いくらか戻してはどうか。例えば,1995年当時のように3000万円以上は50%にしてはどうか。1980年代のように5000万円以上は60%か65%にしてだめな理由はあるか。それだけでも結構な税収増になるだろう。



 先日も書いたが,企業の純資産への課税についても,検討の余地は十分にあると思う。



 逆に,消費税引き上げは,これまでも,景気が立ち直りかけた時に冷や水を浴びせるという深刻なショックを経済に与えてきた。増税後の経済停滞は税収にも悪影響を及ぼした。この教訓はどうくみ取るべきなのか。



 消費税率引き上げが来年10月に迫っているこの時,本当にそれでよいのか,よく議論すべきではないか。私も,もっと具体的に言えるようにしたいと思う。



考・所得税率推移

「社会保障の財源はこれから来る時代に向けては完全に不足してますよね。その主たる消費税は、つまるところ何%まで上がるのでしょうか?(ぬまえび・会社員)」宇佐美典也の質問箱,みんなの介護,2018年7月10日。



2019/3/18追記。この投稿に対する一応の答えが以下となる。
「本格的な再分配政策には消費税「も」欠かせない:井出英策『幸福の増税論 -財政は誰のために』岩波新書,2018年を読んで」Ka-Bataブログ,2019年3月18日。



働き方改革関連法の成立と重要な附帯決議について (2018/6/30)

 働き方改革法案は可決されてしまったが,併せて可決された付帯決議には「高度プロフェッショナル制度」について,「◆会社側が始業・終業時間や深夜・休日労働など労働時間に関わる業務命令や指示をしてはいけないこと、働き方の裁量を奪うような成果や業務量を要求したり、期限や納期を設定したりしてはいけないと省令で明確に規定」することは明記された(引用はシェア先。厚労委の動画によれば付帯決議21で,下記動画の44:20付近で確認可能)。これは,条文では書かれていなかった「高プロ」における労働者裁量が認められるべきこと,今後省令に明記されるべきことを意味する。これが守られると,「裁量」という文字が一切ない,生の条文よりは少しまともになり,24時間365日のうちからいつでも会社が命令できる状態にならずにすむ。あわせてこれと整合性を取るために,裁量労働制で始業時間を指定することも取り締まれるかもしれない。しかし,付帯決議はしばしば無視されるので,注意が必要だ。法律はできてしまったら終わりでなく,どのように運用されるかも国民が監視していかねばならない。

参議院厚生労働委員会。法案と付帯決議の採決。2018年6月28日。
https://www.youtube.com/watch?v=6n9LFGAB36s

「監督徹底など求める 働き方法案、付帯決議47項目可決」朝日新聞デジタル,2018年6月29日。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13561724.html

ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は<経済>を語ろう』亜紀書房,2018年によせて (2018/6/21)

 ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は<経済>を語ろう』亜紀書房,2018年。本書の見解について。

1.著者らの左派ケインズ的主張には大いに賛成だ。つまり,「非自発的失業が存在する局面では金融を緩和し,財政を拡張して有効需要を引き上げるべき。その際,財政政策は低所得層に手厚くし,高齢社会に備えたものとする。完全雇用を達成したら緩和・拡張をやめ,大企業や高所得層から徴税できるようにする。そのしくみは,不況期にあらかじめつくっておく」ということだ。そして,財政は「国債残高が永久債のように借換えを続けてることができて,投資家から信用が毀損されて国際価格が暴落しない範囲ならば,赤字であっても持続できる」と考える(この投稿の「」でのくくりは引用でなく,まとめていうならばこういうこと,という意味である)。

2.ただし,松尾教授はかつて,ご自身の政策的主張をリフレーション論として提示してきた。私はリフレ論には反対する。少なくとも,「有効需要政策の主役は金融政策であり,インフレ期待を醸成し,インフレ期待によって実質利子率を下げ,投資と消費を回復することだ」という意味のリフレ論,とくに「財政政策が主役なのではなく金融政策が主役だ」という主張には反対する。このインフレ期待の醸成には理屈が二通りあるようだが,インフレ期待を通貨供給量(マネーストック)と関係なく,「インフレにするぞ」という日本銀行のコミットメントだけで醸成できるというならば,それは経済学ではなく心理宣伝であって理論的正当性はないと思う。また,マネーストックを増やしてインフレ期待を醸成し,実際にインフレを起こすというのであれば,こちらは理論としてはわかるが,市中に需要があって通貨を必要とするのでない限り,通貨供給量を日銀が一方的に伸ばすことはできないと思う。実際にアベノミクスの「異次元の金融緩和」ではマネタリーベースは増えたが,銀行は日銀当座預金を引き出さず,マネーストックは地を這うようにしか伸びなかった。「インフレにするぞ!信じてね!」という金融政策だけでは,企業の期待利潤率と消費者の消費性向は上がらないし,現金を抱え込む流動性選好はおさまらないのだ。財政政策と社会政策で,「こういう社会で,個人のくらしの見通しはこうなるから期待できるよ」という,形を持った展望を,投資家,経営者,消費者に示さねばならない。「期待」というのはそういう形と広がりのあるものだろう。日銀が国債を購入するよりはるかに複雑で手間のかかる作業だが,それをするしかないのだ。

3.だが,本書や『この経済政策が民主主義を救う』では,松尾教授はリフレーション論を強く主張していない。むしろ,金融政策も財政政策も重視した左派ケインズ的政策を主張しておられる。だからこそ私は,両書の主張に賛成する。

4.本書は表題に見られるように,1980年代以後,日本の左派が経済について語らないという迷路に入ってしまったことを批判している。最初から経済にしか興味のない私には,最初何のことかわからなかった。よく読むと,日本の左派が1)1980年代以後,搾取や格差や貧困問題よりもアイデンティティ・ポリティクスを政治的に前面に出すようになっていたことと,2)欧米の左派と異なり金融緩和と財政拡張を強く主張しないこと,を問題にしているらしい。それならば,ある程度はわかるし,自分自身も反省はある。あるセミナーで橘木俊詔教授に「なぜマルクス経済学者はもっと格差と貧困について訴えないのか」と言われ,鉄鋼業のことしか書かないマル経崩れとしては立つ瀬がないと思ったことを覚えている。ただ,本書は具体的に誰の主張がこの偏りを持っていたのか述べずに批判しているので(実名で批判されるのは内田樹氏と上野千鶴子氏くらい),読んでいてもやもやとしてしまう。タイトルもそうだが,かなり左派内部のコンテキストに依存した本のように思う。

