2018年10月18日木曜日

いまどき労働者階級について:資本主義は均一な不熟練労働者を作り出さないことについてのノート (2015/3/20)

 「経済学入門A」のためのノート。労働者階級について。いったい,いまどき何を言っているんだと思われるだろうし,自分でもそう思うが,マルクス経済学の授業なので説明なしにすっ飛ばすこともできない。今回は専門家から見ると中身がありきたりで恥ずかしいがご勘弁願いたい。

 マルクス経済学では,資本家,労働者,地主が3大階級であり,とくに資本家と労働者は,資本主義の発展そのものが生み出す2大階級とされている。『資本論』では,これらの階級の一般的なありかたが,経済理論的に考察されている。ここで言う「労働者階級」が,現代社会の実態と異なるのではないかということは,実は100年くらい前からずっと疑問に付されていることだ。

 労働者階級とは賃労働者から構成されている階級だ。賃労働者とは,生産手段を所有していないために,資本家に自分の労働力を売って賃金を得ることを主要な生計手段とする必要がある人のことだ。支払われる賃金は,等価交換の原理の下では労働力の価値に等しい。労働力の価値は,1)労働者本人が労働力を再生産するために必要な生活必需品の価値,2)労働者に必要とされる技能を磨くための訓練費用,3)労働者が扶養する,将来の労働力である子弟の養育費,の合計とされている。単純な理論モデル上の資本家は自己利益を追求するものであるから,この1)2)3)の合計より多くを払う理由がない。1)2)3)の合計の最小限度は,しばしば「生存賃金」と呼ばれる。

 このモデルは,経済学の一般理論としてはもっともなことだ。労働者という存在を純粋にモデル化しなければ理論が始まらない。また賃金論も,「生存賃金が払われないと資本主義は成り立たない」,「資本主義が成り立っているとすれば,まがりなりにも生存賃金は支払われている」という意味で,資本主義の存立条件を明らかにしたものとして妥当だ。だから放棄すべきではないし,政治経済学入門では教えなければならない。ここまでは何も問題はないと私は思う。

 いや現実と異なるではないかという人も多いだろうが,一般理論のモデルと現実が異なるのは色々な社会科学では当たり前のことであって,マルクス経済学に限ったことではない。要はその間の論理がつながれているかどうかが問題だ。また,一般理論で語るべきことと,発展段階論や個別の事情で語るべきことは当然違ってくる。

 例えば,労働組合運動による賃金交渉や福祉国家が(このところだいぶ弱体化したとはいえ)それなりに存在しているのは,もちろん原理的な根拠のあることだが,ロシア革命以後の社会主義の脅威が資本主義に反作用し,体制安定のために許容されたり,積極的に構築されたりしているという,社会ごとの,時期ごとの事情を反映した政治・社会的要因が作用している。賃金が生存水準より上がっているから,一般理論としての生存賃金論が間違いだということにはならない。それは一般理論と現実の媒介項の問題かもしれないからだ。

 逆に,明らかにそうでないのに,大多数の労働者に等しく生存賃金しか払われていないと主張するのは単なるマルクス崇拝のイデオロギーだ。貧しい人を見つけてあれもマルクスが正しい,これもマルクスが正しいというのはおかしいのであって,労働者内に大きな格差が存在していることは,マルクスが正しいことを意味しないのだ。一方では,かなりの消費水準を実現し,一部の所得は株式投資に回す人もいる。他方で,本当に生存ギリギリの人もいる。その現実を一般理論から,媒介項の何段階もの階段を上って説明しなければならないはずだ。

 回り道をした。現状分析はおくとしても,一般理論の範囲内で見ても,マルクスの論理には問題は残っていると私は思う。もう,相当多くの人が言っていることで目新しくもなんともないのだが,授業用のノートとして書きとめておく。

 マルクスのモデルが成り立つためには,社会が3大階級のうち,資本家と労働者に分かれていく強力な傾向と,労働者が技能を基礎にして自立的に働くことが資本の働きによってできなくなり,純粋に労働力を売るしかない状態に追い込まれる傾向が必要だ。このことは機械制大工業論と資本の蓄積過程論で論じられている。しかし,その証明が不十分ではないかと思う(※1)。

