2018年10月25日木曜日

岡田一郎『革新自治体 熱狂と挫折に何を学ぶか』(中公新書,2016年7月)を読んで (2016/8/11)

 私が住む仙台市も,かつて島野武を市長とする革新自治体であった。私は,島野の急逝を受けて行われた1984年の市長選挙で,自民党などが推す石井亨と社会党(当時),共産両党が推す勅使河原安夫が激しく対決したことをよく覚えている。石井は当選して3期務めたが,ゼネコン汚職で失脚した。この時期,私の身近には,社会党と共産党を共闘させるために苦労した人々がいて,その努力はこの選挙を最後に実を結ばなくなった。彼/彼女らが選挙のたびに苦悩し,挫折し,立ち直ろうとするのを繰り返していたことも,少しは知っている。革新自治体の崩壊過程を知ることは,私自身が見聞きしたことの意味を明らかにする作業でもある。
 本書の主張のうち,通説,あるいは巷間言われがちな思い込みを覆しているのは,「革新自治体は福祉への支出や公務員人件費の高騰などがもたらした財政難によって有権者の支持を失った」わけではなかったということである。これは,第3期美濃部都政のあり方に引きずられたイメージであり,革新自治体全体に当てはまるものではなかった。京都府の蜷川虎三知事や大阪府の黒田了一知事が退任した時には,府財政は黒字であったという。
 それでは,なぜ革新自治体は1979年以後,姿を消して行ったのか。著者の答えは,「革新陣営が中道政党を引き付けるのに失敗したから」というものである。私は,これは,政党間の合従連衡だけを見る限りは正しいと思う。仙台市の革新市政も,社会・共産と,社会・公明のブリッジ共闘で成り立っていた。全国でも,1970年代には,今では想像しにくいが,社会・公明・共産の支持によって成り立つ自治体首長が少なくなかった。この共闘が維持できなくなったときに,革新首長が当選することが難しくなったのである。そして社会党が自ら中道政党の側に寄って行った。
 しかし,それだけではどうも政党勢力の数合わせのようなところがあり,食い足りないものが残る。この著者の提起はもっと掘り下げて,より深い問題の解明につなげる必要があるのではないか。
 第一に,最大の中道政党であったし,今も存在している公明党とは何なのかということである。両極端から言おう。1970年代前半の革新陣営にとって,公明党は創価学会という宗教団体を背景にしてはいるが,憲法遵守や人間性社会主義を唱えており,改革のありようによっては革新陣営に与する可能性もありとみられていた。これも今では信じがたいことだが,共産党の宮本顕治と創価学会の池田大作が会談し,互いを敵視しないことで合意したことさえあったのである。他方,1980年代以後の共産党から見れば,公明党は結局は政教一体であり,自民党の補完勢力であり共闘の対象になり得ないものであった。この両極端のいずれかが正しいにせよ,その中間のどこかが妥当であるにせよ,その根拠は何なのだろうか。公明党とは,社会のどのような階級・階層に根差し,どのような利害を,どのような理念のもとに実行する政党であって,そのあり方はどの程度まで幅があるものなのだろうか。私は名著とされる堀幸雄『公明党論』も読んでおらず不勉強だが,この論点が解明されない限り,「革新陣営が中道政党を引き付けられなかった」ことの根拠は深く理解されないように思うのである。「引き付けられる」可能性がどれほどあったかがわからないからだ。
 第二に,革新陣営内部の問題のうち,本書の随所で指摘されている革新首長と革新政党の協力の弱さである。私が驚いたのは,本書の記述が事実であるとすれば,革新政党は,革新首長を生み出す選挙の時は推進力になったが,革新自治体の運営において,首長の頼もしい助けになっていなかったように見えることである。与党であれば,首長と協調して政策の実現に向かって努力すべきであり,意見が異なったり未解明の問題があったとしても対話と政策立案によって前向きに乗り越えるべきであろう。ところが,革新政党地方組織と革新首長とのそうした対話・協調のありようが本書ではほとんど描かれていない。むしろ共産党と社会党のそれぞれが自己の主張を声高にする中で首長が疲弊していくという構図が描かれている。このような側面はどれほどあったのか。あったとすれば,なぜなのかを論じる必要があると思う。
 第三に,本書ではあまり出てこない自治体職員組織の問題である。本書では革新首長イコール革新自治体の行政ととらえられている部分が強いが,実際には首長だけで自治体が動くものではない。自治体職員が革新首長の理念や目標に共鳴して動くかどうか,自治体職員の能力や,組織効率が高いかどうかに,革新自治体の成果はかかっていたはずである。例えば,都政の批判的研究を行いながら若くして亡くなられた故・武居秀樹氏は,革新都政のミニ福祉国家的成果は,首長が保守派に変わっても引き継がれた部分があり,それは職員組織の連続性によるのではないかという見解を持っていた(この研究は武居氏が東北大学の社会人大学院生だった頃に始められたものであった)。
 そして,公明党の性格や革新政党の問題,自治体職員の問題を含め,すべての背景にある問題は,高度成長終焉以後の所得と雇用の創出ではないだろうか。飛鳥田横浜市政と美濃部東京都政以後の,つまり1960年代後半以後の革新自治体は,高度経済成長を前提に,そのひずみを正すことを使命とした。高度成長にもかかわらず存在する住宅,交通,環境,衛生,教育問題にとりくむことで支持を得た。しかし,1970年代半ばに高度成長が終焉した時,住民は再び所得と雇用を優先課題とするようになった。そのことにおいて,革新自治体は,保守勢力に見劣りした,あるいは少なくとも有権者にそう見えた。ありふれた見解かも知れないが,私にはそう思える。そして,この課題は,現在なお,革新勢力の末裔である共産党によっても,また新たに出現した野党共闘路線によっても,まだ乗り越えられていないと思う(※)。

