2018年11月30日金曜日

川端純四郎『教会と戦争』新教出版社,2016年の個人的編集後記 (2016/4/27-20165/7)

 川端純四郎『教会と戦争』新教出版社,2016年。カルト対策で著名な浅見定雄先生,東北学院大学の北博先生らとともに,2年半ほど編集し続けてようやく完成しました。キリスト教の視点,社会運動の視点,いずれからも読むことができます。

 本書は,著者の歩み(1-4),著者のキリスト者としての信仰(5-11),キリスト者としての社会的実践(12-22),礼拝における奏楽とオルガン(23-28)に関わる文章を選択して収録したものです。これまで出版されたバッハ研究,賛美歌研究とは極力重複しないようにしました。また,宗教学に関する学術論文は専門家向きなので対象から外し,日本基督教団の問題に密接にかかわる2編(9と10)だけを収録しました。このため,全28編のうち2編だけがやや難解ですが,それ以外は平易な文章になっています。著者との接点がキリスト教と社会運動のいずれか一方だけであった方でも,他方について知っていただくことができます。

 著者は,文字に残してよいものとそうでないものを厳格に区分していました。例えば,教会で行ったお説教などは後者であり,ほとんど文字に残されていません。他方,講演は,場合によっては前者と扱い,記録を配布することも認めていました。このため,本書には,公表出版物には初めて収録される講演記録も含まれています。たとえば,冒頭の「現代における矛盾と差別」は,著者の1945年8月15日経験を扱っていますが,学生向けの講演であり,ガリ版刷りの,ぼろぼろになったわら半紙の冊子から編集しました。




 以下の写真は,本書に収録された文章のうち,書物としては初めて一般公開される講演記録の冊子です。講演記録の一部は著者ホームページhttp://www.jade.dti.ne.jp/~jak2000/ 
でもご覧いただけますので,試し読みにご利用ください。




「現代における矛盾と差別」。1978年1月14日(土)に,日本キリスト教団学生センターで行われた講演内容に加筆修正したもの。著者の1945年8月15日経験のところを抜粋・編集しました。誤字・脱字や文脈の乱れたところに最小限の編集をかけ,事実関係を編注で補いました。読者の皆様には申し訳ないのですが,実は,それでも間違いは残っています。著者は陸軍造兵厰を海軍工廠ととりちがえていたようなのですが,編集過程でこれに気づかなかったのです。



「靖国神社と日本人の宗教心」。2006年3月6日,図書館九条の会学習会での講演。これは宗教学者である上に,前世紀より靖国神社国家護持反対運動などに従事してきた著者が,相当力を入れて学問的にも裏をとったうえで話しています。本人も自信があったらしく,テキストはウェブでも公開していました。個人的には,「靖国神社は日本の歴史で初めて味方だけ祀りました」という指摘が衝撃的でした。つまり,敵も味方も弔うとか,「死ねばみんな仏になる」といった日本の伝統とは正反対なのが靖国神社だというのです。





「礼拝と賛美」。1993年5月6日,日本キリスト教団松山教会にて。これもかなり力を入れた気配があります。講演記録冊子が2種類あって,この写真に写っているのは改めて打ち直したもののようです。



「『合同のとらえなおし』と日本基督教団の歩み」。1994年5月3日,日本キリスト教団九州教区総会における講演。日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同に関わる問題がテーマ。



「オルガニストの心構え」。1985年8月22日,日本キリスト教団東北教区教会音楽研究会講義。本書では,著者の従来の音楽研究の本に収められていなかった,礼拝における奏楽とオルガンに関する論稿も収録しましたた。著者はこのテーマで論文(本書収録の「礼拝における奏楽の位置」)も書いていますが,講演の端々からすると,バッハ研究や讃美歌研究ほど自分はプロではないと考えていたのだと,私は推測します。しかし,むしろ信仰がない私がこの講演記録と別の「礼拝と音楽」を読んで面白かったのは,非常に実際的に,礼拝の運営,教会の運営に役立つ話をしようとしていることでした。著者は一方では倫理と論理を突き詰める人でしたが,他方ではたいへん実務的な人でした。二つの講演には後者の側面が出ていると思います。



 1998年4月16日,日本共産党北海道宗教者後援会が開催した「信仰と科学の共同をめぐる講演会」の記録。本書では他の文章との重複を考慮して一部を削除し,抄録しました。
 この講演は,著者が三つのことを,他の文章よりもはっきり語っているために,収録しなければなりませんでした。一つ目は,著者が信仰と自然・社会科学の関係をどう考えていたか,自然科学が正しいならば物理的には神様はいないことになるわけで,そこをどう考えていたかを,はっきり語っていることです。二つ目は,当初は社会党(当時)支持だったのにやがて共産党を強力に支持するようになった理由,学生運動を支援しながら新左翼は支持しなかった理由を,経過を含めて紹介していることです。三つ目は,マルクス主義・科学的社会主義にほぼ賛成した上で,人間理解でなじめない部分があるとも述べていることです(これは『3・11後を生きるキリスト教』でも書かれていますが)。
 しかし,問題もありました。まず,いつ講演したかわからないのがネックでした。月日は書いてあるのに年が書いていないからです。しかし,講演と「全国宗教人・日本共産党を支持する会」の結成が同年であることが冊子の記述からわかるので,この「支持する会」の結成についての報道を探し出して解決しました。
 次に,講演タイトルがないことが問題で,収録するために何かつけなければなりませんでした。「信仰と科学」とすればあたりさわりがないのですが,おそらく著者の本意ではないものになります。本意をあらわすのは「なぜ日本共産党か」でしょうが,そうするとその背後にある著者の信仰や社会観がにじみ出ないで政治一辺倒の文書に見えてしまいます。そこで組み合わせればよいと考えて「なぜ日本共産党か -信仰と科学-」としました。いささかためらいもありましたが,著者を知っている人は,賛否はともあれ川端純四郎は「聖書とバッハとマルクス」の人であり「教会と共産党」の人であったとわかっているから,まあこれでいいだろうと割り切りました。著者を知らずに書店で見たキリスト教信者の方がぎょっとするかもしれませんが,こればかりは勘弁願うしかありません。賛否を問わずご覧になって,著者と対話していただければと思います。

川端純四郎[2016]『教会と戦争』新教出版社。

2016/4/27および20165/7にFacebookに投稿した記事を再構成。文体を編集。






















2018年11月28日水曜日

中国の必修科目としての「政治経済学=マルクス経済学」に隠された深遠な陰謀 (2013/10/12)

 中国ではマルクス主義は国定思想なので、大学でも関係するいくつかの科目が必修科目になっている。そこにはマルクス経済学の基礎に相当する「政治経済学」も含まれる。

 この授業について、私の知る限り、中国の大学生から「つまらない。忘れました」という以外の感想を聞いたことがない。「ほんっとーに、つまらないです!!」「I hate it!」という表現さえ聞かれる。私自身が学生・院生時代に、当時すでに少数派となっていたマルクス経済学ベースの勉強をしていて、その問題点も多少はわかっているつもりなのだが、そういう学問的な問題ではないようだし、思想を押し付けられるのが嫌いというだけでもないらしい。

 ヒアリングと、北京や上海の書店で「政治経済学」の教科書らしきものもめくってみた限りでの情報をまとめると、以下のような事情らしい。

 政治経済学の授業のスタイルは、マルクス経済学の超要約版の教科書を使い、図式化して、丸暗記を強要するものである。内容のどこが現実の社会とどう関わっているのかといったことは一切やらない丸暗記らしい。つまり、「寿限無寿限無五劫の擦り切れ」を暗記するのとほぼ同じ要領で「社会的存在が社会的意識を規定する」と覚えるのだ。学生は試験のために暗記して試験終了とともに忘却し、ただ「つまらなかった」という感覚だけを心に残す。日本でも科目を問わずこういう授業は存在するが、教科書も教え方もそのもっとも悪いバージョンになっているようだ。

 もう少し詳しく言うと、資本主義経済については『資本論』の超要約版教科書を叩き込むのだが、社会主義計画経済の原理とそれが行き詰まった理由、中国の「改革・開放」を含む市場経済化の経済学的根拠については、ほとんど教えない。中国の経済学の授業なのに「改革・開放とはどういう原理でなされているのか」は語られないという不思議なことになる。よってますます現実と関係なくなり、学生が関心を持つべくもない。