5,ところで,迷路に入っていたのはそうした左派だけなのだろうか。私は,マクロ経済学に精通していないものの,リフレーション論も,ケインズ派にとってある種の迷路だったのではないかという疑問を持つ。本書の主張を冒頭よりももっと単純化すれば「金融も財政も拡張しよう。福祉や低所得者のために」である。それならば,はるかに昔からあるケインズ政策の左派バージョン,つまり「公共投資を産業基盤整備型でなく生活密着型や福祉型にかえろ」という主張とそんなにかわらないのであって,わざわざリフレ論にする必要はない。非自発的失業の根拠を価格の硬直性でなく流動性選好に求めるようになったからリフレ論が導かれたのだというのかもしれない。しかし,流動性選好を重視すると必ずリフレ論に行くという必然性はないと思う(例えば小野善康教授は流動性選好を重視するがリフレ論ではない)。リフレ論は,「財政政策より金融政策のほうが有効だ」という議論を生み出した。さらに,松尾教授の場合はそこまで言っていなかったと思うが,論者によっては「不況だからデフレになるのでなくデフレだから不況になる」,「デフレを止めるには日銀がインフレ期待を醸成しさえすればよい」,「デフレを止める責任は日銀のみにあるのであって政府にはない」という極論を主張した。その弊害は大きかったのではないか。リフレ論は,金融緩和を主張するのはよいとして,金融緩和「だけ」を有効なものとして主張し過ぎた。そのため,人口減少・高齢社会を支えるための財政・社会政策について,議論すべきことを後景に追いやる効果を持っていたのではないか。

6.だから,私はリフレ論では多くの左派を結集できないと思う。幸い,本書では松尾教授も共著者のお二人も,リフレ論に主張を狭めることなく,左派ケインズ的政策を打ち出している。なので,私は本書の主張を支持する。一歩引いて客観的に見ても,左派は本書のように主張すればいいと思う。すると,一方で「それはばらまきだ。財政赤字がひどくなるではないか」という批判,他方で「それはばらまきだ。成長への投資の方が大事だ」という批判が来るから,そこで論争すべきだ。それで,妙にねじれた迷路に迷い込むことのない,普通のわかりやすい論争になるだろう。

7.なお,景気が一応上向きで失業率が下がりきっており,しかし賃金は上がらないという現在の状況では,完全雇用に達したという判断,金融緩和・財政拡張をやめるタイミングが難しい。それは,上記の理論問題とは別の現状判断の問題であるが,難題であるに違いない。

http://www.akishobo.com/book/detail.html?id=852

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日銀による金融政策だけで物価を上げようとすることの限界について (2018/6/16)

 日銀は,なぜ物価が上がらないかについてよく考えるべきだ。「1998年から2013年まで15年続いたデフレと低成長が、一種のデフレマインドとして企業や家計に残っていることがある。そのため、中長期の予想物価上昇率がなかなか上がってこない」などと心理的惰性のようにいうのは適切ではない。「信ぜよ,さらば救われん」など論外だ。単に経済学の初歩的常識に従えばいい。実際の需要が弱いから,予想物価上昇率も現実の物価上昇率も弱いのだ。需要が弱いというのは,つまり設備投資と個人消費が盛り上がらないということだ。

 労働市場について,「失業率が示すよりスラックが残っているため,賃金が上がらず,物価も上がらないのではないかという議論もある」というのは,まちがってはいないがスラックなどという言葉ではあいまいだ。いま労働市場に参入しているのは女性と高齢者だ。しかし,非正規として雇われている。だから,失業率は完全雇用かと思わせるほど下がっているのに,賃金が低いのだ。

 日銀が,不況の際に金融を緩和することは間違ってはいない。現時点で金融緩和基調を維持するというのも妥当だと思う。問題は,金融緩和だけでは需要を盛り上げることはできないということだ。日銀は,ケインズ的理論をとるのはよいのだが,同時に貨幣数量説的なリフレーション理論を採用しており,金融緩和の威力を過大に評価してしまっているところに問題がある。

 設備投資は,実質利子率と期待利潤率の差によって決定される。しかし,ケインズその人が言ったように,期待利潤率は本質的に不確実なものだ。だから,利子率が下がった分だけかならず投資が伸びるわけではない。期待利潤率の不確実性を無視した経済理論は現実的でない。

 また,個人の貯蓄は利子率の関数でない。消費者は,預金利子率が少し下がると,かえってやっきになって貯蓄するかもしれない。むしろ所得の関数で,余裕ができたから貯蓄すると言ったほうがまだ正確だ。かつて政府も高度成長期の高貯蓄率をそのように説明したではないか。また,期待物価上昇率が上がれば貯蓄が目減りするから消費が増えるというのも,あまりに人間を単純化した仮定だ。これまた,かえってやっきになって貯蓄するかもしれない。

 要するに,日銀のリフレ理論は貨幣の世界だけでもものを考えており,利子率と期待物価上昇率だけで人間の行動を変えようとしている。そこに問題がある。投資と消費を委縮させているのは,もっと広がりを持った,将来に対する具体的な不安である。離れて暮らす親に介護が必要になったらどうするのかという不安,ひとたび病気になれば医療費が払えないのではないかという不安,子どもが大学を出るまで稼ぎ主の健康や勤め先の経営に問題が起こらないかという不安,会社に問題があるが転職したら給料はかえって下がらないかという不安,このような人口減少・高齢社会において市場は拡大しないのではないかという不安,だ。これらは利子率と期待物価上昇率では解消できない。もっと不安の中身に即した政策が必要だ。低所得者に手厚い税制であり,非正規の処遇改革であり,社会保障の充実であり,教育費負担の軽減であり,介護の充実と介護労働者の待遇改善であり,いま労働市場に参入している女性と定年後高齢者の処遇改善だ。消費税増税が景気を再び低迷させないか,それに代わる税制はないのか,安倍政権の「働き方改革」で不安を緩和できるのかも問われねばならないと思う。

