2019年7月15日月曜日

きっとくる未来:河合雅司『未来の年表』を読んで(2018/2/12)

 河合雅司『未来の年表』講談社現代新書,2017年は2回読んだ。中央公論新社の「新書大賞」で2位になったとかで話題になっている。

 本書の前半は素晴らしい。このままいくと,何年には少子高齢化はどこまで進むか,その結果何が起こるか,が政府・自治体・シンクタンクのかなりまっとうなシミュレーションをもとに描かれている。私は,自らが何歳の時に日本がどうなっていて,その時,自分がまだ生きていればどのような位置にいるのだろうと想像しながら読んだ。その時,自分にかかわる人々もまたどうなっていて,その人たちにどういう影響が及ぶだろうという連想をかきたてられた。輸血用血液が不足した時にガンになったらどうなるだろうか(2027年,63歳),3戸に1戸が空き家になる時期に私が先に死んだら妻はこの家をうまく売れるだろうか(2033年,69歳),火葬場が不足するころ,私と妻の後に残った方が死んだら,誰が火葬の手配をしてくれるだろう(2039年,75歳),高齢者人口がピークに達した時,政治において世代間対立はどうなっているだろうか(2042年,78歳)。自分の足元からつながっている,輝かしくはない未来を見せてくれるというか,突きつけてくれる。

 もちろん,その未来はあるところまでは変えられる。しかし,ある程度以上には変えられない。たとえば,これからいくら特殊出生率を上げたところで,人口減少自体は逆転できない。著者は,おおむね「まずまちがいなくこうなる」という範囲のことを書いているのだ。一部,単純化のすぎた項目や,著者の価値観からくる偏った心配(人口が減少した地域に外国人が住みついたら大変ダー,など。不便なら外国人も住まないよ)も少し入ってはいるが,少しだけだ。むしろ,リベラルや左派の人には,著者が『産経』の論説委員であることからといって食わず嫌いをしないことを勧める。

 ただ,後半にの対策提案に入ると,肩に力の入った叙述の割には,話は急速にしょぼくなる。「24時間社会」をやめるとか「匠の技」を活かすとか,そういうことでどうにかなるようなものではないという話が多く,とくに年金,医療,介護,地域支援,そして財政をどう持続的なものにするかに話が及んでいないので何ともならない。しかし,これも前半のリアリティと後半のしょぼさのコントラストによって,対策を考えることの難しさを思い知らされるという思わぬ効果がある(狙ってこのように書いたのだとすれば見事な自爆精神である)。

 そういうわけで,議論の入り口として使うには,たいへんよい本だと思う。

河合雅司(2017)『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』講談社。
「イギリスのテレビ局も驚愕した日本の『国難レベルの人口減少』」講談社,2018年2月10日。

2018/2/12 Facebook投稿を転載。

2019年7月7日日曜日

アンドリュー・ロス・ソーキン『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』を読んで(2014/4/6)

 アンドリュー・ロス・ソーキン『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』(原題Too Big to Fail)は、タイトルの通り2008年のリーマンショックのさなかに、経営危機に陥った金融機関や連邦政府、連邦準備銀行の関係者やそれに連なる人々が何を思い、どのように行動し、どのような帰結に至ったのかを追跡したルポルタージュだ。つまり、ポールソン財務長官、バーナンキFRB議長、ガイトナーNY連銀総裁(いずれも当時)や、リーマン・ブラザーズ、モルガン・スタンレー、ゴールドマン・サックスの経営者たちが登場人物のドラマである。アメリカ経済と金融の研究から遠ざかって久しい私は(※)、仕事としてでなく、息抜きとして寝る前や休日に読んでいたが、文庫版上下で940ページをまったく退屈せずに読んだ。

 本書では、書類は乱れ飛び、メールは行き交い、電話は鳴り、ブラックベリーでメールが交換され、罵声は飛び交い、スーツやステーキや自家用ジェットや専用車や会議室は登場する。しかし、恐慌によって家を失い、職を失い、生活の糧を失う人々の姿は、(クビになったリーマンなどの経営者を除けば)、本書には直接には全く登場しない。しかし、ここで起こっていることから無数の人々が影響を受けていることは示されているし、まさにそれが現実だ。

 本書でのエリートたちの息詰まるやり取りに世界の命運がかかっているということは確かなら、全体として馬鹿げたしくみに世界が委ねられているということも確かなのだと、私は思う。優れた知性と行動力を示す人々のやり取りは魅力的であるが、もし人類より優れた知性を持つ宇宙人が観察していたら、「いったい、こいつら何をやってるんだ」と言うだろうなとも思う。

 ちょっとだけ具体的な点。アメリカ政府と言えども金融機関の経営や合併に介入する。その仕方が具体的にわかって面白い。会議室に金融機関のCEOを集めて脅すという、19世紀のようなやり方が、いざというときは21世紀でも起こるのだ。さらに細かい点を言うと、ポールソン財務長官が介入するのはわかるとして、ガイトナーNY連銀総裁が、金融機関同士の合併を促すために経営者に電話するというのには驚いた。

※大学院でごいっしょした方以外には信じがたいかもしれないが、私の修士論文は「1970年代以降のアメリカにおける企業合併運動」であった。

アンドリュー・ロス・ソーキン(加賀山卓朗訳)『リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上)追い詰められた金融エリートたち』早川書房,2012年。
アンドリュー・ロス・ソーキン(加賀山卓朗訳)『リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上)倒れゆくウォール街の巨人』早川書房,2012年。





田中隆之『総合商社の研究』が指摘する産業調査の意義(2014/4/27)

 田中隆之『総合商社の研究』。明日の大学院ゼミに備えて通読した。総合商社の概念,戦前,戦後の歴史と現在,研究史についてコンパクトにまとめられている。おそろしく便利で,おそろしくわかりやすい。こんなにきれいにまとまっていていいものだろうかと,かえって不安になるのだが,それは,単に私の性格がひねくれているからか。専門家の意見を聞きたい。

 商社論としての評価とは別に,著者が「おわりに」で以下のように述べていることには,大いに共感する。

「高度成長期以降,1990年代までの日本では,長期信用銀行3行,そして日本開発銀行(現日本政策投資銀行)など政府系金融機関の調査部,産業調査部が,わが国の産業調査を担っていた。それは,個別の産業・業界を長期的,構造的な観点から調査し,将来展望を行うという性格のもので,現在の証券アナリストが行う,主として短期の業績調査などとは一線を画するものであった。しかし,バブル崩壊後の金融危機を経て,長信銀が業態として姿を消し,政府系金融機関も民営化や統合で縮小するに及び,かつてのスタイルの産業調査は,ほとんど日本から姿を消してしまった。
 今回,はからずも私が書かせていただいた本書は,まさにこのスタイルの産業調査そのものであるといってよい。あらゆる産業・業界において,その来し方行く末を客観的な眼で見つめることは,将来の発展のために不可欠である。もはや産業調査を体系的,継続的に行う担い手は存在しないが,今回のようなアドホックな形においてでも,産業調査が『復活』することを強く望むものである」。

 ただ一点のみコメントしたい。大学の研究者も産業調査を行ってきた。それは今も生きている。大学教員となった著者が発表したこの本のように。

田中隆之『総合商社の研究:その源流,成立,展開』東洋経済新報社,2012年。

2019年7月6日土曜日

古田足日氏の逝去によせて(2014/6/10)

「そうじゃないわ。待ってても未来はこないのよ」
と、ミドリがいった。
「だって、十年したら、十年先のことがやってくるじゃないか?」
「ほおっておけば、来るのはいまのつづきだけよ。」
--『ぬすまれた町』より

 古田足日『宿題ひきうけ株式会社』は,その意表を突く題名とアイディアで有名である。子どもたちが小遣い稼ぎのためにつくったこの会社の経営は,順調に発展したが,やがてその存在が学校に露見して解散させられる。その後,いじめっ子とたたかうやら,地元電機メーカーの電子計算機(と昔は呼ばれていた)導入で兄弟が配置換えされ,同級生はソロバンで手に職をつけて就職するという夢が破れるやら,「月世界旅行ができるようになっても,月までの切符はずいぶん高いんじゃないかしら?」とつぶやくやら何やらで,何が本当に大事かと考えたあげく,主人公たちは「宿題ひきうけ株式会社」を「試験・宿題なくそう組合」として再組織する(えっ!)。