 なぜ、こういうことになるのか。もちろん、国定思想は干からびた暗記物になるものだという一般傾向に過ぎないのかもしれない。だが私は、次のように邪推する。

 いま、マルクス経済学が正しいか、まちがっているかはは脇に置こう。とにかく中国の各大学が、丁寧に、現実の社会とのかかわりを解きほぐしながら国定思想たるマルクス経済学の授業をして、ある割合の学生がそれも一理あるなと思ったとしよう。マルクス経済学が一理あると思うというのは、つまり

「資本主義って、一見対等平等に取引しているようで、必然的に格差を生むしくみになっているんだな」とか、

「技術進歩の果実はほとんど資本家のものになってしまうんだな」とか、

「資本主義発展とともに農村から都市に移動した人口が過剰扱いされて、失業者と都市問題を生むんだな」とか、

「貧困って自己責任じゃなくても社会の問題なんだ」とか、

「信用機構や株式会社ってひとつまちがえると詐欺の温床になるんだな」とかいう風に思うことである。

 さらにすすむと、

「これはみんなわが国で起こっている問題だよね」とか、

「考えてみると中国の社会主義市場経済って、ほぼ資本主義だよね」とか思うだろう。

場合によっては、

「なるほど、労働者が立ち上がって資本主義に反抗するのは歴史の必然なのか」と思いかねない。

 そう、国定思想を丁寧に教えると、現在の体制に対する疑問を惹起してしまうのである。中国政府はこの矛盾に気づいているがために、わざと極端につまらない「政治経済学」を必修化し、学生をマルクス経済学嫌いにしているのではないだろうか。

※念のための注。中国にも学問的なマルクス主義研究は存在する(哲学が強くて経済学が弱い傾向はある)。また改革・開放に関する経済学的研究は時とともに盛んになっている。そういう研究と必修科目の授業がまったく分離していることが特徴なのである。

2018年11月26日月曜日

與那覇潤『中国化する日本』文藝春秋,2011年と池田信夫・與那覇潤『「日本史」の終わり』PHP研究所,2012年を読んで (2013/10/1)

 近世から現代にいたる歴史を見るときに、「西洋化しているかどうか」だけでなく「中国化しているかどうか」を軸にすると、いままで見えなかったものが見えてくるのではないかというのが、與那覇潤『中国化する日本』の主要な論点である。実は、ふだんから中国人留学生と接し、さわり程度とはいえ中国産業を観察していると腑に落ちるところが多く、この考えに注目している。「中国社会の方がグローバリゼーションに適合しやすいのでは?」という疑問に正面から一つの試論を提示してくれる本であったことは確かである。

 読んでない人が誤解するといけないので注意書きすると、與那覇さんは「中国化が良いことだ」と言っているのではない。歴史を考えるものさしとして「中国化」を打ち出しているのだ。これまで、「西洋化」が良いことだと思う人もそうでないと思う人も、「日本が西洋化したかどうか」という基準で歴史を見てきた。同じように、ものさしとして「中国化したかどうか」をあてようという提案だ。

 與那覇さんの考える「中国化」とは,一極専制であること、法の支配より徳治を期待すること、立法に対する行政の優位、秩序への合意を調達する原理を「法の下の平等」でなく「独占的地位が固定化せず流動的であること」に置く(例:科挙に挑戦する機会は誰にも開かれていた)、身分制否定と私的利益追求の自由、といった特徴を社会が帯びることだ。確かにこれなら「西洋化」とも違うし,日本社会の特徴としてよく言われることとも違う。そしてこういう軸で考えると,政治的自由主義・個人主義には向かわないが,経済的自由主義・個人主義に向っていく中国社会の傾向などが理解可能になる。国家資本主義にも見えるし,大衆資本主義にも見えることの歴史的背景としても重視すべきかもしれない。

 もしかすると以前から中国化論に似たことを述べた研究はあったのかもしれないが、何しろ中国史はまったく不勉強なのでわからない。また、歴史学者のイメージを一変させる與那覇さんの超軽い文体(だが私の同僚にも一人いる)と話を単純化してわかりやすすぎるたとえ話にする話法に立腹する読者もいるかもしれない(私の周りにもいる)。しかし、というかそれ故にというか、『中国化する日本』は大ウケしたようだ。

 その與那覇さんと池田信夫さんの対談を読んだ。私は池田さんの「メンバーシップ雇用」論などは賛成だが、他人に対する批判のすさまじさについていけなくて,ブログはあまり読んでいない。しかしこの本では池田さんは冷静で面白い議論をしているし,與那覇さんは池田さんの主張に流されていない。池田さんの話が一面的になりそうになると輿那覇さんが「ただ、実はこういう面もあるわけで」「そうするとこういうことになると思うのですが」「それをもう少し考えてみますと」という形で話を深めたり,押し広げて広い角度から見直したりしているように見える。やはり,ただのほら吹きではなく,たいへんな討論能力の持ち主なのだなあと感心した。

2018年11月23日金曜日

トマ・ピケティ『21世紀の資本』第6・7章ゼミ記録 (2015/5/8)

 学部ゼミ議論メモ。『21世紀の資本』6章。「昔の資本主義は資本が利益を生んだが,いまは人的資本(知識,技能)が利益を生む」といった経済学や経営学に広くみられるワンパターンを実証データを持って批判し,資本が収益を生み出す力はいまなお侮れないことを示している。具体的には、資本蓄積の増進(βの上昇)が,それに伴う資本収益率低下(rの低下)を上回って,資本分配率を高める(αの上昇)傾向は起こり得るし,現に1980年代以後のフランスやイギリスでは起こっているとする(α=r×β)。より専門的に言えば,これはコブ=ダグラス型生産関数の想定への批判となる。ただし,狭隘な想定を批判しているのであり,生産関数を全否定しているのではない(だからこそソローがピケティをabsolutely rightというようなことも起こる)。
 7章。完全に能力主義によって所得が決定される社会を想定して思考実験。1)最大のネックは家族内での養育と贈与(相続)。能力主義的観点から言えば,前者は能力獲得機会の格差を生む可能性があり,後者は不労所得だ。では,市場経済と資本主義がもしも能力主義の徹底であるというならば,家族内にもそれを徹底させるのが本来のあり方なのか。裏返すと,資本主義を能力主義だという人は,暗黙のうちに家族は例外としていないか。2)それから,能力の基準がどうであるかによって,つけられる序列は変わってくるし,求められる訓練や努力も変わってしまう。加えて3)マクロ的制約。ケインズ的世界では,各人の能力差が小さくても,あるところで非連続的に雇用されるか非自発的に失業するかで所得が大きく違ってしまう。4)究極の問いは,資本収益とは何か。6章で説明されたように,資本運用労働の対価を控除してもまた純粋資本収益が残るならば,それはただ資本を所有しているがゆえの報酬であり,能力とは関係ないのではないかと言う問題が残る。





稲葉振一郎『不平等との闘い ルソーからピケティまで』文春新書,2016年5月に関するノート (2016/9/4)