 肝心なことは,これらは財政政策と社会政策でなければできないということだ。すでに,日銀の仕事ではない。金融は緩和されている。それはそれでいい。いくつかの弊害や出口戦略の難しさはあるが,緊縮よりはよい。しかし,そこで思考停止してはならない。日銀自らも,政府もマスコミも経済学者も,金融政策に過大な役割を押し付け,利子率と物価と心理に問題を矮小化するのをやめて,財政・社会政策を用いた改革論をたたかわせねばならないときだ。

2018年6月16日にfacebookに投稿したものを転載。

「日銀総裁の会見要旨」『日本経済新聞』2018年6月16日。
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO31861490V10C18A6EA4000/

シェア先
「黒田日銀総裁「信ぜよ、さらば救われん」 会見やり取り」『朝日新聞』2018年6月15日。
https://www.asahi.com/articles/ASL6H516GL6HULFA023.html

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24時間365日いつでも命令され得るような働き方は高度プロフェッショナル制でもなんでもない (2018/6/16)

 「高度プロフェッショナル制度」が残業代の支払逃れであり,長時間労働の放任ではないかという批判は既に野党や専門家によってなされているし,成果給導入と何ら関係ないことも指摘されている。実は,もう一つ,重大な問題がある。とくにプロフェッショナルにふさわしい働き方をしたいという人に読んでほしい。

 それは,「高プロ」は専門家の働き方として,「裁量労働制」に比べても無茶苦茶に不自由だということだ。

 「裁量労働制」は,仕事の進め方について労働者の裁量に任せる,つまり上司があれこれ指示・命令しないという制度である。実際には,始業・終業時間を定めて遅刻をとがめるインチキが横行しているが,仕事の仕方をあれこれ指図されない権利は,一応労働者は持っている。
 ところが,「高プロ」は労働者裁量に関する規定がない。ということは,上司は「高プロ」適用労働者に指示・命令することができるのである。しかも労働時間管理を解除してしまったから,24時間365日いつでも。

 大事なことなので二度言おう。「高プロ」適用者に対しては,上司は24時間365日いつでも合法的に,あれこれ指示・命令することができるのである。もちろん,始業時刻を決めて出勤させることもできるし,仕事の手順や会議の時刻をきめ細かに指定して時間拘束することもできる。三度言うが,24時間365日。私には,この法案はそうとしか読めない。

 これはプロフェッショナルの働き方ではない。会社人間を濃縮するだけの制度だ。

佐々木亮「高プロの法案を全文チェックしてみた。【前編】」Yahoo!ニュース,2018年6月15日。
https://news.yahoo.co.jp/byline/sasakiryo/20180615-00086506/

官民ファンドクールジャパン(CJ)機構によるISETAN the Japan Storeへの投資の問題点 (2018/6/12)

 官民ファンドクールジャパン(CJ)機構が9.7億円相当を出資した,クアラルンプールの一等地にある,「ISETAN The Japan Store」の閑古鳥。お客を呼んで商売をする気が全くないとしか思えない。あちこちで言われていることだが,CJ機構はガバナンスが全く効いていないのではないか。

 そして,8日付のプレスリリースによれば,CJ機構はこのISETAN The Japan Storeの持ち株すべてを株式会社三越伊勢丹ホールディングスの100%子会社、ISETAN OF JAPAN SDN.BHD.に譲渡したとのこと。もう手に負えないから投げ出して伊勢丹に経営してもらうことにしたのだろう。それはいいとして,問題なのはプレスリリースにいくらで譲渡したかが書かれていないことだ。9.7億円出資して,いくら回収できたのか,ただちに公表し,損失が生じたならばその理由について究明すべきだ。ファンドだからリスクを取るし,損失が出ることもあるだろう。しかし,CJ機構は民間資金107億円に対して政府が586億円も出資しているのだ。そのお金がどう使われ,結果がどうであったのかを,CJ機構は政府に,政府は国民・納税者に対して説明しなければならない。

「ICJ Department Store SDN.BHD. の株式譲渡について 」クールジャパン機構,2018年6月8日。
https://www.cj-fund.co.jp/files/press_180608-1.pdf

古谷経衡「海外で見た酷すぎるクールジャパンの実態~マレーシア編~」Yahoo!ニュース,2018年6月7日。
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20180607-00085979/

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TPPについて:経済連携協定に賛成し,アメリカの一方的措置に反対する見地から (2018/6/1)

 鉄鋼・アルミ関税についての見解はすでに書いているので,この機会にTPPについての考え方を述べたい。

 私は自由貿易(FTA)・経済連携協定(EPA)には基本的に賛成だ。正確に言えば,ベトナム市場経済化支援に参加した2000年ごろに,そのような見解になった。日本・アセアンEPAや日越EPAには賛成の立場で議論し,鉄鋼関税について経産省とベトナム鉄鋼協会に政策提言もした。

 しかし,より広域のEPAは,東アジア共同体か,せめてAPEC加盟国でEPAができればよいと思っていた。TPPには非常に懐疑的で,反対のコメントも賛成のコメントもほとんどしなかった。理由は簡単で,建前通りに機能しないと思ったからだ。つまり,アメリカの交渉力が強すぎて,アメリカが一方的な主張をすればどんなに理不尽でも通ってしまうおそれが強いし,アメリカ政府はそういうことを平然とすると考えていたからだ。政策論としても,オバマ政権のもとでは影をひそめてはいたが,アメリカ議会・政府には,二国間での貿易収支を均衡させようという,およそ経済学的に話にならない相互主義が根付いており,そこに不意に回帰するおそれが強いと思っていたからだ。だから,ASEAN+3がみな入る協定の方がよいと思っていたのだ。