 ひとつは管理者だ。意外にも『資本論』は何か所かで管理者,今で言う専門的経営者の考察を行っている。管理者は,労働力を売って給与をもらうという点では形式的には賃労働者とも言えるが,その労働の中身は,資本の機能を遂行し,生産やその他の業務,そして労働を管理することだ。トップ経営者は,資本の管理機能の頂点を担うし,自分の報酬を自分で決められるとか,貨幣資本家の監督を逃れやすいという事情もあってとくに報酬は高く,むしろ剰余価値を源泉として所得を得ていると言ってよいだろう(※2)。 しかし,それならトップは資本家階級の現代の姿ではないかという人もいるかもしれず,それはそれでもっともなところがある。例えば,以前はよく使われた大橋隆憲氏の方式での階級構成論は,トップ経営者を資本家階級としている(大橋編著「1971」)し,戦後に作られた多くの階級構成表もそうだ(橋本[1999]16-17頁による)。

 だが,管理者はトップだけではない。大量に存在するミドル・マネジメントやローワー・マネジメントはどうか。労働力を売って賃金をもらわねば生活できない人が多いという意味では労働者性を持つ。トップ経営者と異なり,資本家と言えるほどの指揮・監督権を持っているわけでもないし,利潤を自ら処分できるわけでもない。しかし,ミドルやローワーも,資本の機能を遂行する使命を帯びているのであり(会社の役に立つことを仕事としない課長さんはいない),そのために必要な権限を配分されている。中間以下の管理者は資本家とも言えないが,純粋な労働者とも言えない。

 もうひとつは,専門的・技術的労働者だ。マルクスはこれをほんの少数とみているが,明らかに異なる。そうなる理由がない。機械制大工業が発展したからと言って,技術者や専門的労働者は不要にならず,むしろ必要性が増すことは明らかだ。まして研究開発者はなおさらだ。その知的スキルなしに製品開発も技術開発もできない。これらも,管理とはやや異なる性質を持つが,資本の機能を遂行するための専門機能を配分されている。管理者よりは資本家から遠い。しかし,明らかに高度な技能を持っていることと,生産の直接の過程(いわゆるライン)につかされているのではないことが,不熟練労働者とも異なる。むしろ,生産過程を円滑に動かすための間接的な過程に関わっている。このため,機械化で自立性を失った労働者とは異なる地位に立つ。

 中間管理者も専門的・技術的労働者も,その仕事は機械化し切ることができず,独特のスキルを必要とする。その訓練費用は高い。また,利潤を自ら処分はできないが,資本機能の遂行という仕事に対して,利潤分配を受ける理由も大いにある。だから,不熟練労働者の労働力の価値とは異なる賃金を得る理由はあるのだ。

 中間管理者や専門的・技術的労働者も広い意味で労働者階級と呼ぶべきという意見もある。その根拠は,主に,結局は労働力を売っているから労働者階級だということと,機械化とコンピュータ化とネットワーク化でどんどん不熟練化して数もいらなくなってプロレタリア化するということだ。大橋方式はこのような理解であり,この延長線上に戸木田嘉久,牧野富夫,加藤祐治などの見解がある(大橋方式の政治的背景は橋本[1999]第1章を参照)。

 労働力を売って暮らしているという点はもちろん重要で,その点でこれらの人々も経済学の労働力商品論につながっている。しかし,資本の機能を担っていることも同様に重視しなければならない。また,不熟練化の傾向は確かにあるものに,逆に管理のスキルや専門的スキルが新たに重要視される傾向もあるから,一面的すぎる。とくに新技術が開発され,新製品が開発されて新産業が生まれる場合はそうだ(※3)。階級は,労働力を売っているかどうかだけで決まるものではない。生産における位置,とくに生産手段の所有と剰余生産物の取得に対する位置によって決まり,また生産活動の統制の中での位置によって決まるとみるべきだ。とすると,指揮・監督機能や専門的機能を担う中間管理者や専門的・技術的労働者は新中間階級とまとめる方が素直ではないだろうか(橋本[1999]第3章。表現は必ずしも同じではないが)。