  稲葉振一郎『不平等との闘い ルソーからピケティまで』文春新書,2016年5月。経済理論史となると,半端者経済学者の私では歯が立たない。『ライブ・経済学の歴史』とかいう本を書いた同僚もそうであるが,頭の回転が速すぎて,たいていの理論をすらすら解説してしまう同世代というのは,実に劣等感を刺激する存在で困る。しかし,まあ嘆いても仕方がないので感想を記す。
 資本主義がマルクス的な階級間格差が構造化される世界でなく,誰にでも等しい機会が与えられる状態がいつも存在する新古典派的世界になるためにはどんな理論的条件が必要か。稲葉氏は,効率的な資本市場を重視する。効率的資本市場があれば,労働者が資本蓄積することも可能になり,社会は流動化するということだ。
 しかし,話はそこで終わらない。稲葉氏は,そこに技術革新の有無,人的資本,人的資本がヒトに体化されているが故の資本市場の不完全性という条件を加えていく。そうすると,今度は不平等の維持・拡大や,不平等ゆえに成長が阻害される可能性が生じてくるのだ。これが,経済学における不平等ルネサンスと言われるものだ。といっては省略しすぎだが,まちがってはいないだろう。実際の緻密な議論の組み立ては本書を参照いただきたい。 しかし,稲葉氏のこうしたストーリーが,本書の末尾でピケティ『21世紀の資本』にたどりつくとき,どうもうまくかみ合っていないような気がする。『21世紀の資本』だけは私も精読したつもりなので,ここは必ずしも不勉強のせいではないと思う。
 ピケティは歴史統計からその蓄積ぶりが把握できる物的資本(実際には資産だが)だけに対象を絞り,それだけで,歴史的な資本蓄積のあり方とその不平等への影響は十分把握できると実証的に主張している。人的資本は思いっきり無視されているし,技術革新もほとんど組み込まれていない。資本市場が効率的かどうかも論じられていない。理論史的文脈から理論史に整合した理論的説明の問題を立てるのではなく,歴史的対象の性質から,歴史の理論的説明の問題を立てているのだ。 私は,ピケティの論点のうち,稲葉氏が重視していない以下の二つの点が重要ではないかと思う。
 一つは,資本所得(と,一部,とくにアメリカの最高経営層の労働所得)は,結局能力の発揮の結果ではなく,不労所得なのではないかという提起だ。これは,経済理論的には,資本運用には収穫逓減が働いていないということを含意する。が,それだけではない。多くの労働所得と異なり,資本運用の成否は能力の有無に関係なく,ただ,資本を持っているかどうかに依存する,そして,資本を持つ機会も能力で決まらないものが多いというのだ。その最たるものは相続だ。これはマルクスに極めて近い視点だ。
 この視点に対しては,批判はありうる。シュムペーターが述べたように,あるいはビル・ゲイツが実際に『21世紀の資本』に対するコメントで述べたように(※1),企業者の革新的行動に対する報酬としての起業所得が考慮されるべきという批判だ(※2)。
 しかし,ピケティはよく読むと資本所有者自身の資本運用労働による起業所得も考慮している。その上で,それでは説明がつかないほど歴史的に資本所得は大きく,不労所得の疑いが強いと主張しているのだ。 もう一つは,第二次大戦後の先進資本主義国において,ある程度所得や資産の分配が平等で,能力主義が成り立っているように見える部分があるとすれば,それは資本主義がもともとそういうものだからではない,ということだ。大恐慌における経済崩壊,第二次大戦における物理的破壊と,資本の総力戦への動員,そして戦中と戦後処理の過程でのインフレーションによって,資本が破壊されたことによると見ないと,説明がつかないということだ。
 歴史統計が示唆するこの2点を,経済理論はどう説明するのか,とピケティは迫っている。ピケティの重視したこの二つの問題を,稲葉氏はそれほど重視しているようには見えない。むしろ,ピケティが「現代の経済学の理論的な流れに対して,かみ合った理論はまだ構築できていない」という風にとらえているように見える。それは,理論史から見ればそうなのかもしれない。しかし,ピケティ自身の問題意識に即して,「歴史統計が示す現実を理論は説明していない」,ととらえるならば,話は違ってくるのではないだろうか。どう違ってくるのかはわからないのだが。
シェア先
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166610785
※1 ビル・ゲイツの『21世紀の資本』へのコメントについて(2014年10月16日Facebook投稿)。
https://www.facebook.com/nozomu.kawabata.5/posts/376926135806688
※2 私も純理論的に考えた場合には,プロセス・イノベーション以外のイノベーションが考慮されず,平均を超える企業者所得の根拠が解明されていないのが,シュムペーターに対するマルクスの弱点だと思っている。

ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか:権力・繁栄・貧困の起源』に関するノート (2017/1/20)

 ようやく読み終わったダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか:権力・繁栄・貧困の起源』。経済発展を左右するのは地理や文化ではなく制度であるという考えで首尾一貫して世界史を説明する壮大な試み。その枠組みはたいへんシンプルで,政治と経済が包括的制度であるか,収奪的制度であるかによって経済発展が左右されるというものだ。
 包括的制度とは,多元的に,様々な集団や階層が参加して,創造的破壊を行なえるような制度のことだ。過去においては色々な制度があったが,現代の経済においては,ある種の市場経済,つまり財産権が守られていて,過剰な参入規制や,国家的・私的独占がなく,教育によって創造的経済活動ができる人々が多数存在しているような市場経済だ。政治においてはやや複雑で,まずある程度の中央集権が前提になる。中央集権がないと,財産権を守り,恣意的な収奪や抑圧を防ぐことができないからだ。しかし,その中央集権化された国家権力を一握りのエリートが独占しているのではなく,様々な集団,階層による多元的な参加が可能になっていなければならない。過去においては色々な制度があったが,現代で言えば民主主義がこれに近い。ただ,名目は民主主義や議会制や複数選挙があっても,実質的に一握りのエリート支配になっていれば収奪的制度だ。
 包括的政治制度と包括的経済制度が両立していればいちばんうまくいく。収奪的政治制度と収奪的経済制度では最悪だ。複雑なのは,収奪的政治制度と包括的経済制度の場合で,これは現在の中国を含めて,ある程度までは経済発展できる。しかし,長期的に見ると,投入をただ増やすだけ,あるいは技術を海外から借りるだけによる発展になりやすく,種々のアイディアの出現と創造的破壊を妨げるので,発展が限界に達するだろう。
 以上の枠組みでほぼすべてが説明されている。実は,読んでいて妙な既視感を覚えた。これは要するに,以前より経済史で色々な人が言ってきた「下からの資本主義発展」であり,大塚久雄(あまり読んでないが)であり,「政治と経済両方の近代化」論と似た話ではなかろうか。私はこれらの議論をあまり疑っておらず,アセモグル&ロビンソン両教授にもおおむね同意する。しかし,もっとラディカルな人からは色々批判もあると思う。
 一応,私でさえもマルクス経済学崩れなので,(戦後直後の大塚久雄批判みたいな古いことを言って申し訳ないが)「市場経済と資本主義自体に収奪的性格は内在していないのか」という疑問も持たないではない。もちろん,社会主義計画経済は大いに収奪的だと判明している現在,市場経済と資本主義よりましな経済制度はないだろうなあということくらいは,わかっている。そして,市場経済のもとでは,財産権をきちんと保証した方が経済が発展するというのも,まず間違いなくその通りだと思う。しかし,財産権を完ぺきに保障することが,課税を通した所得再分配の困難,土地の計画的利用の困難,その社会の家族観にもよるが相続を通した非能力主義的分配による格差の拡大に結び付くと,それは結局収奪的制度に近寄ることになるだろう。所得再分配や都市計画や,相続税をもちいるような福祉国家路線の方が,長い目で見れば多くの集団,階層の経済的行為への参加を促し,創造的破壊を促進する包括的制度だということになる。しかし新自由主義論から見れば,それは官僚支配であり,市場経済の活力を殺す行為だ等々となるだろう。この辺りを著者がどう考えているのかには興味がある。あまりにも単純で古い疑問なので,大声で言うのが恥ずかしくないでもないのだが。
 ついでだが,Why Nations Failという原題を『国家はなぜ衰退するのか』と訳していいのだろうか。Nationは「国」「くに」ではあっても「国家」ではないだろう。『国はなぜ衰退するのか』などとすべきではないのか。『諸国民の富』ではあっても『諸国家の富』ではないし,『国の競争優位』ではあっても『国家の競争優位』ではないだろう。これも戦後直後の学者のような発言で気が引けるのだが。

ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン(鬼塚忍訳)[2013]『国家はなぜ衰退するのか:権力・繁栄・貧困の起源』早川書房。


2018年11月21日水曜日

北田暁大・栗原裕一郎・後藤和智『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』イースト新書,2017年を読んだがよくわからないので,とりあえず反緊縮に賛成しリフレに反対する (2017/7/4)

 北田暁大・栗原裕一郎・後藤和智『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』イースト新書,2017年。

 あまりに忙しくて,自分の研究に直接関係ある本,ゼミと講義に使う本,院生指導に必要な本,頭を休めるための本以外は読めないのが現状だ。それで,最近の論壇の流れとかを知りたくて買った。

 が,残念ながらあまりお勧めできない。肝心の,「誰が,何を言っていて,それをどう評価するのか」がわからないからだ。そんな馬鹿なと人は言うだろうが,私の読んだ限り,本当にそうなのだ。

 この本は,何年ごろ,どんな論客が,どんなイベントをきっかけに出現し,その次は誰が台頭し,そのまた次は誰で,どういう動きにつながっていくとか,その間は人脈としてはこういう風になっている,という話が延々なされている。それは別にいい。が,一番肝心な,それぞれの論客の主張内容がよく分からず,また,それに対してどこが,なぜ,どのように正しいのか,あるいはまちがっているのかが,きちんと評価されていない。登場する過半数の論者にはむやみにケチをつけたり馬鹿にしたりしているのだが,何がどう悪いのかがさっぱりわからない。何度も出てくる名前で言えば,著者たちがSEALDsに批判的なのはわかるが,SEALDsの何がどうだめなのかがわからない。また全然別系統の論者で言うと古市憲寿に批判的なのはわかるが,古市憲寿の何がどうだめなのかさっぱりわからない。私の読解力によほど問題があるのだろうか。