 トランプ政権になり,私がおそれていたように相互主義への回帰が起こった。だが,予想外だったのは,TPPをアメリカの特定利益のために改造するのではなく,まっさきに脱退したことだった。皮肉にも,そのために私はアメリカ抜きのTPP11には賛成になった。だが,そこにアメリカを呼び戻すことには,今もなお懐疑的だ。戻って来るならば,TPPの中身をアメリカだけのために勝手にいじらないことが前提だが,そんな保証はどこにもないからだ。いま鉄鋼・アルミについて起こっていることは,不幸にしてこの懐疑を妥当なものにしていると思う。

 繰り返すが,私は今でも自由貿易・経済連携協定には賛成だ。しかし,アメリカだけが非対称に交渉力の強い構成の協定には,やはり今でも懐疑的であり,支持できないと考えている。

2018年6月1日にFacebookに投稿したものを転載

「米国がEUやカナダ、メキシコに鉄鋼アルミ関税 各国は対抗策」Reuters,2018年5月31日。
https://jp.reuters.com/article/us-eu-ca-mx-steel-tariff-0531-idJPKCN1IW1XG

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加藤寛治議員の「結婚しなければ、ひとさまの子どもの税金で老人ホームに行くことになる」発言はどこがまちがっているのかを,経済政策論として考える (2018/5/28)

 加藤寛治議員の「結婚しなければ、ひとさまの子どもの税金で老人ホームに行くことになる」発言はどこがまちがっているのか。倫理的価値観からではなく,経済政策論として考えたい。結論から言うと,加藤議員は,もう変えようがないことを個人の考え方で変えられるかのように誤った幻想を振りまく一方で,政策・制度の力で変えられることを変えられない当然のことであるかのように言い放っているところに間違いがある。

 議員の発言はどういう想定に基づいているのか。一つは,裏返すとわかる。「結婚すれば,自分の子どもが老後の世話をしてくれるので税金に負担をかけない。それが望ましい」と想定しているのだ。また元の発言からして,「老人はやがては子どもに面倒を見てもらうか,老人ホームに行くことになるものだ」とも想定していることになる。

 これは現代的価値観から見てどうだという問題ももちろんある。しかし,経済政策論としては,それ以前の問題がある。それは,前者に対しては,「もう無理。実行できない事を言っても仕方がない」ということであり,後者に対しては逆に「そんな風にあきらめてもらっては困る」ということだ。

 日本の人口は,いまから多少出生率が回復したところで,減少を免れない。これは私や特定勢力が言っているのではなく,厚生労働省所管の国立社会保障・人口問題研究所が予測していることだ。出生率が一番高いシナリオでも人口は2059年に1億人を割る。中位シナリオなら2053年だ(図)。中位シナリオだと,生産年齢人口と年少人口は2065年になっても絶対数・比率とも低下し続け,老年人口比率は逆に上昇し続ける。老年人口の絶対数も2042年までは上昇し,以後ようやく低下しはじめる(図)。

 たまたまある個人が子どもを3人以上設けて,彼/彼女らが高所得者になって年老いた自分の面倒を見てくれる,ということはもちろんあるだろう。しかし,日本社会全体としては,より少ない生産年齢人口に対してより多くの高齢者が暮らしている,という以外のシナリオはどこにもない。もうそれは,もう決まったこととみなさねばならないのだ。

 加えて,分子は同じ生産年齢人口として,分母を高齢者プラス幼年人口(従属人口と言う)にしてもかわらない。2015年にはその比率は1.6人対1人だが,中位シナリオでは2035年に1.3人対1人となる。出生率回復で多少のずれはあっても,事態の方向は変わらない。これももう決まったことなのだ。

 高齢化はたいていの場合,格差拡大を伴う。同じ世代では,高齢になるにつれて徐々に格差が開いていくからだ。かつて格差社会論争が起こった時,政府と大竹文雄教授は,高齢化に伴う見かけ上の格差だと主張された。対して,格差社会論を提起された橘木俊詔教授は,統計的にはその通りだが,それこそが見かけ上ではなくて実質的な問題なのだと反論された。

 よほど格差を縮小させる政策や環境変化がいますぐに生じない限り(多少の福祉国家政策では間に合わないので,世界戦争かハイパーインフレが考えられるが,そんなことは誰も望まない),2020年代や2030年代には,格差が今より開いた状態での高齢の低所得層に対して,その子どもたちだけで面倒を見切れるわけがない。また,パラドックスであるが,出生率がある程度維持・回復されたとすると,子どもを持つカップルにはダブルケアという問題が発生する。親と子どもの両方を世話をしなければならない。条件がまったく違うから大変なことだ。

 この状態に対しては,どうしても現状以上の再分配と生活支援策を行って,低所得の高齢者を支援する必要がある。これは左派や特定勢力が主張していることではなく,冷静に考えればわかることだ。安倍政権も,これを意識はしている。だからこそ,「新・三本の矢」のうちの二つは子育て,介護対策になっているのだ。こうした,逆らい難い人口動態を踏まえた上で,様々な問題を回避し,持続可能な経済・社会をつくっていくためにこそ,政治も行政もある。

 しかし,支援策を強化するばかりでは,他の世代の負担が激増することも事実だ。これを軽減する解決策はないのか。それは,子どもに自分の親の世話をさせるという空想とは違う方向,部分的には真逆の方向に存在する。生産年齢の中でも働く人の割合を増やし,さらに生産年齢を超えた65歳以上の人が働けるようにすることだ。つまり,女性と高齢者だ。かなりの重なりを持つこの二つの集団が無理なく元気に働けるならば,事態は改善する。これは空想ではなく,現にこの数年の傾向として,女性と高齢者の労働力率は上昇し続けている。しかし,無理なく元気に働けては,いない。むしろ女性と高齢者が非正規でしか採用されないことが,「人手不足なのに賃金が上がらない」という歪んだ事態を作り出しており,「実感なき景気回復」の大きな要因になっている。また,介護離職も減っていないし,女性から男性に拡大しつつある。家の外で働きたいし,働く必要もあるが,働けない人が大量に放置されている。