 『モグラ原っぱの仲間たち』は,原っぱに集まる子どもたちの日常を描いた作品だが,最後に原っぱが団地開発のために造成されてなくなってしまう。主人公たちは切り倒されようとする木の上に籠城し,かけつけた市長に遊び場をなくさないでと夜中まで交渉する。その結果,ほんの小さな公園,その中の小さな林,小さな丘が団地の片隅に実現する。子どもたちは「こんなものしかできなかったのか」と悔しがるが,仲間の一人が「でも私たちががんばらなかったら,もっと小さな公園しかできなったかもしれないんですもの」と慰める。

 上記の叙述に好感を持つ人も違和感を持つ人もおわかりのように,古田足日の一部の作品は,高度成長期の労働運動や住民運動を背景としている。したがって,いま,大人が読んだら好き嫌いが分かれるであろうことは予想される。日本中の子どもたちが海賊旗を掲げて,「宿題反対!試験反対!」とデモをすることを夢想するシーンもある。さすがに自分が大学教員になってみると立場上困るし(笑),「ちょっと,ちょっと」と言いたくなるところもなくはない。

 しかし,古田作品は政治的勧善懲悪劇ではないし,そこが人気だったわけでもない。主人公たちは家族や学校や友人を通して社会の現実を知っていくが,だからといって家計の事情や,家族内の葛藤や,自分の容姿や,成績への鬱屈した思いはなくなるわけではなかった。彼/彼女たちのそれぞれは,あくまでも一人の子どもであり,真剣であったが無力であった。主人公たちは必ずしも成功せず,しばしば敗北して,動かしがたい大人たちの現実に唇をかんだ。それでも彼/彼女らは,徒手空拳で,見えない明日に向かって懸命に手探りし続けた。そういうところが私は好きだったし,また人気だったのだと思う。

※今では古田作品を自宅に持っておりませんので,ストーリー,設定は記憶によっています。まちがっていたらすみません。また冒頭の台詞は「ゆかちゃんのbook review」(http://yukareview.jugem.jp/?eid=105)から孫引きさせていただきました。

「古田足日さん死去、86歳 絵本「おしいれのぼうけん」の児童文学作家、評論家」Huffington Post, 2014年6月9日。

2019年5月27日月曜日

バーリ&ミーンズ『現代株式会社と私有財産』誤読の歴史:森杲氏の新訳刊行に寄せて(2014/6/25)

 北海道大学図書刊行会から宣伝ハガキが来るまで気がつかなかったのだが、バーリ&ミーンズ『現代株式会社と私有財産』(The Modern Corporation and Private Property)が森杲先生の新訳によって新たに刊行された。従来の訳は1958年に出版されたものだが、超直訳調でどうも危なっかしく、原著を脇に置きながらでないと使えなかった。本に対する丁寧な読解では、森先生の右に出る者はいないと私は思っているので、新訳には大いに期待が持てる。

 バーリ&ミーンズと言えば、アメリカの巨大株式会社で「所有と経営の分離」と「経営者支配」が生じたことを示した本として知られている。しかし、この理解はまちがってはいないが正確ではない。バーリ&ミーンズが強調したのは「所有と支配の分離」の様々なバージョンであり、「経営者支配」はその極限である。

 もっと問題なのは、バーリ&ミーンズが「経営者支配の下では経営者は様々なステークホルダーに所得を割り当てる中立的テクノクラシーになった」と主張したと理解されていることだ。これはまったくの誤読だ。

 バーリ&ミーンズが主張したことはこうだ。「所有と支配の分離のもとで、支配者(経営者など)は自己利益を追求している。しかし、企業利潤を支配者が得ることは正当化できない。さりとて所有者(支配を失った株主)が得ることも、もはや正当化できない。こうなったら、支配の機能は、利潤を独り占めするのではなく、様々なステークホルダーに所得を割り当てる中立的テクノクラシーに変わる「べき」だ。そうならないと株式会社は存続できない」ということである。

 私が大学院に入って最初に公表した論文は、実はこの点に関するものであった。新訳を注文しながら、苦い思い出がよみがえった。着眼点はよかったと思う。しかし、身の程知らずであった。『資本論』の株式会社論をベースに、マルクス経済学内部の論争に関与する形で書いたためにわかりにくくなり、その上、自己主張を焦るあまり、説明不足の、穴だらけの論文となった。

 書いた後、語学的素養も教養もない自分には、(古典的で数理化されていないマルクス経済学の範囲でも)理論研究は無理だと悟った。まだしばらく、あきらめの悪い、妙な書き方の論文が続くのだが、まるきり理論・学説の論文を書いたのはこのときだけである。

 バーリ&ミーンズがなぜ「変わるべきだ」と規範論を主張したかについては、私の論文でも解釈しているが、わかりにくい。今回の新訳には森杲先生の長い解説がついているようなので、きっとそこに載っているであろう。まだ届かないが、読むのが楽しみだ。

拙稿「バーリ&ミーンズ『近代株式会社と私有財産』批判の方法的視点」はこちらでダウンロードできます


ロベルト・アンプエロ『ネルーダ事件』(2014/6/28)

ロベルト・アンプエロ『ネルーダ事件』。アジェンデ政権末期のチリ。キューバから来た男カジェタノは,詩人パブロ・ネルーダからある医者を探してほしいとの依頼を受ける。にわか探偵となったカジェタノは,メキシコへ,キューバへ,東ドイツへ,ボリビアへと飛び回ることになる。ネルーダの目的は政治工作でもなければ,自身のがんの治療法でもない。それでは,いったい……というような話。

 ネルーダの壮絶なパートナーとっかえひっかえ人生って,研究者には常識なのでしょうが,私,知りませんでした。

 チリでは「9・11」と言えば2001年のあれではなく,1973年9月11日,選挙で選ばれたサルバドール・アジェンデ政権をピノチェト将軍率いる軍部がクーデターで崩壊させたことを指すのだそうです。

2019年5月23日木曜日

ほとんどは途中で倒れてしまうけど:内海愛子・大沼保昭・田中宏・加藤陽子『戦後責任 アジアのまなざしに応えて』によせて(2014/7/14)

内海愛子・大沼保昭・田中宏・加藤陽子『戦後責任 アジアのまなざしに応えて』岩波書店,2014年で最も印象に残った言葉。

「ただ、市民運動ってそういうものなんですね。当事者の思いを実現するため、箱根駅伝みたいに、自分に課せられた--神様が課すんでしょうかね--区間というか期間をとにかく走り続けて次の走者にたすきを渡していく。ほとんどは途中で倒れてしまうけど、ごく稀にゴールインできる人もいる。そういうものなんじゃないんでしょうか」(大沼、178頁)。

 本書は、何が正しいかを学者があれこれ論じただけの対談集ではない。朝鮮人のBC級戦犯や台湾人元日本兵やサハリン残留朝鮮人や従軍慰安婦について、実際の政治的・司法的・行政的・外交的措置を実現するために奔走した記録だ。そのため、物事は一筋縄ではいかず、駆け引きも妥協もあるし、挫折も多い。「実現してナンボ」という言葉が飛び交い、ひたすら正義を叫ぶだけで実効ある措置に結びつかない主張は、むしろ批判されている。

 私は本書の主張内容の是非や、右か左かということとは別に、大沼氏の言葉を紹介したかった。この言葉が示すのは、社会において、権力を持たないものが何かを実現することの途方もなさであり、限りある個人がそこに関わることに伴う宿命だ。たいていの場合、人は途中までしか行けない。にもかかわらず、行こうとする人もいる。立派だから見習おうというのではない。ただ、そういう風に生きようとする人もいるということは、覚えておきたい。

2019年4月5日金曜日

戦争経験者と接した経験について (2014/8/15)

 アジア・太平洋戦争の直接経験者が生命の定めによりいなくなっていく以上、直接経験者と接した経験の保存はそれ自体大事なことと思います。しかし,その大事さの中身については,よく考える必要があります。

 私のように親類が戦争経験者という位置にあるものは,戦争経験を、他人の経験の伝達ではなく、「経験者と接したという自らの経験」としてアーカイブすることが独自の役割のように思います。これは非常に難しい。前の投稿でも,私は親類の戦争経験をどのような場面で聞かされ,それをどう受け止め,それが今の自分にどうつながったかを書けていません。事実の叙述としてよりも伝聞調で書いて,それを1969年なり,1980年なりの私がどう受け止めたかを書くことが望ましい。でも,整理できていないから書けないのです。