 本書を読んで,私は妙な既視感を覚えた。論客の系譜や人脈をたどって軽く,軽く,楽しむという書き口は,あのポスト・モダン盛りの1980年代によく見られた。だが,著者たちはそういうスタイルの人でなく,大真面目に何かを主張したい方々のはずであり,現に書き口は全然軽くない。データで事実を語らねばならないとおっしゃっている方々であって,解釈次第で世界はどうにでも見えるという方々でもない。なのに,どうしてこういう本になるのか,理解できない。

 とはいえ,ネガティブなことばかりわざわざ書くのも何なので,唯一主張が読み取れて,かつある程度賛同できたことを書く。それは,主に北田氏が述べている,「文化的左翼のアイデンティティ・ポリティクスは,経済を無視する限りにおいて無効だ。経済的困窮,貧困を直視しなければならない」,まして「経済はもう成熟した。反成長主義で行くべきだ,などというのは愚の骨頂であり,労働問題,とくにロスジェネ以後の比較的若い世代のそれを事実に基づいて語らねばならない」という主張である。著者たちがこの基準で語っているらしいことだけは,かろうじて分かった。著者たち,とくに後藤氏がむやみな「若者たたき」や「若者擁護」を批判するのも,それはロスジェネ以後の若者の困難という深刻な事実を無視するものだからなのだろう。

 この主張の延長上で,「左派は経済政策として反緊縮を主張すべきなのに,それが中心に座っていないから主張が首尾一貫しない。外交や民主主義の問題で反安倍なのはよいとして,ついでに反拡張政策を主張してしまっては,格差と貧困の解決が遠ざかるだけだ」というのももっともだ。これは日本において右翼が拡張政策を取り,左翼がそれを批判するという,ねじれた状態になっていることをよくとらえている
(とはいえ,その主張は松尾匡『この経済政策が民主主義を救う』大月書店,2016年を読んだ方が,はるかにわかりやすいし,また経済学的に理解できる)。

 ただ,そこにも問題があって,著者たちは「反緊縮政策イコールリフレ」だと思いこんでいる。これはおかしい。反緊縮政策は反緊縮政策,あるいは「金融緩和と財政拡大」といえばいいのであって,「リフレ」と言わねばならない理由は存在しない。

 例えば私は反緊縮派であるがリフレ派ではない。リフレ派が,「日銀は通貨供給量を自由に増やせるし,増やせばそれだけである程度物価は上がり,総需要も回復する」という因果関係を想定しているのは間違っていると考えている。中央銀行の通貨供給=ヒモ論,つまり中央銀行券の市中への供給は意図的に絞ることはできても,意図的に拡張することはヒモを押すようなものであって困難だという主張の方が正しいと思う。

 私の意見では,反緊縮主義のためにはケインズ『一般理論』の原典に記されている発想が肝心である。つまり,資本の限界効率,すなわち産業における投資決定者の期待利潤率を引き上げねばならない。それは日銀券供給だけではできない。新産業による市場形成への期待を直接に広がるか,あるいは眠っている個人貯蓄を保有者が喜んで支出したくなるようにして産業全般の期待利潤率向上を間接的に促進するかの,いずれかである。イノベーションの支援や,規制改革や,社会保障改革によってそれらを誘導しない限り,見込みはない。なぜなら,企業資本(機械設備や原材料)の期待利潤率はアニマル・スピリッツに左右される不確実なものであり,株価は美人投票メカニズムなのでやはり不確実なのであって(これが私の『一般理論』原典主義の意味である),通貨を何パーセント増やせばそれで期待利潤が何パーセント上がるというものではないからである。新産業形成か,貯蓄を使いたくなるか,いずれかに貢献するような財政政策や金融政策ならば好ましく,貢献しない財政・金融政策は好ましくないのであって,その境目は通貨供給量では決まらないのである。アベノミクスに問題があるのは,通貨膨張に過度に依存してきたことであり,規制改革と財政拡大が,新産業形成にも,安心してお金を使える環境にも寄与していないからなのだ。拡張政策が悪いのではなく,拡張政策の中身が悪いのだ(とはいえ,私は財政赤字のサステナビリティも気にせざるを得ないと考えているが)。

 本書から辛うじて読み取れた経済学主張に対する部分的賛同と部分的留保は以上である。

2017/7/4初稿(Facebook)
2017/7/8補足
2018/11/21補足に基づき修正。

古本屋での出会いと救い:中村静治『技術論論争史 上・下』青木書店,1975年のこと (2017/10/3)

 東北大学片平キャンパス近くの古本屋,熊谷書店が閉店したとのこと。私の研究者人生は,この古本屋での出会いによって大きく変わった。ここでの出会いによって,辛うじて飯を食える論文が書けるようになったといっても過言ではない。

 1990年ころ。世の中はバブルであったが,大学院生の私には金も職も力もなかった。その上,この時代にもなって旧左翼であったために精神的に煮詰まっていた。中国には天安門事件が起き,ソ連・東欧の20世紀社会主義は崩壊した。経済的には,資本主義に様々な問題があるとはいえ,その中で生きる以外に当面道はないことが明らかになった。政治的には,20世紀社会主義の諸国は,人民の権力ではなく人民を抑圧するものであったことが明らかになった。

 それでも自分の学問に自信が持てればいいのだが,こちらも煮詰まっていた。社会主義体制の崩壊を見つつ,私がマルクス経済学に持っていたアイデンティティは,「資本主義は,人類史のある時期に出現し,ある時期に消える歴史的な存在だ」という見方であった。ここで辛うじて幸いだったのは「資本主義は悪い」をアイデンティティにしていたのではなかったことだ。東北大学は,戦前の宇野弘藏以来,マルクス経済学であっても純客観的に資本主義をとらえるという姿勢を持っている。私の師匠の金田重喜教授は率直に言って「資本主義は悪い」というタイプの人であったが(しかし私を大学院に置いて好き放題させてくださったので生涯の恩人である),経済原論を教わった平野厚生教授や柴田信也教授,そのまた師匠の田中菊次教授,世界経済論を学んだ村岡俊三教授は,純客観的に資本主義を分析するタイプの人であった。だから私にとって,近代経済学と異なるマルクス経済学の意義は,「資本主義は歴史的なものだ」であった。私はレーニンの『帝国主義論』を2冊買って大きなルーズリーフに糊で貼り付け,その周囲にノートを書き込むというアナログな手法で愛読したが,一番好きなフレーズは「古い資本主義は寿命が尽きた。新しい資本主義は何ものかへの過渡である」だった。

 しかし,歴史性を言うならば,何で歴史を区分するかが問題になる。金田教授は「独占資本主義」と「国家独占資本主義」で区分した。田中教授や村岡教授は,土地所有のありかたが資本主義の限界だとした(土地所有が資本の原理に包摂しきれないという考えだ)。経済史を学んだ安孫子麟教授は,自営農業・自営業などの小生産様式は市場原理だけではコントロールされないので別の原理(共同体,村落の様々な運営方法)が必要だと考え,その原理の作動の仕方で歴史を区分されていた。

 しかし,それだけではどうにも問題があった。1980年代以後,独占や寡占や国家独占よりも,激烈な国際競争が世界経済を特徴づけており,社会主義の崩壊以後はますますそうなりそうだったからだ。また,産業論の研究者なので,土地所有論にあまり依拠するわけにはいかなかった。また安孫子教授の理論では機械制大工業は市場原理で統治されることになっており,工業自体の中に時代区分論は見いだせなかったので,それにも依拠できなかった。

 1989年ころに辛うじて自分で見つけたのは,所有原理の正当性による時代区分であった。つまり「俺のものを俺が自由に使うのが社会的にも効率がよくてよいことなのだ」という,今風に言う財産権理論である。これがだんだんと成り立たなくなって,「企業の社会的責任」とか「ステークホルダーの利益」とかを認めざるを得ないことによって歴史を区分するのだ。私は駒澤大学の有井行夫教授の論文からこの発想を学び,バーリとミーンズの『近代株式会社と私有財産』(新しい訳では『現代株式会社と私有財産』)を解釈する論文を1本書いた。しかし,ほとんどすべての読者から「意味が分からない」と言われていた。

 そうして,何が何やらもうどうにもならず,ふらふらと喫茶店と古本屋をさまよっていたある日(当時存在したカフェバーとかディスコとかいうものは,どこにあるのかさえわからなかった),熊谷書店の地下1階である2冊セットの本を見かけた。