 だから,「高齢者を誰かが家族内で世話をしなければならない状態を軽減し,高齢者が無理なく元気に働くことができる状態にする」ことは,これからもっとも重要な日本の社会政策であり,経済政策だ。これは高齢化のトレンドと異なり,変えられることであって,あきらめてはならないことなのだ。そのためにこそ働き方改革が必要だ。安倍政権はこの課題を意識はしているが,その「働き方改革」は,この事態にまったく対応できない,見当はずれのものだ。そのことは別途述べたい。

 加藤議員の発言は,政治家として二重に間違っている。もう変えようがないことを個人の考え方で変えられるようにみなす一方で,政策・制度の力で変えられることを変えられない前提であるかのように言い放っているのだ。税金を使わずに子どもが老人の世話をすべきと言っても,もう無理だ。老人の暮らしを社会で支えられるような政策は強化せざるを得ない。逆に,老人は老人ホームにいくものと決めつけるべきではない。老人も無理なく元気に働ける社会に変えていく必要があるのだ。

2018/5/28 Facebook
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アベノミクスのどこを変えるべきか? 野口旭『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書,2018年)に寄せて (2018/5/13)

野口旭『アベノミクスが変えた日本経済』ちくま新書,2018年。

野口旭教授は,いわゆるリフレ派の研究者の一人であり,通貨供給量の膨張によるデフレ克服を説く主張は一貫している。野口教授の新著『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書,2018年)では,アベノミクスはデフレストップ,経済成長と雇用の拡大にかなりの成果を上げており,しかし十分ではないと評価されている。これは,リフレ派の共通見解とみてよいのではないかと思う。

 私のリフレ派に対する考えは,理論面と現実的役割の面でやや異なる。まず,理論的には,以前から2点でなじめなかったし,それはいまもかわらない。
 1点目は以前は財政政策をむやみに攻撃して金融政策のみに熱中していた点だ。これは,世界金融危機後はだいぶ変わっており,野口教授も前著『世界は危機を克服する』では財政政策の必要性をむしろ主張されている。私は,この点についてのリフレ派の理論的首尾一貫性は,正直怪しんでいるが,財政政策を普通に認めるようになったのは結構なことだ。
 2点目の方が重大で,金融緩和によって通貨供給量を確実に増やせるという点である。これは中央銀行が直接に国債を引き受けた場合や,政府が直接に不換紙幣を発行して財政支出した場合は正しいが,中央銀行の買いオペについては正しくない。銀行が中央銀行に持つ当座預金に買いオペ代金を振り込むことはできても,銀行がそれをおろすかどうかは,民間の貸し出し需要に依存しているからだ。このことは,アベノミクスでマネタリーベースをいくら拡大してもマネーストックが増えないという事実によって証明された。私はこの2点,とくに2番目の点について,リフレ派はまちがっていたと考えている。

 しかし,リフレ派が,相対的に,そして現実的役割の面で正しかった点もある。それは,デフレとGDPギャップが存在する不況下で,緊縮政策や財政再建優先策をとるべきではないとしたことだ。これは,リフレ派というより単純にケインズ主義的に考えて正しかった。安倍政権による金融緩和と財政拡張の結果,投資・消費は弱々しいが拡大はし,雇用は拡大して需給ギャップは解消した。もしも,緊縮政策(財政緊縮,金融緩和終了)を行っていたら,不況から脱出できなかっただろう。この点に限って言えば,つまり緊縮か拡張かの二分法において拡張を唱えたという点では,リフレ派もアベノミクスも正しかったと私は考える。

 したがって,私のリフレ派批判は通貨理論批判ではあっても,金融緩和政策批判ではない。アベノミクスを批判する人々も,ここを間違えるべきではない。とくに左派の場合,批判すべき安倍政権の経済政策は,税制改正や社会保障改革が格差の放置になっていることや「高プロ」「裁量労働制拡大」など的外れな働き方改革であって,金融緩和ではない。松尾匡教授(『この経済政策が民主主義を救う』大月書店,2016年)などが主張されるように,左派はここがかなり混乱している(これから,『そろそろ左派は<経済>を語ろう』という本を買う予定だが,おそらく本書はこの論点を取り上げたものと予想する)。

 では,リフレ派の理論は政策に問題を起こさなかったのかというと,起こしている。金融緩和はよかった。しかし,リフレ派とその影響を受けた安倍政権,黒田日銀は,金融緩和とインフレ目標へのコミットメントに過度に依存し,時にはそれ「だけ」でデフレが克服できるという見地に立った。また,日本銀行に金融緩和の合意を取り付けるにあたり,デフレからインフレへの転換の責任を日本銀行の金融政策「だけ」におしつけて,政府の責任ではないとした。まちがっていたのはこの「だけ」のところである。現実には政府は財政政策も行うので,「だけ」という見地を貫いたわけではない。しかし,金融緩和に過度に依存したことはまちがいない。

 その結果はどうか。異次元緩和と,結局は実行した財政拡張でいわば拡張政策が総動員されたにもかかわらず,アベノミクスで想定された景気回復メカニズムは,一部しか実現していない。実現したのは以下の二つだ。

「量的金融緩和→利子率低下→円安と株高→輸出産業中心に企業業績」
「企業業績回復→雇用拡大」

 しかし,以下は動きがないことはないが弱く,「実感なき景気回復」になっている。
「雇用拡大→賃金上昇→家計消費拡大」
「企業業績回復→投資拡大」
「利子率低下→投資拡大」

 そしてまとめとして,以下は実現していない。
「利子率低下→デフレマインド脱却→物価上昇→投資・消費拡大」

 これは,程度の差はあれ多くの人が認めるアベノミクスの通信簿だろう。そこで問題は,「アベノミクスは不十分だから,もっと徹底しなければならない」と考えるべきか「アベノミクスはどこか間違っているので,変更しなければならない」かだ。野口氏らは,前者の立場に立っている。しかし,私はマクロ経済政策には方向転換が必要だと思う。アベノミクスは,このまま続けるだけではザルで水をくむような,効果の限界生産性が低い状態に陥っていくだろう。ただし,その間違いは金融と財政の拡張にあるのではない。金融政策の過度の依存と,財政・社会政策の中身である。