 しかし,そうであってもこの経験の伝達には重要性があること自体は主張したい。「戦争経験者と接した経験」は,書物やネット情報から学ぶ戦争よりは,いくらか「自分のこと」であるから,忘却せずにとっておく価値があると思うからです。

 以下,やたらと理屈っぽくなりますので,しちめんどくさい方は無視してくださって構いません。

 経験に価値があるというのは,経験イコール真実ということではありません。経験にも経験談にも,経験者との接触経験にも偏りや欠落や思い違いがあります(例えば、よく言われますが加害経験よりも被害経験の方が伝わりやすい。私の親類の経験談も被害の方が多い)。しかし、偏りや欠落がある経験もまた経験です。絶対視してもいけないですが,無視するのはもっとまずく,そこから出発して考え直していくべきものです。

 また「戦争経験者と接した経験」は、特定の主張のために役立つから大事なのではありません(役立ってももちろんいいのですが)。戦争防止に役立つから大事で、役立たなければ無価値なのではない。経験から何を汲み取るべきかは、幅のあることで、後世の人間の置かれた状況と問題意識に応じて多様であってよいのです。私は,アジア・太平洋戦争について一定の主張を持っていますが,前の投稿では「覚えておくべきだ」というところでいったん話を区切るべきだと思いました。それは,私の「戦争経験者と接した経験」は,私と主張の異なる人にも意味があると思ったからです。

 では,経験はなぜ大事なのか。偏りや欠落があってもなぜ大事なのか。それは,アジア・太平洋戦争の直接経験者がやがていなくなるという現実の中で,戦争に関する議論が空理空論にならないようにするためではないでしょうか。戦争は理論でも把握できます。文章でも把握できます。写真でも把握できます。しかし,それらで把握できないこともあります。経験者と対面で会話し,声を聞き,傷跡の有様を見,表情をうかがい,息遣いを感じてでなければ把握できない側面もあります。そうした側面を欠落させた空理空論を決してせず,今から将来に向かい,戦争について地に足をつけた捉え方をするために,「戦争経験者と接した経験」は必要なのではないでしょうか。

 社会学や心理学などの用語では,このようなことをもっと適切な用語で把握するのでしょうが,私なりには,以上のように思います。

光瀬龍氏と阿修羅王のこと (2014/9/21)

 光瀬龍氏の最後の単行本『異本西遊記』(角川春樹事務所、1999年)をアマゾンマーケットプレイスで購入。理由は、この作品に阿修羅王が登場するらしいと知ったからだ。
 『百億の昼と千億の夜』に登場するあしゅら王は、同書を1970年代に角川文庫で読んだ中学生の私、続いて萩尾望都氏のマンガで読んだ高校生の私に強烈な印象を残した。しかし、その強烈さの正体はいまなおつかめない。表現しようとすると文才のなさを露呈するので書くことができない。
 空前のSFブームが到来し、ファンがそれぞれ勝手なことを(ネットがない時代としてはたいへんな労力をかけて)言い合い、「そんなものはSFと認めない」「それは人それぞれだから」という身もふたもない宣告を乱発しては罵倒しあっていた1980年代、光瀬龍氏は過去の作家扱いであり、論じられることがなかった。実は、1985年か86年の大学の春のフェステバルで光瀬氏がおいでになり宮城県民会館で講演されたことがあったが、客はまばらであった。光瀬氏自身もSFのことはおっしゃらず、地方と中央の関係みたいな話をされていて、切れ味は今一つのように思えた。共催団体の一員だった私は、萩尾氏のマンガをコラージュして宣伝ビラをまいたりしていたのだが、まるで効果がなかったことを知った。講演終了後、廊下でお見かけした光瀬氏に何か話しかけたかったのに何も思い浮かばず、黙礼しただけであったことを覚えている。
 1999年に光瀬氏が亡くなったときは、それほど話題にならなかった。2009年に写真の本『光瀬龍 SF作家の曳航』が刊行された。SFから遠ざかっていた私はそのことを知らず、3年ほど前にようやく読んだ。私は本書のおかげで、あしゅら王が登場する別の短編小説「ある日の阿修羅王」「説法」「廃墟の旅人」を読むことができた。また、『SFマガジン』2008年5月号に宮野由梨香「阿修羅王は、なぜ少女か」が掲載されていたことを知り、そちらも入手して読むことができた。今回購入した『異本西遊記』のことも、ネットに掲載されていた宮野氏のエッセイで知った。
 この本で光瀬氏の生涯についてある程度のことがわかり、また宮野氏の評論や光瀬氏とのやりとりの記録によって、『百億の夜と千億の夜』がどのように少女マンガとして読まれたのかということと、それが光瀬龍の実存とはおそらく異なっていたのであろうことは理解できた。
 それでは、私はどう読んだのか。あいかわらず、よくわからない。未読の材料も、今日買った『異本西遊記』と、昨年までSFマガジンに連載されたという光瀬氏の評伝くらいだろう。それを読み終えてももやもやしたままであったらどうしようか。



2019年3月30日土曜日

事例研究のスペクトラムについて (2018/5/16)

 ここ数年,自分が行う査読と,自分やゼミの院生が受ける査読を比べてみると,事例研究に対する私の考え方が少数派なのではないかと,つくづく思う。

 画像は昨年度のゼミで院生向けに話した時に使ったもので,事例研究のスペクトラムを表そうとしたものだ。

 私の理解では,事例研究とは,表の一行目のものであってよい。つまり,
1)事例の重要性は理論的に重要なことにかかわるからであってもよいが,社会・経済情勢から見て重要であるということでもよい。
2)事例研究とは,事例に関する事実に基づくものであり,したがって事実の解明がきちんとできているかどうかが何より重要だ。
3)事例研究とは,事例を学問的に解釈することだ。ここで学問的とは,経済学と経営学の論理で100%説明するということではない。経営や産業とは経済的・経営的側面だけでなく,技術的側面や政治的・社会的側面を持っており,また普遍性だけでなく個別性をも持っている。したがって,それらの諸側面の総合としての事例を合理性的に理解するのが研究だ。誤解なきように追加すると,合理的であることも矛盾していることを含めて理解することだ。

 したがって,理論的解釈以前に事実がきちんと明らかにされていることが必要条件だ。逆に,一切を理論の説明材料に落とすかのような分析の仕方,結論の出し方は,好まないし,本来適切でないとさえ考えている。

 だが,私の受け止めでは,単行書や分担執筆に対して,近年の雑誌論文の査読は,事例研究に対して,理論的枠組み,理論的解釈,理論的インプリケーションを求める傾向が強過ぎる。これは,私のスペクトラムの3段目,つまり理論の例証としての事実を求めているからではないかと思う。

 繰り返すが,私はそこに行き過ぎを感じるし,もっと言えば,間違いだとさえ思う。理由は上記のように,産業や経営に関する事実そのものが,純経済学的・純経営学的存在なものではないからだ。経済学と経営学の論理に解消できない諸側面と個別的諸事実があるから事例なのだ。事例から無理くりな一般化を行ったり,事例の諸側面を切り捨てて経済法則の一例としてのみ扱う論文は,序論と結論がいかにきれいに(エレガントとやらに)書かれているように見えても,低く評価されるべきなのだ。

 しかし,このような考えは,国際的にも国内的にも,学会の主流とはなりえないだろう。正直,このことを考えると非常に憂鬱になる。

 ともあれ,私は,断固として,スペクトラムの第一行のような事例研究を高く評価する見地で研究も査読を行うし,それは私なりに認識論的根拠を持ってやっていることなのだと表明しておきたい。やがて,査読を依頼されなくなるかもしれないし,拙稿は雑誌に載らなくなるかもしれないが,それはそれでしかたがないだろう。

 ただし,院生には,私と同じ認識論や学問観を持たせて苦労させるわけにはいかないので,そこが頭痛の種だ。したがって,せめて1行目と3行目の中間を狙うように支援するしかないかと思っている。




2019年3月26日火曜日

宮城県仙台向山高校の旧校舎 (2014年12月7日)

 宮城県仙台向山高校父母教師会発行『向陵だより』第80号に寄稿した文章。

壮絶なる旧校舎

川端望
6回生(1980年入学,1983年卒業)