中村静治『技術論論争史』上・下,青木書店,1975年。

 技術とは労働手段の体系であり,生産力の発展度合いの指標であるという命題から産業の発展段階を区分するという,本書の着想は新鮮であった。考えてみれば,「生産力と生産関係の矛盾」論こそマルクス経済学のイロハ中のイロハであった。私は本書から,生産力の歴史的発展段階によって資本主義史を区分し,その具体的指標として技術の方式を使うという方法を学んだ。いまになってみれば生産力史は,生産関係を含む経済史と同一ではないのだが,それにしても生産力史が経済史を深部で規定するという発想は,マルクス経済学の良い側面を活かす道であると私には思えた。その上,私の専門である産業論を歴史的に論じるためにも,独占論のように産業組織で論じるだけでなく,技術の発展段階で時期区分することがリアルなように思えた。

 今にして思えば,この本も中村氏がやたらと人を罵倒する悪い癖があることもあって毀誉褒貶が激しいし,彼の晩年の著作はその側面がもっと肥大化してかなり訳が分からなくなっているのだが,彼の主張の理論的内容は,マルクス経済学の範囲においては正しいと今でも思っている。

 熊谷書店でこの本に出会って以来,私はようやく自分の産業論の書き方をつくっていけるようになった。私の鉄鋼業の論じ方は,この本によってある程度まともになった。そうして,何とかかんとか給料をもらえる研究者になったのである。だから,熊谷書店での出会いががなければ,私は鉄鋼業論の論文もかけず,路頭に迷い,のたれ死んでいただろうと言えるのである。

「東北大そば明治創業の古書店が閉店 古書街は残り1軒に」『朝日新聞デジタル』(すでにリンクぎれ)

NHKスペシャル『天安門・激動の40年~ソールズベリの中国』(1989年)のこと:中国現代史に触れたとき (2014/10/1)

(2018年11月21日注記。この記事は香港で学生たちによる雨傘運動が行われていた時に書いたものです)。

 祝・国慶節。しかし、今年の国慶節は、香港の深刻な情勢を無視して祝うことはできません。私は、世代のためもあるでしょうが、1989年の天安門事件を想起して緊張せざるを得ないからです。

 1989年、中国現代史について通りいっぺんの知識しか持たず、天安門事件をどう理解すべきかと迷っていたときに、強力な一撃を与えてくれたのが、NHKスペシャル『天安門・激動の40年~ソールズベリの中国』でした。この番組によって、中国現代史が経済改革をめぐる動揺と、強力な権力の簒奪闘争に彩られていることについての、それなりに秩序立てた理解を初めて持ち、またもっと理解しようという意思を初めて持ったのでした。印象的だったのは、番組の制作者ハリソン・ソールズベリ(Harrison Salisbury)が1949年10月1日の晴れ渡った空に代表される解放感と、1989年6月4日以後の閉塞感を対比していたことです。さきほど、この番組の書籍版ハリソン・ソールズベリー(三宅真理・NHK取材班訳)『天安門に立つ 新中国40年の軌跡』日本放送出版協会、1989年を書棚から引っ張り出して再確認してみました。

「1949年10月1日。喜びに浮き立つ民衆の前で、毛沢東が『中国は立ち上がった』と宣言したあの日、天安門の空はどこまでも青く晴れわたっていた。しかし中華人民共和国建国40周年に当たる今年、1989年10月1日の国慶節は、あの6月4日の事件のために暗雲たれこめる中で祝われることは確実となった。
 鄧小平が、文化大革命という、半ば狂気に侵された毛沢東の壮大な過ちによって中国の肩に課せられた重荷を取り除こうと、偉大な努力を重ねてきたことは事実である。しかし彼はその功績に自ら傷をつけたばかりか、中国の将来に重大な禍根を残すような新たな過ちまで犯してしまった。彼自身が全精力を傾けて真剣に取り組んできた中国の将来を、自らの手で台無しにしてしまったのである」(同上書、326頁)。

 偉大なプラグマチストであった鄧小平は、その後、南巡講話により政治の非改革と経済改革の断行を組み合わせることに成功し、経済面では暗雲を晴らして中国を高度成長に導きました。それは確かに偉大な成功でした。市場経済化によって途方もない数の中国人が生活水準を向上させました。しかし、この1989年の決断が尾を引いて、中国共産党・政府の民主化に対する抑圧的な態度を継続させていることも確かだと私は思います。政治改革などせずとも中国は経済成長できる、世界に伍していけるという態度を。その頑なさには絶望させられるばかりですが、自己決定権を奪われようとしている香港の市民・学生にとっては、絶望してる場合ではないのでしょう。願わくば、犠牲の少ない、民主化の前進につながる解決を。


2018年11月19日月曜日

日本共産党が「同一価値労働同一賃金」論を肯定したことを受けて (2014/10/24)

 日本共産党が女性差別解決に向けた長文の政策「女性への差別を解決し、男女が共に活躍できる社会を」を発表した。この中で,共産党は従来と異なる見解を一つ述べている。それは,私が「企業論」の講義で取り上げている論点とも絡んでいる。

 共産党は,今回,性別を利用とした差別の禁止,均等待遇,男女雇用機会均等法に「すべての間接差別の禁止」を明記することを主張している。ここまでは従来の同党の主張と同じであるが,次が異なる。

「まったく同じ職種でなくても,必要な知識・技能や経験,負担・責任などにもとづいて公正な評価を行えるよう,批准しているILO(国際労働機関)条約「同一価値労働・同一報酬」(100号)にもとづき実効ある是正をはかります」。

 これまで日本共産党は,「同一労働同一賃金」は主張しても,「同一価値労働同一賃金(報酬)」を主張することには否定的ないし警戒的であった。このことは,共産党中央委員会労働局のスタッフであった米沢幸悦氏による「女性差別賃金是正のたたかい-『同一価値労働同一賃金』 について-」 『労働運動』 No. 333,新日本出版社,1993 年 4 月号で明確に表明されていた。特にその際,職種の異なる労働の価値を横断的に絶対・相対評価することに否定的な見解が述べられていたのだ(※)。

 この経緯からすると,今回,日本共産党が,「同一価値労働・同一報酬」というILO条約の名前を挙げるだけでなく,「まったく同じ職種でなくても,必要な知識・技能や経験,負担・責任などにもとづいて公正な評価を行えるよう」にすることを主張し始めたことは,大きな政策転換と言える。

 社会運動論的に言えば,実際に性別賃金格差是正の運動に取り組んでいる人々の多くが「同一価値労働同一賃金」論を根拠にしているのであって,今回,共産党が従来の拒絶反応をあらため,現場の政策論に寄り添ったのだと考えられる。

 日本共産党の賃金論自体も検討課題ではあるが,それよりもここで提起しておきたいのは,誰であれ「同一価値労働同一賃金」論を主張した先に待ち構えているものだ。職種を超えた「同一価値労働・同一賃金」が理屈通りに実現できれば,「同じ価値の仕事をしているのに男女で賃金が異なる」ことはなくなる。しかし,この原則を理屈通りに徹底させれば,「同じ価値の仕事をしているのに年齢・勤続が異なるから賃金が異なる」こともなくなってしまう。つまり,「同一価値労働・同一賃金」は「年功賃金」と深刻な緊張関係にある(もちろん,現実の賃金体系の中では,年齢・勤続対応分と職務対応分が共存することがあり得るが)。つまり共産党であれ誰であれ,性別賃金格差に向き合おうとするならば,年功賃金とは何であり,それをどう見るべきかという問題にも同時に向き合うことが必要となるのだ。ここが考えどころで,私自身も,講義資料の作成にあたっても難儀したところだ。続きは別の機会に。

※米沢論文が引き起こした波紋と論争について,最近では以下の論文に紹介されている。
猿田正機「日本における『福祉国家』と労使関係」『中京経営研究』22巻1・2号,2013年3月。猿田『日本的労使関係と「福祉国家」』税務経理教会,2013年にも収録されているようだ(カタログ目次から判断。実物は未見)。
 なお,米沢氏がなぜ異種労働間の横断的評価に否定的であったかについては,それだけで長文になるためここでは触れられないが,日本共産党の伝統的な賃金観,過去に職務給反対闘争を行った経緯などと関係している。

「女性への差別を解決し、男女が共に活躍できる社会を――日本共産党は提案します」2014年10月21日、日本共産党。

加藤哲郎『日本の社会主義 原爆反対・原発推進の論理』岩波書店、2013年を読んで (2016/1/17)