 金融政策への過度の依存とは,景気回復のメカニズムに即して言うと,輸出と株価引き上げを起点にした波及効果に頼ることであった。これがうまくいっていない。なるほど,「低金利→円安→輸出増→企業業績回復」や「低金利→株価のつり上げ」は実現した。しかし,そこで動きは止まってしまう。企業は投資機会を見いだせず,リスクに備えて流動性を抱え込んでいる。株価上昇は,大部分の個人の消費につながっていない。この点で,アベノミクスは地に足がついていないとも言えるし,別の言い方をすれば,輸出で稼ぎ,上昇する株価に依存する1980年代までの古き日本を想定したものだともいえる。

 繰り返すが,まだ金融を緩和し,財政を引き締めるべきではないという点では,私はリフレ派に賛成する。しかし,緩和しておけば問題がだんだんと解決するというのはまちがっていて,方向転換が必要だ。それは金融政策によるインフレ期待醸成に過度に賭けることをやめて,財政・社会政策で人々のより具体的な期待に働きかけることと,輸出でなく国内市場,株価でなく実体経済に働きかけることだ。貨幣の世界で「インフレ期待」を起こすことに集中する政策から,実物の世界で人口減少・高齢社会の将来展望を示し,事業機会の見通しを開き,個人の不安を緩和する政策への転換だ。広げるべきは物価上昇への期待ではなく,社会・経済への形のある「期待」だ。私はこのように考える。その政策は,例えば低所得者層の所得底上げによる格差の緩和,労働力率が上がっている女性と高齢者の労働条件の改善,既存大企業よりも中小企業やベンチャー企業の新市場創造型イノベーションへの支援等に向かうべきだ。これがアベノミクスへの対案の一つの方向だ。

 なお,財政再建については,現時点ではなく,賃金インフレが生じた段階で手を打つのが適当と考える。その点ではリフレ派,というよりケインズ派の主張に賛成できる。それから,税収増加を消費税に限ると2014年の時のように景気を挫くので,他の方法による税負担引き上げを検討しなければならない。これがアベノミクスの対案のもう一つの方向であるが,難問でもあり,具体的にはいましばらく検討したい。

野口旭[2018]『アベノミクスが変えた日本経済』ちくま新書。
https://www.amazon.co.jp/dp/4480071237/

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「内田樹が語る雇用問題」へのコメント (2018/5/8)

「内田樹が語る雇用問題」へのコメント(内田教授の語りへのコメント3)。

4,「21世紀のニューディールが必要」論(これは賛成)
 内田教授は,「すべての企業が人件費カットに成功したら、短期的には利益が出ても、長期的には巷間に貧困者・失業者があふれかえって、購買力そのものが失われる。国内マーケットが縮小して、商品が売れなくなれば、国民経済は立ち行きません」(記事3)と言われる。また,「このまま経済を市場に丸投げしていれば、雇用崩壊、失業者の増大、階層の二極化、そして近代市民社会の崩壊と「中世化」という道筋を人類はたどることになる可能性が高い」(記事3)とも言われる。これから市場化・資本主義化する余地がある途上国はとにかく,先進国についてはそうした恐れが確かにあると私も思う。内田教授は,「自己責任で貧乏になった人間を税金で支援する謂れはない、と」(記事3)言う見地に異を唱え,「21世紀のニューディール政策」が必要だと僕は思っています」(記事3)と言われる。ここまでは,私も賛成だ。

 しかし,ここから雇用を拡大する政策や制度改革の話が出るのかと思ったら,そうではない。

5.「やりたいことをやりなさい」論
 内田教授は,インタビュアーの「これから社会に出ていく若者たちはどう備えたらよいのでしょうか」という問いに対して,「この状況下で若い人に告げるべき言葉としては、「やりたいことをやりなさい」ということしかありません」と個人の選択の問題に切り替えてしまう(そういう風に水を向けるインタビュアーにも問題があると思うが)。そして「若い人には仕事は世の中に無数にあるということを伝えたいですね。無数にあるけれど、一つ一つの求人数は少ない。そういう求人情報は若い人たちのもとには届かない。求人と求職をマッチングするシステムがないからです」(記事3)という。

 ついでに「「Tシャツと半ズボンとゴム草履でできる仕事だったらなんでもいい」とか、そういうのって実は結構あると思いますよ。僕は神戸女学院大学に就職して最初の授業の時に、ツイードのジャケットを着て、ダンガリーのシャツを着て、黒いニットタイをして眼鏡をかけて教壇に立ったんですけれど、後から考えたら、あれはインディ・ジョーンズが冒険の旅から戻って大学で考古学の授業をしている時の恰好だったんです」と意味不明の自慢を始める。まるで,自分のような気概がない若者はだめだと言わんばかりに。

 あげく「若い人たちは何も不安に感じることはないと言いたいです。もちろんある種の製造業やある種のサービス業は、機械に取って代わられるかも知れませんけれど、人間の微細な感覚や、黒白のはっきりしないグレーゾーンでの判断力とか、原理的には解けない問題を常識で解くというようなことは人間にしかできない」(記事3)と説教するのだ。

 これは理論的に古めかしい間違いだ。自己責任でない失業があるのは,有効需要が不足しているからだ。ならば,政策や制度を変更することによって需要を増やし,雇用機会を作らねばならない。「ニューディール政策」と言うなら,普通はそういうことになるはずだ。いくら「人間にしかできない」仕事があっても,それが有効需要として現実化しない限り,非自発的失業は解消しない。マルクスは19世紀の昔から,ケインズは1930年代からそう言っているのだ。内田教授はマルクスを読むことを若者に奨励していたはずだが,これはいったいどうしたことか。

 内田教授は失業の要因として,求人と求職がマッチングできていないということしか語っていない。需要が不足しているのなく,単に需要と供給が出会っていないというのだ。これなら,労働市場を完全にすれば失業はなくなる。政府がやるべきことは,有効需要創出ではなく,ミスマッチをなくすために情報流通をよくし,マッチング機会を増やすだけでよいことになる。内田教授は「市場に丸投げ」を批判しているが,マルクスやケインズのように労働市場に本質的弱点があって非自発的失業が生じると指摘しているわけではないのだ。