 私たち6回生が学んだ旧校舎は,壮絶なボロであった。木造モルタル2階建て,夏は冷房はおろか扇風機すらなく,冬は石油ストーブで暖を取った。どちらかというと冬がきつかった。窓がアルミサッシでないのと長年の風雪で窓枠がゆがんでいるために,すきま風が吹きこんだからだ。私は入学試験の時,座席がストーブの真ん前で,その暑さと周囲の寒さのギャップで風邪をひいた。教室の大きさがまちまちで,広々としていて寒いか,すし詰めで暑いかのどちらかであった。トイレは何か出そうな雰囲気であったことは言うまでもない。
 体育館は二つあったが,少子化以前のことでそれでも足りず,私の入部した卓球部は「講堂」というところで活動していた。低い位置に窓がたくさんあり,太陽光が卓球台に反射してボールが見えなくなる。そこでわざわざベニヤ板で遮光板をつくり,すべての窓を覆い隠して部活を行った。1980年代には卓球はオシャレでもなんでもなく,もっとも暗いスポーツの一つとされていたが,実際物理的に暗かった。
 設立6年目なのになぜボロかったのか。それは,旧校舎が宮城県女子専門学校(女専)の流用だったからだ。1934年に建てられて戦争を生き残り,国立仙台電波高等学校,さらに向山高校に流用された。
 ボロ校舎であったが,それでも何とかしてそれをみんなで使いこなそうとしていた(せざるを得なかった)。それは楽しくもあった。帰らざる日々である。



2019年3月24日日曜日

NHKスペシャル「メルトダウン File.5 知られざる大量放出」の衝撃(2014/12/23)

 12月21日に放映されたNHKスペシャル「メルトダウン File.5 知られざる大量放出」を録画で見た。衝撃だった。2011年3月11日の東日本大震災後に福島第一原発事故によって放出された放射性物質のうち,75%は3月15日午後以降に放出されていたというのだ。
 これまで私は,大量放出はメルトダウンと1,3号機の建屋爆発,および2号機の圧力調整プール破損時に生じたし,とくに2号機の破損時の放出がもっとも多かったと,公表情報から思っていた。当時のゼミ生にもそう伝えてきた。しかし,これらは,15日午前までの放出に限れば正しかったが,放出の全体を視野に入れるならば,正確ではなかった。
 今回報道されたことを要約すれば,以下のようになると思われる。 
*3月15日の夜に全体の10%を占める大量放出が起こっていた。その原因は3号機5回目のベントであった。ベントの際に放射性物質は希釈されるはずが,1)圧力調整プールの温度が高いためにプールで希釈されず,2)それまでのベントで配管内に付着していた放射性物質が押し出されたために,かえって大量の放出を招いた。
*電源喪失時期に緊急措置として消防車による1-3号機への注水が行われたが,建物内の多数の箇所でポンプが動かず,水は別方向に漏水し,ほんの一部しか圧力容器内に届いていなかった(これはこの番組の以前の回で知っていた)。そして,少量の水を注水したことは,核燃料を覆うジルコニウム合金管を化学反応で加熱させ,核燃料の損傷を加速していた。そのため,放射性物質の放出を止められず,むしろかえって増加させてしまい,また長引かせることになった。
*4号機の使用済み燃料プールに水があるのか,ないのかの判断により,復旧作業の優先度を決めねばならなかった。水がないならばプールへの注水を優先しなければならないが,水があって,干上がるまで時間があるならば電源回復によって1-3号機への注水量を増大させ,冷やし,かつ放射性物質の放出を止めることを優先しなければならなかった。3月16日,福島第1原発の現場では自衛隊機が撮影した写真により水があると認識し,よって電源回復を優先と判断した。しかし,15日に発足した政府と東電による統合本部に決定権が移っており,統合本部は注水優先と判断した。それは,アメリカ原子力規制委員会などが,プールに水がなく,より大規模な汚染が起こるという最悪のシナリオを想定して対処すべきであるという見解を示したことに影響されたものであった(ただ,この意思決定プロセスは番組内でよく検証されたとは言えない)。結果として4号機プールに水は入ったが,電源回復が遅れた分だけ放射性物質の放出期間は長引いた。
 緊急の判断で最善ないし次善の策と思ってやったことが裏目に出るということが重なっていた。しかも,私の素人判断だが,どれも,その場で問題がわかっていれば回避できたとも言えないように思う。第5回ベントの時に装置の問題点に気が付いていたら,ベントを中止した方がベターと意思決定されただろうか。あるいは,大量放出のリスクを軽減させる補足措置がとれただろうか。また,漏水に気が付いたとしても,対処ができただろうか。3月16日時点の判断として,プール注水を優先したことは間違いと言えるだろうか。専門家の意見は必要だが,わかっていてもできることは限られていたのではないか。
 今回の報道内容が示唆するのは,その場の状況における判断がまちがいだったから,ただしい判断をすべきだったということではないと思う。実際,番組もそう言う方向に編集されていたのではない。むしろ問題は,これほどに困難な判断を必要とする状況をつくり出してしまったことであり,また,その判断の帰結が3年たってようやく明らかになったということであり,さらに,まだ明らかになっていない事実もあるだろうということだ。

2019年2月24日日曜日

伊東光晴『アベノミクス批判 四本の矢を折る』岩波書店,2014年について(2014/8/23)

 私は伊東光晴氏から一度だけ電話を頂いたことがある。ウォルター・アダムス&ジェームス・ブロック『アダム・スミス,モスクワへ行く』の拙訳をお送りした時である。「アメリカの産業組織論の中でもアダムスはまともですよ」という趣旨のことをおっしゃっていた。これは伝統的産業組織論(SCPパラダイム)をとるアダムス教授の反独占と分権化の論理を指してのことである。

 伊東氏は,歴代日本政府の経済政策を論じるときに,目新しい理論を使っているわけではない。逆である。いまでは古臭いとされている理論,たとえばケインズ当人による資本の限界効率の不確実性論,ハロッドの人口成長率を組み込んだ経済成長論,SCPパラダイムの独占批判(ただしガルブレイスの拮抗力の理論も使う),政策論では完全雇用余剰を利用した反循環政策論,クロヨン是正論,より広く混合経済論などを駆使するのである。

 私は伊東氏の主張すべてを支持するわけではない。たとえば,福島第一原発事故に関する全額国家補償論は納得できない。広く社会的行動についても,たとえば,鹿児島国際大学教授懲戒解雇事件での理事としての伊東氏の行動は受け容れられない。

 しかし,私は,伊東氏による「古い」理論を駆使してのアベノミクス批判は,まことに理に適っていると思えるのだ。むろん,私が新しい理論と経済学の数理的な理解に疎い「古い」学者だからそう思うのかもしれない。伊東氏の主張を批判する経済学者が少ないのは,「古い」理論だから相手にしないということなのかもしれない。しかし,古くても,間違っているとは限らない。後になってみると「古い」理論の方が正しかったのかもしれない。そこが,ときどきの支配的な価値観,流行り廃りに流される経済学や経営学のやっかいなところだと,私は思う。

「安倍首相は自らの政策を三本の矢と称した。
 第一の矢--量的・質的緩和は,株価の上昇にも為替の変化にも何の関係もない。株価が大きく上昇したのは外国ファンドの買いのためであり,リーマン・ショック以後落ちた欧米の株価が低金利政策もあって上昇し,元に復し,残る市場である日本に向かったのである。第二章『安倍・黒田氏は何もしていない(続・第一の矢を折る)』がこれである。」
「 第二の矢--国土強靭化政策は,予算化されていない。2014年度予算案の検討でこれを明らかにした。
  第三の矢--経済成長政策は,具体化の姿が見えない。何よりも,その時代ではないのは,第四章『人口減少下の経済』で明らかにした。」(本書108ページ)。

伊東光晴(2014)『アベノミクス批判 四本の矢を折る』岩波書店。

ついで。すみません,たぶんまだ売れ残ってますので。
W. アダムス&J. ブロック(川端望訳)『アダム・スミス,モスクワへ行く』創風社,2000年。

2019年2月20日水曜日

東日本大震災後1か月の仙台での被曝量を求めて(2013/9/10)

 2011年4月。私は「本震後も仙台に住んでいて、おおよそどれくらい被曝したと考えればよいのか」という疑問を持っていた。当然、周囲の同僚や学生も持っていた。しかし、毎日これでもかというくらいに放射線について報道されている割に、この単純な質問に対する答えはどこにもなかった。「使えない」報道だと腹が立った。しかし、素人に計算できるわけもないと思っていた。