 加藤哲郎『日本の社会主義 原爆反対・原発推進の論理』岩波書店、2013年。もともと「日本の社会主義」を論じるはずだったが、福島第一原発事故を受けて社会主義勢力の原子力観を中心に据える本に変更したようだ。
 この本の意義は、かつて、日本共産党も日本社会党も、原爆反対・原子力の平和利用賛成の立場に立っていたことを指摘して、その理由について史的検証が必要だと提起したことだ。若者にはびっくりだろうが、日本共産党が、現在存在する原発もすみやかに廃炉にすべきだと主張し始めたのは東日本大震災以後のことだ。それまでは、原発の増設反対、総点検、老朽化しているものから段階的に廃止という主張であった。また日本社会党のブレーンである有澤広巳氏は原子力発電の推進者であった。
 私は、1950-60年代のことは歴史としてしか知らないが、学生時代、つまり1980年代から1990年代初頭までの日本共産党の政策をよく覚えている。共産党は、核兵器については即時全面禁止を訴えており、当時このテーマでの運動に力を注いでいた。すでにソ連の核兵器についても批判的になっていた。一方、原発、すなわち原子力の平和利用については、「自主・民主・公開」の原則の下で適切に推進するという立場であった。現に存在する原発は技術的には未完成な技術であり、自民党政権や電力会社が上記3原則を守らないから新規立地に反対する、原発事故には厳重対処する、という方針であった。
 当時の共産党の特徴は、核兵器廃絶運動と原発の危険に反対する運動をまったく別個に行おうとしていたことである。共産党の影響が強い原水協では、核兵器廃絶運動のみを行い、反原発運動は行わないようにしていた。共産党が提唱して「非核の政府を求める会」をつくったときも、原発もテーマにせよという意見を退けて核兵器の保有や持込みのみをテーマとする運動に設定していた。
 そして共産党は、「現に存在する原発を直ちに廃炉にすべきだ」という市民運動とは一線を画していた。むしろ、これらの運動を「核と人類は共存できない」と主張するものだと決めつけ、それは「反科学主義」だとレッテルを張った。実際には、種々の運動のすべてが「核と人類は共存できない」といっていたわけではないし、それはそれなりに根拠があって行っていたので、反科学主義だというのも理屈に合っていなかった。現に、2016年現在では共産党も5-10年以内に現存する原発も廃炉という政策をとっているが、これはまさか反科学主義に基づくわけではないだろう。
 一方、社会党については、私にはあまり知識がないが、内部が現在の民主党のようにばらばらであったと思う。ラディカルな反原発の市民運動とも連携するグループもあれば、原発推進のグループもあって、まったく統一が取れていなかった。
 なぜこのようなことが起こったのか、それは社会主義の理論や思想とどのように関係していたのかは、確かに検証を要するテーマだ。
 しかし、執筆構想を途中で変更したせいか、加藤氏の分析は、どうも粗い。加藤氏の研究の命は実証にある。資料や証言から事実を再構成し、社会主義運動の建前の下で、実際には何が起こっていたかを明らかにすることにある。私は、氏のそのようなコミンテルン研究に強い影響を受けた(加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人―30年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』青木書店、1994年のこと)。ところが、本書では、著者が「原発に反対しないのはおかしい」と頭から決めつけているために、自分の主張を型紙にして「ほおら、原爆には反対していても原発には反対していませんでしたよね。それはダメ。社会主義オワタ」という議論の仕方になっているのではないか。肝心の、「原爆には即時廃絶で臨んだが、原発にはそうでなかった理由。その意味」の解明が弱いのだ。
 「鉄腕アトム」を読み返すまでもなく、原子力の平和利用に対する期待は、1950-60年代には日本社会全般に非常に強力なものだったと思う。共産党や社会党が原発に期待したのは、その日本社会全般を動かしたのと同じ力学によるものなのか、日本の社会主義の思想と運動に固有の問題点によるものなのか、本書ではよくわからない。
 そもそも社会科学的に考えた場合、核兵器と原子力発電は共通の面と異質な面がある。技術経営論で考えるならば、核兵器と原発が共通の原理、共通の問題点を持っていることは確かだし、相互の技術転用も可能だ。しかし、政治学や経済学で考えると、残虐兵器と、安全性に問題のある発電システムは、政治・経済システムにおける位置が異なっている。そのため、核兵器廃絶運動と反原発運動には、同一になる理由もあれば別々になる理由もあると私には思える。ここは、もっと立ち入った検討が必要なはずだ。

加藤哲郎『日本の社会主義 原爆反対・原発推進の論理』岩波書店、2013年。

泊次郎『プレートテクトニクスの拒絶と受容 戦後日本の地球科学史』東京大学出版会,2008年を読んで (2017/2/25)

 本書は以下のことを主張している。日本の地質学界では,プレートテクトニクス説(PT)の受容が欧米より10年以上遅れた。地球物理学界ではすぐに受け入れたのだが,国内でも地質学界ではとくに遅れた。それはなぜかという科学史上の疑問に取り組んだ本。著者によればその理由は,1)日本の地質学が,日本列島の地質発達史の解明に課題を集中して,グローバルな地質現象の解明に関心を示さなかったこと,2)1950-70年代に強い影響力を持った地学団体研究会(地団研)が,PTに批判的態度を取ったこと,3)東京大学の地質学教室の「佐川造山輪廻」説へのこだわりである。

 まったく門外漢の私がなぜこの本を読んだかというと,理由は2)にある。地団研のリーダーであった井尻正二氏の名前は私になじみがあったからだ。幼少の頃は自然史のマンガ『先祖をたずねて億万年』の原作者として,学生の頃は,『新版 科学論 上・下』(大月書店<国民文庫>,1977年)の著者として,大阪市立大学に就職してからは,一部の教員や院生の間で人気のあった哲学者見田石介と親しく弁証法を論じる自然科学者として。もう少ししてからは中村禎里『日本のルィセンコ論争』(みすず書房,1997年再版)に登場する,1950年の日本共産党科学技術部長として。

 井尻氏がリーダーであった地団研は戦後直後に発足し,一時民主主義科学者協会(民科)と合同していたこともった。つまり,研究団体でもあれば運動団体でもあった。泊氏によれば,地団研は戦後直後に研究体制の民主化のために大いに活躍したが,同時に独特の研究方法や学説を生み出した。その一つが日本列島の形成に関する「地向斜造山説」という学説であった。泊氏が指摘するのは,この「地向斜造山説」へのこだわりをもつ地団研の影響力故に,プレートテクトニクス説の受容が日本の地質学界では遅れたということである。これはまったく初めて知ったことであり,地団研の名前を聞いたことはあるが接触したことはない私は,驚きをもって本書を読んだ。

 むろん,私には専門外の学界の学説史について,詳細を評価する力がない。そこは専門家のご教示を賜りたい。ただ,科学史として本書を読むと,気になることがある。それは,地団研の影響力というものが,何によって担保されていたかということだ。学説自体が当初それなりの理論的・実証的説得力を持っていたという側面と,地団研の組織的な影響力によって維持されていたのかということだ。

 本書の特徴は,「地向斜造山説」の中に研究戦略や認識論上のこだわりとなるポイントがいくつかあり,そのこだわりが社会的背景と結びついていたことを示している。つまり,地団研に限らずある時期まで地質学界が日本列島形成史へ関心を集中させていたこと,ある時期までの日本社会全体におけるマルクス主義哲学の影響による「自己運動」,「歴史科学」,「機械論批判」への認識論的こだわりが通用しやすかったことなど,井尻氏や地団研の説が歴史的に存在根拠を持っていたことを示している。これらが研究の進展とともに徐々に覆されていく過程を丁寧に描いたのが本書の貢献のように,素人なりに思える。

 しかし,本書には,泊氏自身が最後に書かれているように未解決な課題もある。地団研の活動が具体的にはどのような組織運営を行い,学界活動や,大学での人事に影響力を行使していたのかを十分解明したとは言えないことだ。そのため,学説上の問題が研究者運動の論理によって処理されていくような事態がどこまで存在したのかが,もうひとつわからない。

 例えば,すぐに思いつくこととして,地団研が左翼的社会観を持っていたために,そのような社会観を持つ研究者を運動団体として結集しやすく,しかしいったん結集すると個人崇拝を含めた強固な組織であるため,会員の学説が一定の見解に固着してしまうようなこと,学問的説得力とは別に社会観擁護のためや組織防衛のために地向斜造山説の普及や擁護に回り,大学人事も賛同者で固めようとすることがどれほどあったのだろうか。学会誌や研究者のブログなどを中心に本書への評価をネットで検索すると,地団研の組織活動と井尻氏への服従はひどいものだったと批判する人もいれば,それほどではなく学問的論争の範囲だったとする人もいる。ここのところが解明されていないために,地質学界に関連する人々にも,本書にやや物足りなさが残るのだと思われる。