 ※この点,経済学・財政学の見地から宮本憲一氏が「革新自治体には地域産業政策が欠けていた」と早くから指摘していたことは鋭かったと思う。私はほんの数年間,部局は違うが宮本氏と同じ大阪市立大学に勤務し,かつて氏がコンビナート中心の地域開発を鋭く批判した堺市に住んでいた。そして,宮本氏のリーダーシップのもと1976年に書かれた『堺市政白書』(1976年)の現代版を作る研究会に参加した。この時の執筆は,何をどう書いたらよいかわからず,たいへん苦しいものであり,ごく一部を執筆した『もっと,ええまち・堺へ 堺まちづくり白書』(1997年)にも満足はできなかった。この時に痛感したのは,地域開発の問題点を指摘することは何とかできても,対案をつくることは一段と難しいということであった。つまり,このノートで述べた課題は,あの時私自身のものであったし,それは震災復興研究においても,また形は違っても種々の産業研究においても,続いているのだと思っている。

<参考>
岡田一郎『革新自治体 熱狂と挫折に何を学ぶか』中公新書,2016年。
堀幸雄『公明党論』青木書店,1973年。
武居秀樹「日本における「自治体版福祉国家」の形成・成立・崩壊--美濃部東京都政の歴史的意義と限界」『政経研究』第76号,政治経済研究所,2001年3月(武居氏の説は氏の修士論文で主に読んだため,どの公表論文に表現されているかわからないのだが,たぶんこれではないか)。
宮本憲一『経済大国 昭和の歴史<10>(小学館ライブラリー)』小学館,1989年。
堺市職員労働組合・大阪自治体問題研究所編『堺市政白書 コンビナートとニュータウン開発の結果』自治体研究社,1976年。
重森暁監修・堺まちづくり研究会編『「堺まちづくり白書」 もっとええまち・堺へ -地域自立のネットワークをめざして-』堺まちづくり研究会,1997年。

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2016/8/25 Google+


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