 ところが、ある日、放射線医学総合研究所のサイトに、東京に1か月暮らした場合の簡便な被曝量計算方法が掲載されたことに気が付いた(※)。まったく同じ方式と、対応する地元のデータを使えば、それほどまちがわずに仙台についても計算できるのではないかと考えた。そこで何度か放医研に電話して、大きなまちがいがないように気をつけながら試算した結果がこうである。

3/13-4/12の仙台市における、福島第一原発事故による総追加被曝量(放医研に相談しながらの素人計算)

注意:自然放射線に対するプラスアルファの被曝分に限って計算。

1.空間放射線からの外部被曝 0.066ミリシーベルト
・データ出所:理学研究科田村教授が仙台市青葉区で測定。

2.水・食べ物からの内部被曝 0.255ミリシーベルト
・データ出所:水と野菜は宮城県のサンプル調査のうち、放射能が最大のもの。魚は県内データなく、放医研のもの。

3.放射性物質吸引からの内部被曝 0.0363ミリシーベルト
・データ出所:残念ながら地元データがなく、放医研の東京の大気のデータを流用。

*合計(1+2+3)
 0.358ミリシーベルト(四捨五入の関係で上記合計と0.001の差)

 これは、胸のX線集団検診(0.05)より多く、胃のX線精密検査(0.6)より少ない程度、または東京・ニューヨークを 2 往復した場合に宇宙線を余分に浴びる最大値(0.38)より少し少ない程度である。私は「今後、原発事故が徐々にであっても収束に向かうのであれば、仙台に住むことは放
射線防護の観点からはまったく心配ない」と判断してゼミ生にそう伝えた。

 何の根拠もなく「安全だ」「危険だ」とは言いたくなかった。だからこの試算をしてゼミ生に送ったことは今でも正しいと思う。しかし、素人計算が間違っていたらどうするのかと思うと、とても恐ろしかったことも事実である。いまでも恐ろしさがなくなったわけではない。いまさら私の試算値で不安に駆られる人もいないだろうと思うので公表するが、まちがいがあると思う方は、遠慮なくご指摘いただきたい。計算方法を教えろと言う方には無論お教えする。

 後日、原発問題のシンポジウムの後、放射線を仕事で扱っている理系の先生方にうかがうと、「だいたいはそれでよい。しかし、自分たちは、たいへん低い確率で特定の人が深刻な健康被害を受ける可能性があることを知っているので、危険はないと断定できないのだ」と言われた。またそのシンポジウムで原子力工学の先生は、原子炉の状態については明快に説明してくれたが、被曝の話になると「私、放射線については弱いので……」と困った顔になり、新聞報道と同様の解説だけを紹介された。これらは、いずれも科学的には正しく、学問に誠実な態度なのであろう。専門的に厳密に話したい、専門外のことに口を出さないという姿勢である。

 しかし、正確さが保証されなければ何も断言しないということは、いつでもどこでも正しいのだろうか。ある状況で、ある責任を負っている場合には、誤差がかなりあり、専門的にはまちがいを含むかもしれないとしても、その危険性を認め、さらに手元でできる限りの正確さを期したうえであれば「○○の理由で、だいたいこうです」と言わねばならないとき、言わねばならないこともあるのではないだろうか。

 この経験以来、私は原発にかかわる事柄について、いつでもどこでも同じことを言う態度はとれなくなり、また短い一言で「危険だ!」「安全だ!」ということもできなくなり、さりとて「科学的に確かめられていないことを主張したり、専門知識のない分野で主張したりするな」という自然科学者の意見にも、直ちにはうなずけなくなったのである。

※放射線医学総合研究所「放射線被ばくに関する基礎知識第6報」2011年4月14日(現在公開のバージョンは8月24日更新)。

2019年2月19日火曜日

山崎豊子さんのご逝去に際して(2013/10/1)

 作家の山崎豊子さんが亡くなられた。私は小説は『大地の子』と『華麗なる一族』しか読んでおらず,ドラマは『大地の子』の途中からしか見ていない。『大地の子』を偶然テレビで見て,その後,鉄鋼業研究者となったため,宝山製鉄所建設とそれに対する新日鉄の技術協力が舞台の一部となる原作を精読,数年前に『華麗なる一族』もいわば鉄鋼業ものだよなと思って読んだ。

 『大地の子』で感銘を受けたのは,日本と中国の双方の社会の複雑な闇と,それを乗り越えて生きようとする人間の強さを描いたことであった。山崎さんは執筆構想を立てた当時の胡耀邦総書記に「中国のよいところも悪いところも,遠慮なく書いてください」と言われ,その通りにしたという。中国の現代化を目指す懸命な努力も描けば,国民党軍・八路軍双方による長春市包囲による飢餓も描き,文化大革命による弾圧も描いた。中国残留孤児である主人公を,中国人の育ての親たちが命がけで文革の弾圧から守ろうとする姿も描けば,その妹を別の中国人夫妻が労働力として死に至るまで酷使する姿も描いた。

 このドラマが日本で放映されて日中関係が緊張しただろうか。当時の日本で,最近のようにことあれば中国の悪口を言う人間が増えただろうか。それはなかったと記憶する。このドラマから,日本も中国も光と影がある社会であること,だからこそ双方とも人間の強さを信じて生きねばならないこと,愛情が国境を超えるのは難しいが不可能ではないこと,少なくとも二度と戦争を起こしてはならないことを感じ取った人が多かったからではないかと思う。

 自分の国の影の部分は見せないことで評判をとろうとする態度も、隣国の達成はくさし欠陥はあげつらうという態度も浅はかだ。このドラマが作成されたときには、中国政府も日本の視聴者もそのような態度はとらなかった。

※『大地の子』には,戦前から1950年代まで中国に住んで,長春市包囲で死線をさまよった遠藤誉さんから,自らの著作を引き写したのではないかという批判があり(裁判では遠藤さんが敗訴),いささかの警戒感も私は持っている。また,遠藤さんの著作からも私は多くを学んでいる。しかし,『大地の子』から私が受けたインパクトが大きかったことも事実である。

NHKオンデマンド ドラマスペシャル『大地の子』
山崎豊子(1994)『大地の子(一)』文藝春秋,Kindle版。





2019年2月11日月曜日

劉江永先生と東日本大震災のこと (2013/10/15)

 清華大学の劉江永先生は,中国における日本問題専門家の政治学者である。多くの問題で中国政府に近い見地からこれを補強し,日本政府を批判する論陣を張っている。日本政府から見れば論敵の中の論敵といってよい。ふだん数々のことで日本政府に批判的な私であっても,尖閣諸島などについては劉先生の主張に賛成できないところが多い。

 しかし,私はここで,劉先生が東日本大震災に際して,日本と中国の人々にとって重要な発言をしていたことを紹介したい。

 2011年3月11日,大地震発生のニュースはただちに中国にも伝わった。北京で夕方からテレビに出演した劉先生は,以下のように発言した。

「日本にいる中国人が中国に避難できるように政府は支援すべきだ。中国人の安全を守らねばならないし,これから食料や物資も足りなくなるから,中国人を退避させることが日本の被災者のためにもなる。ただ,リビアの場合と異なり(当時,中国はリビア在住の中国人を全員帰国させようとしていた),日本にいる中国人は数が多いし,日本で働いている人や日本人と結婚している人など,生活基盤が日本にあって帰国できない人もいる。だから帰国を強制するのではなく,帰国するかしないかは当人の自由に任せ,帰国したい人を支援するのがよい」

 中国政府が,この意見を直接に聞いたのかどうかは,私は知らないし,劉先生本人もわからないそうだ。しかし,実際に中国政府がとった措置はこの提案のとおりであった。東北大学に通う留学生の間では,3月13日ころから政府が帰国を支援するという噂が流れ始めた。私たち教員は,それが本当かデマか判別することができず,中国大使館に電話をかけても常に話し中で通じないために苦慮していた。15日になって,ついに大使館と総領事館のウェブサイトに公告が中国語で掲載された。私はゼミの留学生の助けを借りてこれを解読し,「帰国したいものは支援するから,○日○時に××に集合せよ」という意味であり,帰国を命じるものではないことを確認した。