 もう一つ気になるのは,同じ井尻正二氏がもっと以前の1940-50年代に関与したルィセンコ論争との違いである。似ているというより,違っている点が気になる。

 ルィセンコ論争は,単純化してよいとすれば科学の政治勢力への従属問題であった。ルィセンコ論争においては,スターリン時代のソ連の権威が背景にあり,分裂状態でありながらともにその権威に従っていた日本共産党の存在があることで,ルィセンコの「獲得形質の遺伝」説の宣伝,遺伝子説への非難,ミチューリン農法の農民運動への持ち込みが正当化されていた。とくに1951年綱領の社会認識は,ミチューリン運動と結びつきやすかった。当時,日本共産党の科学技術部長であった井尻氏には,ルィセンコ論争への一定の責任があると言わねばならない。

 一方,本書を読む限り,1950-70年代の地団研の研究者の「地向斜造山説」へのこだわりは,政治勢力と結びついていたわけではない。確かに地団研は,井尻氏を初めとして左翼的な社会運動も行っていたし,井尻氏当人においては,その学説や研究スタイルは彼なりのマルクス主義解釈から導き出された部分があった。しかし,1950年ごろについてはわからないが,1960-70年代について言うならば,日本共産党が介入して地団研の学説を押し立てるというようなことはなかったように見える。むしろ,本書末尾の脚注において指摘されているように,日本共産党は1970年代に入るとプレートテクトニクス説を拒絶しなくなったという。私が記憶している1980年代以降になると,プレートテクトニクス説の著名な研究者である上田誠也氏は共産党と友好関係にあり,共産党の出版物でもプレートテクトニクス説が紹介されたりしていたと思う。この辺りの事情は分からない。ともあれ,地団研の「地向斜造山説」へのこだわりやその組織的影響力は,共産党の政治介入によるものではなく,地団研の研究者自身のものであった。

 だから大したことではないと言いたいのではない。結局,私が本書からくみ取った示唆はこうだ。普通,科学への政治介入というのは,国家権力であれ共産党であれ別の党派であれ,政治勢力が,政治的利害や政治思想に基づいて学説を捻じ曲げ,科学者や学界を従属させようとすることだと考えられる。それはそのとおりだし,実際にルィセンコ論争はそのようなものだった。しかし,実は,政治勢力が介入していないのに,学者の行動自体が政治化してしまうことがある。その行動は,国家権力や政治党派の虎の威を借りるが,主体は学者自身である。この場合,国家権力や政治党派を責めて,排除しても改まることはない。学者自身の学術活動のあり方が問われるのだ。

 井尻氏本人は,ある時期以後はおそらく共産党の権威を振りかざすことはやめたか,少なくともできなくなったのだろう。しかし,自らの学説を見直すことはなかったのではないか。今回,井尻氏の『科学論 上・下』を本棚から引っ張り出してみた。本書は学生時代の友人との思い出を呼び起こすこともあり,心を全く揺らさずに読み返すことは難しい。それでもめくってみると,今の私に影響を与えている点もある。分類的方法の意義と限界について,本書で初めて学んだのだった。私が企業の類型分析にこだわることの遠い背景は,この本にあるのかもしれない。しかし,さらにめくってみると,やはりネガティブな驚きも感じる。一つは,1977年に出された新版であるのに,ルィセンコの名前こそないものの,同時にワトソンとクリックの名前もなく,井尻氏がなお獲得形質の遺伝説を信奉していることだ。もう一つは,地向斜造山説を弁証法の例証とする旧稿が収録されていることだ。もちろん,プレートテクトニクスは出てこない。これを出版しつづけた大月書店もどうかと思うが,私が持っているのが1985年の6刷りであるから,それなりに売れ続けていたのであろう。そして,私も買って読み,一度は確かに感銘を受けたのだ。しかし,その頃,学界では地団研も拒絶を脱してプレートテクトニクスを受け入れつつあった。時代とのギャップは著者の井尻氏においてだけでなく,読者としての私においてもはなはだしかった。

泊次郎『プレートテクトニクスの拒絶と受容 戦後日本の地球科学史』東京大学出版会,2008年。

マルクス主義の中国化というテーマについて:研究会で発言せずに終わったコメント (2018/3/28)

 先日,日本国内で,中国のある名門大学の哲学院の先生の報告を拝聴する機会があった。それはマルクス主義の中国化に関する研究報告であり,端的に言えば,マルクス主義は国毎の諸条件に応じて民族化する。毛沢東は主観主義と教条主義を排して,マルクス主義を中国化した,『実践論』や『矛盾論』はその成果だとするものだった。そして,その後も中国化は順調に進展し,真理基準をめぐる討論,生産力標準をめぐる討論,「三つの有利」論が生まれ,習近平新時代特色社会主義思想になった,のだそうだ。

 あまりにもあんまりな内容にじっとしていられず,脳内から長らく使っていない「マルクス主義用語・言い回し辞典」を引っ張り出し,以下のようなメモを10分くらいかけて作成した。しかし,この研究会は通訳を交えたもので報告に時間がかかってしまい,討論時間がほとんどなくなったため,ややこしく長引きそうな発言はまずいかと思って,挙手しなかった。

「 私は経済学研究の観点から,先生が報告された,マルクス主義哲学の中国化における1978年を境とした変化について私見を述べたい。
 毛沢東は確かに主観主義と教条主義に反対し,「農村から都市を包囲する」など,中国革命のための独自の理論と戦術を発展させた。それは中国を日本帝国主義とそのほかの外国支配から解放するためには非常に有効だったと思う。
 しかし,毛沢東のマルクス主義は,階級闘争に過度に焦点をあてたものであり,新中国の経済建設においては十分貢献しなかったのではないか。とくに晩年,毛沢東自身が主観主義と教条主義に陥り,中国の現実に即した経済政策ができなかったのではないか。計画経済の停滞と文化大革命期の混乱はその結果であると思う。これは中国共産党が「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」(※1)で総括していることだ。
 だから1970年代後半において,鄧小平は,晩年の毛沢東と,それを取り巻いた人々の誤った考えを改めるために,大きなエネルギーを割かねばならなかった。「実事求是」は唯物論にとって本来当たり前の考えであるが,これを彼が強調しなければならなかったのは,それが守られていなかったからだ。また,「三つの有利」(※2)を強調しなければならなかったのは,当時中国の生産力,外交的立場,そしてもっとも肝心な人民の生活が損なわれ,社会主義建設ができているとは言えない状態にあったからだ。
 鄧小平は,状況を改善するために,あえてマルクス主義の原則からはみ出してさえいる。本来,マルクス主義は,生産力と生産関係の両面に注目するものであり,生産力さえ発展すればよいと考えることはないし,階級闘争を無視することはない。しかし,鄧小平は,多少の理論的逸脱に目をつむってでも,中国の社会・経済を発展させるためにあえて「三つの有利」を述べ,階級闘争を政策の中心から外したのだ。これは,中国の現実に対処するために必要だったプラグマティズムであったと私は理解している。
 ある社会の現実に即してマルクス主義を発展させるためには,教条主義と主観主義を排しなければならない。その通りだと思う。しかし,晩年に毛沢東自身がその誤りに陥り,それを乗り越えるために鄧小平は,創造的な哲学を開発しなければならなかった。この鄧小平の哲学こそが改革・開放の成功に道を開いた。私は1978年を境目とする中国のマルクス主義哲学の移行を,このように,円滑な発展ではなく,矛盾と葛藤に満ちた弁証法的発展だと理解している。」

※1。文化大革命を「指導者が誤って発動し,反革命集団に利用され,党,国家,各民族人民に大きな災難をもたらした内乱」と規定した。以下で原文が読める。
中国共産党新聞。
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/71380/71387/71588/4854598.html
※2。鄧小平の唱えた政策判断の基準。生産力の発展に有利かどうか、総合国力の発展に有利かどうか、人民の生活. 水準向上に有利かというもの。渡辺英雄『「和諧社会」の構築に挑む中国・胡錦濤政権 - 「四位一体」の調和論』日本国際問題研究所,2007年3月,6頁で説明されている。
http://www2.jiia.or.jp/pdf/resarch/h18_china/h18china-4_Chapter1.pdf

2018年11月13日火曜日

鈴木美潮『昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか』集英社,2015年を読んで (2015/6/28)