 結局,内田教授は,自己責任論を否定しているようでいて,記事3のタイトルのように「やりたいことをやりなさい 仕事なんて無数にある」と説教されている。それでは,きちんと探しても見つからなかったら,結局は若者の自己責任だよと言う議論になってしまわないか。

内田教授の語りへのコメント1
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/201858_31.html

内田教授の語りへのコメント2
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/201858_23.html

記事3 内田樹が語る雇用問題――やりたいことをやりなさい 仕事なんて無数にある
「人口減少社会」を内田樹と考える#3
http://bunshun.jp/articles/-/7167

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「内田樹が語る貧困問題」へのコメント (2018/5/8)

「内田樹が語る貧困問題」へのコメント(内田教授の語りへのコメント2)

2.フェアなら貧困に耐えろ論。
 内田教授は,「分配がフェアであれば、貧困にも耐えられる。分配がアンフェアだと、わずかな格差でも気に病むし、それによって傷つけられもする。そういうものです。僕たちの子どもの頃の日本の貧しさは、いまの若い世代には想像もつかないと思います」(記事2)と言い放つ。俺たちが貧乏に耐えたんだからお前たちも耐えられるはずだというのはどうなのか。内田教授は,再分配前33%,再分配後も16%の相対的貧困率(2012年)を「わずかな格差でも気に病む」程度だと思っているのか。いまでも1億総中流がちょっと変わっただけだとでも思っているのか。

 内田教授は触れていないが,格差や貧困には,それが自己責任や,低成長によるやむを得ないことなのか,そうではなく不適切な政策や制度疲労によるものではないのかという問題がある。内田教授は,フェアを必要とおっしゃるから自己責任論はとらないのだろう。しかし,フェアなら貧困はやむを得ないというのはおかしい。フェアな成長の仕方,高成長は無理としても,持続可能なできる限りの成長を追求することが必要ではないのか。

3.持ち出しで共同体を作れ論。
 「少子化のペースを少しでも緩和したいと思うなら、まず地域共同体の再構築と育児支援から始めればいい」(記事2)。それは賛成だ。しかし,育児支援には大いに金がかかるのであって,貧困な中でどうやって育児支援をするのか。

 それは持ち出しでやるのだそうだ。「相互支援の中間共同体を立ち上げるというのは、基本的には行政の支援を当てにするのではなくて、私人が身銭を切って、自分で手作りする事業だと僕は思っています。「持ち出し」なんです」という。自己犠牲の勧めである。なるほど,行政依存ではコミュニティは作れないだろう。それは正しい。また,誰かが自己犠牲を払わなければ共同体づくりなどできないであろう。残念ながら,そういうものだろう。しかし,これを一般化して,おおぜいの人に説教するのは無理筋である。非正規労働者比率が37.5%に達し(2016年),しかも家計補助でなく非正規の賃金を主要収入にして食っている人が増えている今日,フェアなら貧困に耐えろと言い,あげく「持ち出し」で共同体を作れというのだろうか。

 それは,フェアを強調する点ではリベラルに見えるが,事実上,貧困をがまんしろという新自由主義の自己責任論と同じ政策勧告であり,共同体のために個人に犠牲を強いる古い保守思想ではないか。

 内田教授の記事1と記事2を合わせて読むと唖然とさせられるのは,1950年生まれで団塊の世代の「はじっこ」と自称する割には,あまりにも「自己批判」がなく,自らを全肯定していることだ。団塊の世代の貧困に比べればいまは大したことがない,団塊の世代の男性のわがままは否定するな,だけどこれからの世代は自己犠牲しろ。これは,あまりにも身勝手ではないだろうか。

記事1「内田樹が語る高齢者問題――「いい年してガキ」なぜ日本の老人は幼稚なのか?:「人口減少社会」を内田樹と考える#1」文春オンライン,2018年4月30日。
http://bunshun.jp/articles/-/7155

内田教授の語りへのコメント1
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/201858_31.html

内田教授の語りへのコメント3
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/201858_29.html

記事2「内田樹が語る貧困問題――貧困解決には「持ちだし覚悟」の中間共同体が必要だ:「人口減少社会」を内田樹と考える#2」文春オンライン,2018年5月2日。
http://bunshun.jp/articles/-/7166

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「内田樹が語る高齢者問題」へのコメント (2018/5/8)

「内田樹が語る高齢者問題」へのコメント(内田教授の語りへのコメント1)

 内田教授は,一般的にはリベラルな発言をされる方とみなされているが,以前から何か違うのではないかと引っかかるところがあった。今回の三つの記事で,何がおかしいかようやく整理することができた。3本続けて投稿する。この投稿がコメント1で,コメント3まで続く。

1.団塊の世代の男性論。
 若い時からずっと仕事漬けで、家事も育児も介護もしたことがないという男性の場合は高齢者になった時に、ほんとうに手に負えなくなると思います。生活能力が低すぎて」(記事1)とおっしゃる。まったくその通りであって,世代が違うが1964年生まれのバブル直前世代で仕事漬けの私も自戒したい。

 しかし,こういう人は団塊世代の男性に多いと想定して話しているはずなのだが,「いや、申し訳ないけど60歳過ぎてから市民的成熟を遂げることは不可能です。」(記事1)と言い放ち,「これから日本が直面する最大の社会的難問はこの大量の「幼児的な老人たち」がそれなりに自尊感情を維持しながら、愉快な生活を送ってもらうためにどうすればいいのかということですね」(記事1)という。

 それは単なる甘えではないか。構造改革のせいでも安倍内閣の右翼的政策や反知性主義のせいでもなく,自己責任ではないか。70代になってからでも追い込まれて市民的成熟を遂げるべきである。私も追い込まれたときに,そこは自己責任と心得たいと思う。

コメント2
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/201858_23.html

コメント3
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/201858_29.html

記事1「内田樹が語る高齢者問題――「いい年してガキ」なぜ日本の老人は幼稚なのか?:「人口減少社会」を内田樹と考える#1」文春オンライン,2018年4月30日。
http://bunshun.jp/articles/-/7155