 この確認はきわめて重要であった。まず,帰国支援が本物であったことにより情報の混乱が収拾された。また,大学の政策を,留学生を保護することから,帰国する留学生に必要なメッセージを出し,今後の連絡経路を確保することにシフトさせることができた。さらに重要なことは,帰国した大半の留学生だけでなく,種々の事情があって帰国しないことを選んだ留学生の立場も守られたことであった。彼/彼女らが政府の帰国命令に反しているわけではないことが確認できたので,本人は中国政府との関係を心配する必要はなくなり(他方で日本に残ったために,この後,心配する親類を説得したり,放射線の恐怖とたたかうという困難に直面した),大学も,留学生と大使館の間に挟まってしまうという事態を避けることができた。中国政府はともすれば一方的な命令を出しがちであるが,この時の「帰国したい者は支援する。帰国するかどうかは本人の選択」という方針は,絶妙なものだったのである。実際,帰国を選んだ学生たちは,大使館の支援の下で,日本人との摩擦をまったく起こさず,秩序を守って帰って行った。また日本に残った学生たちも,大使館から何らとがめられることはなかった。

 私は,2012年3月末に東北大学で開催された「東日本大震災1周年 日本再興東北フォーラム」の会場で劉先生と出会った。劉先生は,仙台市に寄贈するための「絆は力」という書を持参されていたが,どうすれば市に届くかわからず,スケジュールの都合で会議終了直後に帰国しなければなかったので,事務局を訪ねてこられたのだ。私は,このときに,劉先生の震災当日の提案のことをうかがった。書は,会議終了後,劉先生に代わり,経済学研究科長から仙台市に届けられた。

 劉先生は日本政府と鋭く対立している。それは確かなことだ。私は劉先生の政治・外交に関する主張を肯じ得ない。それも確かなことだ。しかし,劉先生は日本人を憎んでいるのでもないし,日中関係を破滅的対決に追い込もうとしているのでもない。彼自身の立場から日本人を思い,日中関係を発展させようとしているのである。それもまったく確かなことだと,私は信じている。そして私は,あの不安と混乱の中で,日本人と中国人の双方にとって適切な提案をされた劉先生に心から敬意を払う。

2019年2月10日日曜日

手塚治虫先生が亡くなられた日 (2018/2/9)

 1989年2月9日。私は大学から帰って築30年(推定)のボロアパートで「ニュースステーション」を視ていた。突然,画面が白黒になって「空を超えて~」という歌をバックに「鉄腕アトム」のアニメ画面が。ギクリとしたが,案の定,小宮悦子さんが手塚治虫先生が亡くなられたことを告げた。
 
 子どものころ,私にとって「先生」とは手塚治虫先生と藤子不二雄先生だった。家にあったカッパコミクス版『鉄腕アトム』が私にとっての未来であり,虫コミックス版『オバケのQ太郎』が私にとっての今だった。この世界と続いているすぐそばの世界。ロボットやオバケと友達になれる世界にわくわくした。それだけに,『アトム』でロボットと人間のシビアな対立が描かれ,アトムが破壊される「青騎士の巻」は衝撃で,おそろしくてめったに読み返せなかった。とくにカッパコミクス版は青騎士の巻で終わっており,壊れたアトムを抱えてお茶の水博士が科学省に向かうところで終わっていた。私は『アトム』はこの悲劇で幕を閉じたのだと思っていたのだ。その後にアトムが復活するのだと知ったのは,何年か後にサンコミックス版に触れてからだった。

 『アトム』で最も印象的なセリフは,「人工太陽球の巻」に搭乗する英国諜報部員ホームスパンのものだ(ホームズと007が混じっている?)。彼は事件調査大けがをして頭脳以外はすべて機械になっているが,自分は人間だということに誇りを持ち,その反面ロボットをひどく嫌っている。アトムとの交流で考えを変えていくが,事件の最後に負傷して頭を打たれ,頭脳も機械化してロボットになってしまうのだ。彼は回復して新聞記者に語りかける。

「私をロボットと呼ぶなら呼ぶがいいよ。しかし私は…」
「ロボットになれたことを誇りに思うくらいだ」
「それはロボットがどんなにりっぱなものかということを知ったからだ」
「それは手術をうけるずっと前,アトムくんによって教えられた……」
「人間のように欲ばらずいばらず,ただ正しいことのためにつくすロボットたち」
「諸君,私はよろこんでロボットの仲間に……」

カッパコミクス版とはこんな感じのものです。
「光文社カッパコミックス版『鉄腕アトム』全32巻表紙集」『昭和otaku画報』ウェブサイト。
http://www.gahoh.net/enta/atom/index03.html

「手塚治虫について:プロフィール」手塚治虫オフィシャルサイト。
http://tezukaosamu.net/jp/about/

妙に親近感の湧く,吉田裕『日本人の戦争観』(2013/12/9)

 吉田裕教授は、まっすぐなリベラル派歴史家の代表のように思われていますが、子どものころは軍事マニアだったそうです。メディア、とくに軍事マニアの雑誌(『丸』とか)に日本人の戦争観の変化を読み込んで分析した『日本人の戦争観』岩波書店、1995年はたいへん面白い本でした。

 というのも、実は、私も小学生のころ軍艦マニアだったからです。高城肇『軍艦』(少年画報社,1962年)という本を小学校近くの子ども文庫で借りて、「哀れな戦艦、山城」とか「不思議な空母、瑞鶴」とか「突っ込め!防空駆逐艦秋月」などの話に夢中になりましたし(※)、小学校の図書室にあった伊藤正徳『太平洋海戦史』(おそらくあかね書房から出ていた少年少女20世紀の記録というシリーズ)も何度も読みました。親もまあ、左翼なのに寛容なものでプラモをずいぶん買ってくれました。その時に覚えた感覚は、吉田教授もある時期の戦記物の傾向として指摘した「海軍=知的で平和愛好、陸軍=ひたすら好戦的」という史観であり、山本五十六連合艦隊司令長官を極度に高く評価するものでした。いまではそういう考えから遠ざかっているものの、そう思いたくなる気持ちは何となくわかるつもりです。

 日本人は、なぜ日本軍をめぐる物語に惹かれてしまうのか。それを考える上で、『日本人の戦争観』は思想の左右を問わずおすすめできる一冊です。いまでは岩波現代文庫に入っています。

※2019年2月10日。書誌情報等を微修正。

吉田裕(2005)『日本人の戦争観:戦後史の中の受容』岩波書店。

2019年2月4日月曜日

大野健一『産業政策のつくり方』有斐閣,2013年,をいただいて (2013/12/17)

 大野健一氏より新刊『産業政策のつくり方』をいただいた。

「ある国の産業戦略がうまくいかないのは、何をすればよいか皆目わからないという場合もあるだろう。だが、より普通なのは、直面する課題も解決の方向も大体把握できているが、具体的な施策を戦略的に打ち出すための手順や組織が不明あるいは未熟なために前に進めないという事態である。すなわち、政策のWHATではなくHOWの問題である」(ii頁)。
「これまでの政策研究や政策提言は、WHATの描写は勧告が多く、HOWへの有益で戦略的な示唆が少なかったのではないか。とりわけ、当該国の政治社会状況を無視して長い政策要求リストを突きつける、あるいはどこの国に行っても同一の政策を説いて回るといったアドバイスのあり方は、有害無益というほかはない」(ii頁)。
「本書の目的は、政策当事者--国家指導者、政策の企画者および実施者、あるいは彼らを補助する専門家や研究者--に対し、開発政策の質を高めるための実践的かつ具体的なアイデアと材料を提供することにある」(vi頁)。

 大野氏に出会ったのは2000年のベトナム市場経済化プロジェクト(石川プロジェクトフェーズ3)の時であり、以後、7年くらいは高い頻度でベトナムを訪問して鉄鋼業育成政策を研究した。

 大野氏の問題提起に関連することで、当時、私が関連して感じた疑問は、「政策提言は、政策担当者に届いているのだろうか」と言うことであった。有効なプロジェクトであったことを前提にいささか戯画化して述べると、例えば、ベトナム計画省とJICAで国際会議を開く。逐語通訳で時間のかかる発表、長丁場の会議による疲労(隣のホールで音楽会が始まり、ツァラトストゥラが鳴り響いたこともあった)、ベトナム内の研究者や官僚の序列に影響された出席者の選択などゆえ、政策論がストンと腑に落ちるには至らない。そして発表論文に基づく報告書の作成、翻訳、送付。任務は達成されたと双方の官僚は満足し、政策評価を求められても作文は可能だと事務担当者は納得する。報告書は棚にしまわれる。研究者は大学に帰還して終了。内容は忘れられて、また別のプロジェクトが起こされ、一から議論をやりなおす。これでは予算消化と自己満足であり、だめに決まっている。

