2019年3月30日土曜日

事例研究のスペクトラムについて (2018/5/16)

 ここ数年,自分が行う査読と,自分やゼミの院生が受ける査読を比べてみると,事例研究に対する私の考え方が少数派なのではないかと,つくづく思う。

 画像は昨年度のゼミで院生向けに話した時に使ったもので,事例研究のスペクトラムを表そうとしたものだ。

 私の理解では,事例研究とは,表の一行目のものであってよい。つまり,
1)事例の重要性は理論的に重要なことにかかわるからであってもよいが,社会・経済情勢から見て重要であるということでもよい。
2)事例研究とは,事例に関する事実に基づくものであり,したがって事実の解明がきちんとできているかどうかが何より重要だ。
3)事例研究とは,事例を学問的に解釈することだ。ここで学問的とは,経済学と経営学の論理で100%説明するということではない。経営や産業とは経済的・経営的側面だけでなく,技術的側面や政治的・社会的側面を持っており,また普遍性だけでなく個別性をも持っている。したがって,それらの諸側面の総合としての事例を合理性的に理解するのが研究だ。誤解なきように追加すると,合理的であることも矛盾していることを含めて理解することだ。

 したがって,理論的解釈以前に事実がきちんと明らかにされていることが必要条件だ。逆に,一切を理論の説明材料に落とすかのような分析の仕方,結論の出し方は,好まないし,本来適切でないとさえ考えている。

 だが,私の受け止めでは,単行書や分担執筆に対して,近年の雑誌論文の査読は,事例研究に対して,理論的枠組み,理論的解釈,理論的インプリケーションを求める傾向が強過ぎる。これは,私のスペクトラムの3段目,つまり理論の例証としての事実を求めているからではないかと思う。

 繰り返すが,私はそこに行き過ぎを感じるし,もっと言えば,間違いだとさえ思う。理由は上記のように,産業や経営に関する事実そのものが,純経済学的・純経営学的存在なものではないからだ。経済学と経営学の論理に解消できない諸側面と個別的諸事実があるから事例なのだ。事例から無理くりな一般化を行ったり,事例の諸側面を切り捨てて経済法則の一例としてのみ扱う論文は,序論と結論がいかにきれいに(エレガントとやらに)書かれているように見えても,低く評価されるべきなのだ。

 しかし,このような考えは,国際的にも国内的にも,学会の主流とはなりえないだろう。正直,このことを考えると非常に憂鬱になる。

 ともあれ,私は,断固として,スペクトラムの第一行のような事例研究を高く評価する見地で研究も査読を行うし,それは私なりに認識論的根拠を持ってやっていることなのだと表明しておきたい。やがて,査読を依頼されなくなるかもしれないし,拙稿は雑誌に載らなくなるかもしれないが,それはそれでしかたがないだろう。

 ただし,院生には,私と同じ認識論や学問観を持たせて苦労させるわけにはいかないので,そこが頭痛の種だ。したがって,せめて1行目と3行目の中間を狙うように支援するしかないかと思っている。




0 件のコメント:

コメントを投稿