 さらに,生産労働者についてさえも,均一な不熟練労働者にはならない。まず大量生産が普及しない分野では熟練労働者が必要とされるし(※4),大量生産が普及した分野であっても,熟練労働者から不熟練労働者までの階層構造は多くの産業で存在している。マルクスも労働者の階層的編成に触れてはいるのだが,結局,論理としては均一な不熟練労働者への収れんを論じてしまっている。

 現代では非常に多くなった事務労働者,販売労働者についても,その実情は様々だろう。実態に応じて,つまり指揮・監督機能や専門機能を担うか,利潤分配を受けられるかどうかに応じて,新中間階級か労働者階級かが決まってくると見ればいいだろう。

 マルクスは管理者の存在も技術者の存在も,労働力の階層的編成も認識していた。しかし,『資本論』ではそこに理論的な重きをおかず,ただ労働者のスキルはダウングレードされ,均一な不熟練労働者が大量に生み出されると見込み,それをもって資本・賃労働関係のモデルを確証するものとしてしまった。これは適切ではなかったと思う。近代資本主義社会における生産様式は,純粋な資本家と労働者ではなく,少なくとも新中間階級をも作り出すし,労働者階級においても均一な不熟練労働者を作り出すとは言えないのだ。機械制大工業という経営様式には,そこまでの力はないということなのだ。マルクス派の政治経済学でやっていくためには,一般理論レベルでもこのことを率直に認めることが必要だと思う(※5)。

※1 経済学の一般理論なので,純粋な資本主義社会を想定してモデル化するのは問題ない。だから,とりあえず問題なのは資本主義社会内部で生まれる階級であり,それが資本家と労働者にわかれるかどうかだ。旧中間層(自営業者,自営農民)が広く残存していることは,現状分析では重要だが,とりえず一般理論からは除外してもよいだろう。地主のあり方が多様であることも同様だ。
※2 ちなみにピケティ[2013=2014]が格差の要因としてr>gによる資本所得と別に,スーパー経営者の労働所得をあげていることに注意。ピケティの議論では,この二つが分離している。しかし,スーパー経営者の報酬は,形式上は労働所得でも,実質は資本の果実の分配ではないだろうか。私は,マルクス経済学者はここを検討すべきだと思っている。
※3 マルクスはプロセス・イノベーションには強いが,プロダクト・イノベーションは驚くほど論じていない。これも一般理論としての弱点だと思う。シュムペーターはマルクスを読んでここに気がついたのだと思う。
※4 資本主義化はしているが(だから旧中間層の世界ではないが),マルクスが想定したほど大量生産にならないという分野が広範に存在していることも注意しなければならない。ハーヴェイ[2010=2011:324]は,「マルクスがマンチェスターで進行中の事態を資本主義的産業主義の究極形態であるかのように一般化する傾向があった」として,バーミンガムの小規模企業の集積を,本来は考慮されるべきだった別のモデルとしてあげている。
※5 ややマニアックな補足。株式会社も専門的経営者も,一般理論の中では扱えない,もっと具体的な発展段階論でだけ扱える,という見解もありうる。しかし,これは,株式会社を独占と混同している。株式会社は独占とは別に論理化しなければならないし,独占抜きでも論理化できる。また,経営者支配を例外的な個別的事態としているのもおかしい。私は,経営者支配は,株式会社がとる典型的な姿であって,一般理論でモデル化すべきだと思う(有井[1991])。

有井行夫『株式会社の正当性と所有理論』青木書店,1991年。
大橋隆憲編著[1971]『日本の階級構成』岩波新書。
橋本健二[1999]『現代日本の階級構造』東信堂。
ハーヴェイ,デヴィッド(森田成也・中村好孝訳)[2010=2011]『<資本論>入門』作品社。
ピケティ,トマ(山形浩生ほか訳)[2013=2014]『21世紀の資本』みすず書房。

2015/3/20 Facebook
2016/1/6 Google+
2020/02/01 誤字・語句修正

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