 この傾向に対して大野氏がとった手法は、実際的な議論ができる若い研究者を国民経済大学(NEU)から組織すること、政策を実際に起案したり、決定したりする人のところに報告書をきめ細かく届けること、こちらから政府機関を訪問して対話したり、実務者に呼びかけての小規模ワークショップをすることであった。つまり、届くべきところにメッセージが届くまで、コミュニケーションの機会をつくり続けるのである。私もいっしょに行動して議論をするうちに、政策現場ではなにが問題であり、何がボトルネックなのかが具体的にわかってきた。それは経済学の論理から自動的に生じる、それゆえ経済学者がどこに行っても同じように繰りかえすような論点(産業政策をするべきか、すべきでないかとか)とは異なっていた。実際的で具体的な論点に答えなければならないというのは、しんどいことだが、確かにベトナムの現実とつながっていると感じられる、やりがいのある仕事でもあった。

大野健一『産業政策のつくり方』有斐閣,2013年。

2019年2月3日日曜日

東島誠・與那覇潤『日本の起源』太田出版、2013年を読んで (2013/12/13)

 東島誠・與那覇潤『日本の起源』太田出版、2013年。2週間くらいかけて少しずつ読んだ。

 日本史について、時代別にどのような研究があり、それらの研究が、現時点の社会とどのようにつながっているのかがわかるという意味で、有益な対談。軽いノリなのに典拠注がびっしり充実していて参考になる。読書や勉強への実用性がある本だから、棚に保管しておく価値があると思う。

 しかし、私は、茶化しながら論評するというスタイル、とくに「○○はもう賞味期限切れですから」と決めつけるスタイルに抵抗感があり、なかなかお二人の世界に入っていけなかった。私は、歴史とは「事実かどうか」と「それをどう解釈するか」の二段重ねであり、前者を背景に持ちつつ、直接には後者であるのだと思う。だから「事実かどうか」「だけ」を争うのもおかしいと思うが、解釈だけを争う、例えば、面白い見方かどうかだけを争ったり、誰にとって都合のいい議論かだけを争うのも納得いかないのである(※)。この本はやや後者にブレ過ぎだと思う。

 とはいえ、自分も若いころはこういうしゃべり方をしていたなあと思う。齢を重ねるにつれ、はしゃぎすぎると足元をすくわれてすっころび、たいていのことは自分に跳ね返ってくると思うようになったという個人的事情も、この本との距離感の原因であろう。

※同僚の小田中直樹氏による『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年の見方に私は共感する。これも相当に軽めのノリで書かれた本だが。

東島誠・與那覇潤『日本の起源』太田出版、2013年。

2019年2月4日追記。誤解なきように付言しますと,私は與那覇潤『「中国化」する日本』はすごい本だと思い,影響を受けています。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/11/2011php2012-2013101.html





2019年2月1日金曜日

菅野よう子先輩のこと (2012/11/25)

 小学校、中学校、高校とは狭い世界である。極論すると、独自の雰囲気を持った閉鎖空間と言ってもいい。その中は楽しく、居心地がいい時もあれば、恐ろしいときもある(いじめられている場合など)。
 私は大学に行き、授業やサークルや社会活動を通じて、世界は自分が創造していたよりもはるかに広いのだということを、ようやく肌で感じ取ることができた。もっとも、その時の感触よりもさらに広大な世界に日々直面し続けて、いまも戸惑い続けているのであるが。
 小学校、中学校、高校の、繰り返しのような毎日の中で、ほんのわずかな時間だけ、周囲の空間ががらりとかわり、校舎や体育館の壁が消えて、数十倍、数百倍に広がりながら輝く瞬間があった。それは、ある女子の先輩がピアノを弾く瞬間であった。音楽関係の行事はこの先輩なくしては成り立たなかった。
 世界は広い。言葉では言い尽くせない。あの先輩のピアノはそれを教えてくれた。
 1990年代のある日。ある新興国を扱うNHKスペシャルのオープニングテーマで、私の心を揺さぶるメロディが流れた。これはもしや……と思ったところ、案の定、あの先輩の曲であった。
 私は、時々、ファーストガンダムをリアルタイムで見たことを学生に自慢することがある。それよりも自慢できるのは、あの先輩のピアノを小学生のときから聞いたことである

カルテル・トラスト・コンツェルンと独占概念についてのノート (2012/12/27)

 カルテル・トラスト・コンツェルンを独占の形態とするのは、独占論の古典的な区分である。私の師匠、金田重喜氏もよくこの3形態を論じていた。
 金田氏の場合、現代資本主義の支配的な資本形態は「独占資本」でなく「金融資本」であるとすることにこだわった。銀行資本と産業資本を両方含むコンツェルンを金融資本の具体的な存在形態とし、支配することから利潤を獲得することの重要性を強調したのである。これは古賀英正『支配集中論』と、Victor Perlo, The Empire of High Financeの影響下での見解であった(Perloの政治行動は論争になっているようだが、経済学上のことではないし、いま自ら検証する時間がないのでここでは触れない)。
 いま金融資本はわきに置くとして、カルテル・トラスト・コンツェルンがそれ自体独占体であるかどうかについては、今日では疑問視されている。カルテルはそれ自体の意味のうちに競争制限を含むので独占と言える。そして、独占は必ず競争を歪めるともいえる。ただし、生産の組織化や設備投資の増進に結びつく場合もあるので、独占といっても生産力を停滞させるとは限らない。これは現代の産業組織論をひもとくまでもなく、古くからシュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』や白杉庄一郎『独占理論の研究』が指摘していたところである。
 M&Aによる企業合同という意味のトラストや親会社・子会社による異業種間結合という意味のコンツェルンは、それ自体が独占なのではない。それ自体は別の原理、例えば規模の経済性や補完性、取引費用の節約、資本市場の内部化といった効率性増進の原理で成立しているかもしれないからである。これらは古くはガルブレイスなどによって指摘されていたが、いまでは経営組織論や企業の経済学の発展によって体系的に明らかにされており、私の授業でも取り上げていることである。このような内部組織や企業間関係の理論が今日では絶対に必要である。マルクス経済学が産業論で弱体化したのは、このあたりの研究が弱く、あまりに多くのものを独占概念で理解しようとしたからだと思う。
 とはいえ、トラスト・コンツェルンが独占でないと言い切るとまた逆の行き過ぎである。ある産業や、産業横断的な経済領域において、競争制限的な行動が支配的になり、その原因がトラストやコンツェルンによる経済力集中であるならば、それは独占であろう。独占による競争の歪みは分配の不平等の助長や社会的排除につながりやすく、場合によっては社会的生産力の停滞を招く。独占は現代資本主義のすべてではないが、一つのアクチュアルな問題であり続けている。
 もうひとつ考えねばならないのは私的独占と政府による独占の関係である。両者には共通項もあれば異なるところもある。例えば、成立した後の競争制限効果は共通であるが、存立基盤は異なっている。私的独占は、企業や企業集団が産業組織を操作することで参入障壁を築き、戦略的行動を行うが、政府による独占は国家権力によってこれを行うからである。各経済における規制産業の研究や、中国を含む政府による所有・経営関与の強い経済における産業研究には、政府による独占の独自性に関する研究が必要である。近年、中国の大型企業では、国有資産管理監督委員会が集団企業を100%所有し、集団企業が、股ブン企業(株式会社)を過半数ないし少数持ち株支配するという構造がよくみられる。この構造については故今井健一氏の研究が正面からとりあげていたと記憶するが、鉄鋼業でも中屋信彦氏の研究がある。中国企業・産業研究の重要論点であろう。

2019年1月19日土曜日

映画版『ラプラスの魔女』(2018/5/5)