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年金機構のデータ入力委託問題について (2018/5/8)

 年金機構が,結局データ入力を中国系企業に委託していた件。問題は委託先が中国企業なことではない。私は以下のように考える。

*そもそも,年金機構が委託に出したデータ入力そのものに不必要な作業が多数含まれている。今回,マイナンバー流出が懸念されたが,実はマイナンバーを使えば入力自体が不要だったデータがある。「マイナンバーがあれば、氏名や生年月日などの記入・入力は不要になるはずではないのか。年収なども税務署(国税庁)や地方自治体に照会すれば分かる項目ではないのか」(※1)。マイナンバーを作るだけ作っておいて活用せず,重複データの入力を金をかけて外注するところで,もう駄目である。

*入力すべき個人情報を,個人の特定が不可能なほどにバラす方法はある。「秘匿すべき項目が数多く含まれる書類を入力する場合、専用のソフトで項目をバラバラにする「イメージカット」の処理をする。項目ごとにつくったファイル単位で、大勢のオペレータがキーボードで一斉に入力していく。専用ソフトがないと復元できないし、情報がバラバラになっているので、入力作業の段階で個人を特定するのは不可能に近い」(※2) 。この方法は,私も大連市の企業でヒアリングした。

*またデータを作業先に保存できないような措置を取る方法もある。外注先に記憶ドライブのまったくないPCを用意し(シンクライアントという),サーバ上での作業だけさせるのだ。ソフトバンクや,ソフトバンクから外注を受けている大連の企業は,このようなシステムを取っている。もちろん,そこには日本人マネージャーもいれば,日本滞在経験の長い中国人もいて,コミュニケーションは日本語で行われている。

*そうした措置を取り,さらに実際に実行できているかどうかを監査し,厳重なチェックをするのは,当然だ。その上で,そこまでやるとして,1)中国など外国で作業をしてもよいか(日系企業であっても),あるいは2)中国など外資企業に委託してもよいか(作業場所が日本であっても)を決める必要がある。公共のデータで個人データであるから,扱いを慎重にするのは当然だ。私は中国企業に肩入れしているのではなく,よいならよい,だめならだめではっきり決めればよいと思う。

*しかし,つまらない敵対心で「中国だからダメだ」という発想では話にならない。国籍だけを見て情報管理の中身を見ない思想で管理したら,日本企業に外注しようが日本国内で作業させようが,ミスと情報流出を引き起こすだろう。きちんと管理できるかどうか。それがすべてだ。現に今回の再委託事件では,入力ミスは大連で中国企業が入力した分でなく,日本のSAY企画が日本国内で入力した分で起こっていた(涙)。管理と作業がでたらめであれば,いくら国内で日本企業がやってもダメなのだ。逆に,私が何年も取材してきた経験から言えば,中国で中国系企業に入力してもらうのであっても,良い仕事ができて,セキュリティも保てる会社もある。もちろん,日本からの管理は神経を使うし,手間暇はかかるが。

*さて,仮に,公共のセンシティブ過ぎるデータだから日本企業限定で,かつ作業場所は日本に限定したいという話になったとしよう。その場合に絶対に必要なことがある。日本国内での相場料金をきちんと支払うことだ。再委託問題が起きた時はどうだったのか。日本データ・エントリー協会の料金資料では「漢字とANK(Ka注:アルファベット,数字,カタカナ)が混在した入力を受託する場合、オペレータ1人当たりの月額は56万4600円となっている。SAY企画の受託条件「計800人」を「800人/月」と解釈すると、適正な受託金額は4億5168万円だ。ところが年金機構が入札前に見込んだ予定価格は2億4214万円で、適正価格の53.6%にすぎない」(※2)。「リクルートジョブズの調べによれば、2017年8月時点の3大都市圏における「データ入力」担当者の募集時平均時給は1394円だ。入力1人分当たり14.9円の落札なので、単純計算するとSAY企画はデータ入力担当者に1時間当たり94枚、およそ38秒に1枚を入力させ続けなければペイできない」(※1)。無理である。カネも払わず日本人だから秘密を守ってミスするなと言うのは無茶苦茶だし,できもしないのに引き受ける方も問題だ。

*付言。私がこれまでITサービス産業調査を行ってきた大連市は10万人が日本語を話し,反日デモが起こらない都市だ。しかし,東北部の地方都市とはいえ,賃金は急速に上がっている。また大連への外注は円建てなので,円安になると発注できなくなる。まもなく,単純なデータ入力は大連市では引き受けてもらえず,中国内陸部かベトナムに発注するしかなくなるだろう。そして,現在,ITサービス産業がある新興国で日本語学習にそこそこ人気があるのは中国とベトナムくらいなので,ミャンマーあたりの開拓に成功しない限り,もう後がない。ひるがえって,日本国内でのIT人材は,2030年に59万人不足すると予測されている(経済産業省による)。うっかりすると,頼みたくてもどこにも頼めない日が来るかもしれないことは知っておくべきだ。

*結論
・年金機構はマイナンバーの流出を心配する以前に,マイナンバーをちゃんと使って,余計な作業自体を減らすべきだ。それが一番の効率化であり,セキュリティ確保だ。
・日本国内で日本企業に作業させたいのであれば,それ相当の料金を払わねばならない。
・それがコスト的に無理であれば,マネジメント能力を磨き,海外で入力したり,外資企業が入力してもセキュリティに問題がないようにしなければならない。

他に道はない。

※1 清嶋直樹「1枚15円で入力できるのか、年金データ入力ミスに透ける根深い問題」日経XTECH,2018年4月16日。
http://tech.nikkeibp.co.jp/atcl/nxt/column/18/00138/041200047/?P=2

※2 畑均「年金制度を危機に晒す「年金機構」の実態…国民の個人情報を中国に漏洩、年金過少給付」Business Journal,2018年4月9日。
http://biz-journal.jp/2018/04/post_22941_3.html

「データ入力 別の中国系企業に委託 年金機構「時間限られていた」」『産経新聞』2018年5月6日。
http://www.sankei.com/life/news/180506/lif1805060013-n2.html