2019年5月27日月曜日

バーリ&ミーンズ『現代株式会社と私有財産』誤読の歴史:森杲氏の新訳刊行に寄せて(2014/6/25)

 北海道大学図書刊行会から宣伝ハガキが来るまで気がつかなかったのだが、バーリ&ミーンズ『現代株式会社と私有財産』(The Modern Corporation and Private Property)が森杲先生の新訳によって新たに刊行された。従来の訳は1958年に出版されたものだが、超直訳調でどうも危なっかしく、原著を脇に置きながらでないと使えなかった。本に対する丁寧な読解では、森先生の右に出る者はいないと私は思っているので、新訳には大いに期待が持てる。

 バーリ&ミーンズと言えば、アメリカの巨大株式会社で「所有と経営の分離」と「経営者支配」が生じたことを示した本として知られている。しかし、この理解はまちがってはいないが正確ではない。バーリ&ミーンズが強調したのは「所有と支配の分離」の様々なバージョンであり、「経営者支配」はその極限である。

 もっと問題なのは、バーリ&ミーンズが「経営者支配の下では経営者は様々なステークホルダーに所得を割り当てる中立的テクノクラシーになった」と主張したと理解されていることだ。これはまったくの誤読だ。

 バーリ&ミーンズが主張したことはこうだ。「所有と支配の分離のもとで、支配者(経営者など)は自己利益を追求している。しかし、企業利潤を支配者が得ることは正当化できない。さりとて所有者(支配を失った株主)が得ることも、もはや正当化できない。こうなったら、支配の機能は、利潤を独り占めするのではなく、様々なステークホルダーに所得を割り当てる中立的テクノクラシーに変わる「べき」だ。そうならないと株式会社は存続できない」ということである。

 私が大学院に入って最初に公表した論文は、実はこの点に関するものであった。新訳を注文しながら、苦い思い出がよみがえった。着眼点はよかったと思う。しかし、身の程知らずであった。『資本論』の株式会社論をベースに、マルクス経済学内部の論争に関与する形で書いたためにわかりにくくなり、その上、自己主張を焦るあまり、説明不足の、穴だらけの論文となった。

 書いた後、語学的素養も教養もない自分には、(古典的で数理化されていないマルクス経済学の範囲でも)理論研究は無理だと悟った。まだしばらく、あきらめの悪い、妙な書き方の論文が続くのだが、まるきり理論・学説の論文を書いたのはこのときだけである。

 バーリ&ミーンズがなぜ「変わるべきだ」と規範論を主張したかについては、私の論文でも解釈しているが、わかりにくい。今回の新訳には森杲先生の長い解説がついているようなので、きっとそこに載っているであろう。まだ届かないが、読むのが楽しみだ。

拙稿「バーリ&ミーンズ『近代株式会社と私有財産』批判の方法的視点」はこちらでダウンロードできます


ロベルト・アンプエロ『ネルーダ事件』(2014/6/28)

ロベルト・アンプエロ『ネルーダ事件』。アジェンデ政権末期のチリ。キューバから来た男カジェタノは,詩人パブロ・ネルーダからある医者を探してほしいとの依頼を受ける。にわか探偵となったカジェタノは,メキシコへ,キューバへ,東ドイツへ,ボリビアへと飛び回ることになる。ネルーダの目的は政治工作でもなければ,自身のがんの治療法でもない。それでは,いったい……というような話。

 ネルーダの壮絶なパートナーとっかえひっかえ人生って,研究者には常識なのでしょうが,私,知りませんでした。

 チリでは「9・11」と言えば2001年のあれではなく,1973年9月11日,選挙で選ばれたサルバドール・アジェンデ政権をピノチェト将軍率いる軍部がクーデターで崩壊させたことを指すのだそうです。

2019年5月23日木曜日

ほとんどは途中で倒れてしまうけど:内海愛子・大沼保昭・田中宏・加藤陽子『戦後責任 アジアのまなざしに応えて』によせて(2014/7/14)

内海愛子・大沼保昭・田中宏・加藤陽子『戦後責任 アジアのまなざしに応えて』岩波書店,2014年で最も印象に残った言葉。

「ただ、市民運動ってそういうものなんですね。当事者の思いを実現するため、箱根駅伝みたいに、自分に課せられた--神様が課すんでしょうかね--区間というか期間をとにかく走り続けて次の走者にたすきを渡していく。ほとんどは途中で倒れてしまうけど、ごく稀にゴールインできる人もいる。そういうものなんじゃないんでしょうか」(大沼、178頁)。

 本書は、何が正しいかを学者があれこれ論じただけの対談集ではない。朝鮮人のBC級戦犯や台湾人元日本兵やサハリン残留朝鮮人や従軍慰安婦について、実際の政治的・司法的・行政的・外交的措置を実現するために奔走した記録だ。そのため、物事は一筋縄ではいかず、駆け引きも妥協もあるし、挫折も多い。「実現してナンボ」という言葉が飛び交い、ひたすら正義を叫ぶだけで実効ある措置に結びつかない主張は、むしろ批判されている。

 私は本書の主張内容の是非や、右か左かということとは別に、大沼氏の言葉を紹介したかった。この言葉が示すのは、社会において、権力を持たないものが何かを実現することの途方もなさであり、限りある個人がそこに関わることに伴う宿命だ。たいていの場合、人は途中までしか行けない。にもかかわらず、行こうとする人もいる。立派だから見習おうというのではない。ただ、そういう風に生きようとする人もいるということは、覚えておきたい。