2018年10月18日木曜日

梶谷懐『日本と中国,「脱近代」の誘惑』太田出版,2015年を一読して (2015/11/2)



 「近代」社会の行き詰まりを,何らかの意味での「脱近代」を求めることによって打開しようとする動きをどう捉えるか。これは,人文社会科学の一大テーマだ。ここに正面から挑むというのは,正直,私などには気が遠くなる話なのだが,梶谷教授は自分の専門である中国研究に内在しつつ果敢に挑戦されている。それも,日中の安全保障上の緊張と,近代を脱近代で超えようとする思想に密接な関係があるという切実な問題意識に基づいてだ。

 たとえば集団的自衛権。

 安倍政権の公式見解では,これは日米のパートナーシップを強め,自由と民主主義と法の支配を尊重する普通の国として,同盟国とともに安全保障を進めようとするものだ。しかし,その支持者の政治行動や発言から批判者は,戦前の日本帝国による侵略戦争を美化する方向に歴史を修正し,国民の基本的人権を抑圧し,さらに女性や内外の外国人に対する差別と偏見を助長し,国民には道徳的義務を押し付けるような政治体制づくりをかぎ取ってしまい,不信感を持つ。

 逆に,集団的自衛権の行使に反対する勢力は,立憲主義を擁護して政権党の恣意的支配を抑止し,日本国憲法第9条を擁護して,戦争によらない国際紛争の外交による解決を図り,あわせて基本的人権と議会制民主主義を擁護することを訴える。しかし,その支持者の行動や発言に批判者は,対外膨張と軍事的挑発を強め,憲政と基本的人権,三権分立を「国情」を理由に認めずに批判勢力を抑圧する中国に対する寛容さを読み取ってしまい,不信感を持つ。

 つまり,双方とも近代社会の枠内で自己を主張しているにもかかわらず,今日,無視できるはずのないアジアの過去と現在を十分に取り上げて自己の主張に組み込めていない。そのため,ともに非近代的な側面の「闇」の部分を相手に見出して不信感を募らせ,コミュニケーション不全が起きるのだと,著者は言う。これは数多い本書の論点の一つに過ぎないが,著者の問題意識がよくわかるところだ。

 本書が取り上げるテーマはあまりに大きくて広く,この難題に挑んだ著者には敬意を表せざるを得ない。しかし,あまりにも難題である。駆使される諸概念,たとえば「西洋」と「アジア」,「憲政」と「民主」,「国権」と「民権」があり,さらに「近代」と「脱近代」と「前近代」,「資本主義」と「社会主義」などは,今日では,一つずつ意味を確認するのに手間取るようなものばかりだ。そのため,どうしても読み進めながら,「ここでの『近代』の意味は何?」「『アジア的なるもの』ってどこまで含むの?」という疑問にぶち当たり,つっかえつっかえしながら進むことになってしまう。一読すれば,問題の所在は上記のようにわかるのだが,問題の整理と解決の方向は,一読しただけではどうもまだわからない(私の読解力不足による可能性があるということだ)。

 種々の概念の中でもわかりにくいのは,「近代」と言う概念そのものだろう。中国が資本主義化して激しい競争社会となっているけれども私有財産権がはっきりしないというのは「近代」なのか違うのか,中国に「憲政」はないけど多数の民の利益を無視できないという意味でそこそこ「民主」はあるというのは,「非・西洋近代」なのはわかるとして,より広義の「近代」なのか「非近代」なのか,と考えるともう迷路に入りそうになる。

 ただ,著者がきわめてはっきりさせていることもある。「国権」と「民権」という軸を忘れるなということだ。権力の分かち合いを拒否し,説明を拒否する権力と、そうでない社会は異なるということだ。それを忘れて,多数の民族を統治できる「帝国の原理」(日本であれ中国であれ)にあこがれるのはおかしい。それを忘れて,民の要求がそこそこ通る中国的「民主」に留保をつけないのはおかしい,それを忘れて「前近代的」社会を強権的に「近代化」しようとすると日本帝国による侵略の正当化になる,等々。著者は,多数の要求を帝国が実現するという意味の「帝国の良き統治」や「民主」でよしとしてはならない根拠として,マイノリティへの抑圧は一顧だにされなくなってしまうことをあげる。ウイグルやチベットや在日外国人の問題は,統治の原理に関わる問題なのだ。

 このように,まずは「民権」という軸が貫かれており,そこに著者の視座があるのではないかと私は読んだ。しかし,まだつかみきれない論点は数多い。何度か読み返しながら考えていくしかない。そして本書は,そうする価値がある本だと思う。

http://www.ohtabooks.com/publish/2015/06/06102743.html

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