  東宝シネマズで映画『ラプラスの魔女』を観る。原作ではかなり情けないキャラの青江教授をそのまま櫻井翔に演じさせるのは大人の都合上,無理だろうと思っていたら,案の定,家庭に居場所がない父親という設定はオミットされていた。しかし,それ以外は結構元のままで,広瀬すず演じるヒロインに「ですます」調で話すなど,かえって弱気になっている面も。ポスターの強気そうなイメージ画像は誇大広告である。
 しかし,原作を読んだときは気づかなかったが,この作品のキャラ配置は,つまり「主人公男子は事の成り行きを観察して語るだけであり,本当に力を持って事態を動かしているのはヒロイン」という,近年のアニメ・ラノベ界でしばしば見かける設定が,ついに東野圭吾ミステリーにまで採用されたということではないか。それはまだしも,その主人公が大学教授で,若者女子に「現場に連れてって欲しいの!」とか「車出して,速く!」とか言われるとあっさり流されて言うことを聞いてしまうというのはどうなのか。そこはかとない不安を感じざるを得ない。

「ラプラスの魔女」公式サイト。

2019年1月17日木曜日

宮部みゆきミステリーにおける「ピュアな少年」のフェードアウト(2013/12/29)

 宮部みゆきさんの現代ミステリはおそらく4分の3くらいは読んだと思う。いつも楽しく読んでいたが、ある時期まではどうしても気になることがあった。物語のどこかにピュアな人間、とくに少年を置いて、それを価値基準として世界が解釈されていることだった。そのために、勧善懲悪とは言わないが、単一の価値観によって物語が裁断される傾向があり、そこに納得がいかなかった(急いで付け加えると、『火車』にはそういう単純化はなかったと思う)。
 しかし宮部さんは、『理由』あたりから、様々な価値観、様々な人生を交錯させて描くようになった。話は多層的になり、複雑な現実を複雑なままに描くようになったと感じられた。直木賞を受賞されたのももっともなことだ。
 杉村三郎シリーズは、大コンツェルンの令嬢と結婚してコンツェルンの、ただし目立たない職に就いた男性が主人公である。その性格はまじめで正義感が強く、いわばピュアであるが、社会的な立場は複雑かつ中途半端、すわりの悪いものである。ピュアな人間がそのまま現代社会で生きることはできないということを作者が悟り、そのことがもたらす問題を自覚的に描こうとしたからではないだろうか。

宮部みゆき『ペテロの葬列』集英社,2013年。

2019年1月16日水曜日

1969-70年代の東北大学学生運動に関する2論文を読んで (2017/2/11)

 私が入学する数年前まではもう歴史になったか。1本目の論文はa)1969年の大学臨時措置法と教養部封鎖問題,2本目の論文はb)1969-71年頃の経済学部などでの学部長選挙への学生参加問題,c)1972年10月以後の教養部サークル棟移転問題,d)その延長線上にある1975年の処分問題とそれをめぐる全共闘系学生運動の暴力化をとりあげている。加藤氏は名誉教授が保管されていた文書を史料として用いているので,文書に収録されていなかった話題は取り上げられていない。例えば,教養部でa)とd)の間に起こったe)1972年前半の学費値上げ反対無期限ストと大量留年問題や,経済学部でb)の背景となったf)経営学科設置問題だ。

 2つの論文は当時の学生運動の状況をよく再現していると思う。ただ,細部は十分ではないところもある。例えば,私の知る限りd)の事実関係は,途中から不鮮明であり,たぶん誤認もある。これは使用した史料の限界だろう。教養部教授会議事録や配布資料を総ざらいすれば違っただろうが,史料館の教員と言えどもアクセスできなかったのかもしれない。また,関係者はまだ多数お元気でいらっしゃるのだから,ヒアリングで資料を補えばもう少し細かく書けたようにも思うが,そうすると今度は多数の人がそれぞれに異なる立場で証言することが予想され,きりがなくなると判断されたのかもしれない。

 著者が史料館においでならば,そのうちお会いできるかと思ったが,東京大学文書館に移られてしまったようだ。

2019/1/16追記。また東北大学に戻られたようだ。

加藤諭「1969年における東北大学の学生運動 : 豊田武教授収集資料を通じて」『東北大学史料館紀要』第7号,2012年3月。

加藤諭「1970年代における東北大学の学生運動」『東北大学史料館紀要』第9号,2014年3月。



緊張感を3割ほど欠きつつ,話は楽しく進む:東野圭吾『危険なビーナス』(2016/9/22)

東野圭吾『危険なビーナス』講談社。帯にある「失踪した弟の嫁に会った瞬間、俺は雷に撃たれた」という文句がすべてを物語る。ラノベか、アダルトか。いや、ちゃんと話が組み上がった東野ミステリーなのだが、主人公の獣医、伯朗のダメさ加減と、「お義兄様」「お義兄様」というヒロイン楓のむやみなはしゃぎぶりによって、本当に弟のことを心配してるのかと読者にかすかな不安を与えつつ、緊張感を3割ほど欠きながら、謎解きはそれなりに進む。そういうのが好きなら楽しめる。イラっと来る人は楽しめない。

個人的には,主人公と読みは違うが同じ名前の同僚がいるので、最初50ページほどイメージの混乱に悩まされた。

東野圭吾『危険なビーナス』講談社,2016年。

2019年1月12日土曜日

子どもの人生の破壊としての「グリコ・森永事件」:塩田武士『罪の声』を読んで(2016/12/15)

 塩田武士『罪の声』講談社、2016年。『週刊文春』を買ったらミステリーベスト10国内部門第1位で紹介されていたので買って読んだ。グリコ・森永事件を題材にしたミステリー。主人公が、ある日、「ギンガ萬堂事件」で企業恐喝に用いられた子どもの声が、自分の声であると気がつく。
 面白く一気に読んだ。グリコ・森永事件で明らかになっている事実の裏側は、実はこうではなかったかという想像をかき立てられ、心は一気に昭和に飛び、そして21世紀との往復を始める。そのたびに、パズルのピースは少しずつ組みあがっていく。
 この小説の焦点は、事件に巻き込まれた子どもであり、子どもであった今の大人である。犯人が誰なのかは問題だが、人間としての犯人は、実はさほど重要ではなく、むしろ矮小なものとして描かれている。そこは、たとえば犯人グループと刑事にフォーカスした高村薫『レディ・ジョーカー』と大きく異なる。この違いが、私には印象的であった。
 極論すれば、本書は、「ギンガ萬堂事件」≒「グリコ・森永事件」を、戦後史の闇とか企業史の秘密とか犯人像とかの問題ではなく、子どもの人生を破壊した事件なのだととらえているのである。これは非常に大胆で新鮮な視点だ。しかし、そこからものを言おうとすると、つまりは「子どもたちを守ろう」という、正しいがありふれた命題に帰結しかねない危うさもある。この危うさを伴った新視点を著者は打ち出した。その結果については、私の偏った感性を披露するよりは、それぞれの評価に任せるべきだろう。



塩田武士[2016]『罪の声』講談社。

佐々木譲『回廊封鎖』と『地層捜査』(2012/11/24)

 佐々木譲『回廊封鎖』集英社、2012年8月と、同じ作者の『地層捜査』文藝春秋、2012年2月とは、近い時期に出版されているが、物語の色調は鮮やかなほどのコントラストをなしている。前者は消費者金融問題が背景をなし、六本木の超高層ビルで開催される国際映画祭が舞台となり、香港から来日する実業家をめぐる暗殺計画が展開する。決着は超高層ビルの回廊でつけられる。後者は公訴時効の廃止が背景となり、15年前の老女殺人事件の再捜査が、東京の一つの町が舞台となって繰り広げられる。捜査のために主人公の刑事は、その町をひたすら歩き回り、失われた過去を掘り下げていくことになる。『回廊封鎖』では国際的な舞台の中で現在の主人公たちが直面する日本社会の冷酷さが浮かび上がり、『地層捜査』では一つの町の地層のように積み重なった出来事を掘り下げることで、主人公は過去の日本社会の鬱々としたやるせなさに直面する。
 両方を読んでどちらに魅かれるによって、読者は自分の時間と空間に対する感覚を知ることになるのかもしれない。私は後者に魅かれた。私はアジア産業の現状分析家であり、地域の歴史研究に方向転換したいと思っているわけではない。しかし、失われた過去というものへのこだわりが強く、現在を過去からの帰結とみる傾向が強いことは事実である。これが心情告白なのか、学問的方法論なのかはわからないが、二つの犯罪・警察小説を読んで、自分の持つ空間・時間感覚に気がつかされたことは事実である。この2冊のコントラストに何事かを感じる人が他にもいるだろうか。

佐々木譲『回廊封鎖』集英社文庫,2015年。
佐々木譲『地層捜査』文春文庫,2014年。