 鈴木美潮『昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか』集英社,2015年。

 私は1970年代から80年代前半にかけて小中高生の感性を特撮番組に直撃され,人格形成上の多大な影響を受けてしまったのであるが,どうも著者も同世代で,同じ出来事に見舞われたようだ。私のこだわりはウルトラシリーズ中心で,続いて東映ものになるのに対し,彼女は(著者は女性である)仮面ライダーをはじめとする東映ものへの傾倒が強いようだ。

 驚いたのは,中高生当時,私が,誰にも理解してもらえずに一人で空回り的に憤っていたこだわりを,著者もまた日本のどこかで持っていたということだ。

 例えば,著者は『電子戦隊デンジマン』放映当時(1979-80年),「脚本家・曽田博久の作品にはまった15歳の筆者は,感想の手紙を送り,以後,文通を続けていた」という。彼女が本書でとりあげているのは第18話「南海に咲くロマン」,第34話「悲しい捨て子の物語」,第46話「腹ペコ地獄X計画」であり,また後番組『太陽戦隊サンバルカン』第11話「哀しみのメカ少女」である。これらは,すべて私の当時のこだわりと一致する。

『ウルトラセブン』の「超兵器R1号」とか「ノンマルトの使者」のような(その筋では)メジャーな話ではない。それなら当時でもクラス35名のうち5名ほどは理解した。再放送されていて,雑誌『宇宙船』や『ファンタスティック・コレクション』などのムック本で取り上げられていたからだ。しかし,『デンジマン』は当時のリアルタイム放送であり,また今と異なり戦隊ものは幼稚とされていたため,周囲の理解を得ることは不可能であった。しかし,著者はこれらの作品を愛し,脚本家と文通までしていたのだ。私より重症な人もいたのだ。

 著者は,特撮への思いをどこまでも貫く。19歳で米国に留学し,ホームシックと課題図書の重圧に苦しむが,ある日,「仮面ライダーは,怪人に殺されるかもしれないのに戦っている。私は命をとられるわけではないのに,何を甘ったれたことを言っているんだろう」と「開眼」する。以後,1日十数時間机に向かうようになって学士と修士を獲得,望み通りに新聞記者となる。これこそ,特撮オタクの鏡である。私は,彼女を心から尊敬する。

日本が「汚染列島」と呼ばれていた頃:『ファイヤーマン』の思い出 (2017/10/12)

 『ファイヤーマン』のサントラCDが出ていたと知り,買った。番組はマイナーだがCDは2枚組という中高年向け商売。作曲は『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンレオ』も手掛けた冬木透先生。1973年に円谷プロダクション10周年記念番組として『ウルトラマンタロウ』『ジャンボーグA』とともに放映されたが,視聴率は伸びず,30話で終了した。

 『ファイヤーマン』の苦戦は『サザエさん』の裏番組というこの上なく無謀な放映時間によるところもあったが,特撮番組乱立の当時,ウルトラシリーズとの差別化が今一つ十分でなく,またコンセプトやシリーズ構成の甘さもあったと思う。

 とはいえ,初期は‌人間の自然破壊に対する自然の側からの反動から事件が起こるという問題意識に導かれており,防衛チームは科学者からなるSAFでありながら,科学文明の帰結にしばしば戸惑う姿を見せた。俳優の中では,とくに水島隊員役の岸田森がしぶかった。岸田が自ら脚本を書いた第12話「地球はロボットの墓場」がもっとも有名であるが,私は第5話「ジュラ紀へ落ちた少年」も好きだ。

 だが,やはり家族の圧力に負けて『サザエさん』にチャンネルが合わせてあったのか,子どものころに視たことはほとんど覚えていない。若者のために補足すると,当時はビデオなどないので裏番組は見ることができない。その後中学時代,早朝に『ファイヤーマン』をやっていると知り,無理やり早起きしてカセットテープで録音の準備をして視たものだ。主題歌がどこかで聞いた声だと思ったら「およげ!たいやきくん」の子門真人だった。もう一度若者のために補足すると録画ではなく録音である。再三再四補足すると,当時はビデオもネット配信もないので,1度見逃すと何年も見られなくなる。それでもウルトラシリーズなら5年ほど待てばまた再放送されるが,『ファイヤーマン』となるとそうはいかない,現に,この中学時代の後,25年ほど見られなかった。そのため音だけを繰り返し聞き,「ジュラ紀へ落ちた少年」の水島隊員のセリフを覚えた。このCDを買ったときにアマゾンビデオで番組もネットレンタルされていることを知り,また10年ぶりくらいに見て確かめたが,おおむね正しかった。

「これはもっともおそろしいことなんですが,あのオレンジ色の液体は,雨が運んできた大気汚染物質が,凝縮されてできたと思われるんです」。

「今もどこかで,あのオレンジ色の液体は,雨となって降り続いているかもしれないんだ」。

 ときは1973年。番組中で日本は「汚染列島」と呼ばれていた。

ファイヤーマン MUSIC COLLECTION(作曲:冬木透,歌・子門真人)

Kratke教授セミナー出席メモ:緊縮政策に反対するために(2015/11/5)

 このメモは2015年11月5日にFacebook登校したもの。ギリシア危機から,緊縮政策の問題点に気がつき始めた頃だ。一方で反緊縮政策,他方でリフレ論は適切でないという組み合わせの見地に私が達するまでは,もう少し時間がかかった(2018/11/13)。
ーー
 ランカスター大学からおいでの政治経済学者Michael R. Krätke教授のセミナーに出た。テーマはギリシア危機。ふだん関心を向けていなかったので,失業率25%,7年間で喪失した実質GDP25%というギリシア経済の状況の悪さに驚く。一般論で借金を返せというのはわかるが、これで緊縮政策だけ迫っても解決しないだろう。

 教授の意見では,「ユーロは中途半端なシステムだから危機が起こる」ということらしい。
・ヨーロッパ中央銀行はあっても,最後の貸し手と想定されていない。
・統一通貨はあっても,共通の預金保険制度はない。
・統一通貨はあっても,共通の財政移転制度はない。
・統一通貨はあっても,共通の包括的金融監督システムがない。
・共通市場政策はあっても,共通の金融・経済政策はない。
・EUの財政権限が弱い。

 したがって解決策は,ヨーロッパ中央銀行を強化し,かつインフレ退治だけに集中させるドイツ的発想ではなく,最後の貸し手機能を強化せよ,ユーロ・ボンドの発行を拡大して資金的基盤を強化せよということになるらしい。時間がなくてお尋ねできなかったが,おそらく財政政策も強化せよとおっしゃるのだろう。

Professor Michael R. Kraetke, Research Directory, Lancaster University


2018年11月10日土曜日

食品の放射能汚染の訴え方について思うこと (2013/10/16)

 食品の放射能汚染について様々な個人・団体が主張をされている。そこに書かれていることが正確かどうかが一番の問題であることは言うまでもない。だが,この頃,私が気になっているのは,情報の発信のされ方である。

 食品の放射能汚染に関するサイトを閲覧する住民の関心は「この食べ物は食べても大丈夫だろうか」「身近な食品が汚染されていないだろうか」「この地域に安心して住めるのだろうか」ということにある。その不安にこたえるかどうかが肝心なはずである。当たり前のことなのだが、まず確認してほしい。

 とすれば,「この食品は危険であり,このように食べ続けるとこのようなリスクがあるから,こうやって避けた方が良い。その根拠はかくかくしかじか」と提案しているサイトは,正しいかどうかは別として、住民のことを思って話を組み立てていることはわかる。あわせて「だから原発はなくすべきだ」という話になることもありうるだろう。また逆に,「この程度の放射能であれば気にするには及ばないので,食べても大丈夫である。その理由はかくかくしかじか」というサイトも,正しいかどうかは別として住民の安全を目的とした話であることはわかる。ついでに「原発廃止の必要はない」と書く人がいてもおかしくない。どちらの立場であっても,理由を説明して,汚染されているといわれる食品をどうするのがよいかを,閲覧者に提案しているからだ。

 いまここで問題にしたいのは、どちらが正しいかではない(このどちらかが正しいか以外に大切なことはないという方は、どうぞ閲覧をおやめください)。この二つと異なるメッセージを発信する個人・団体があるからだ。

 それは、ただ単に「これだけ汚染されているから危険だ!」「これだけ汚染されているのだから,それを過小評価する政府は嘘つきだ!」「だから原発をなくせ!」と「だけ」発信し、眼前の食品の汚染に対してどうしたらよいかを発信しないメッセージである。私は、コミュニケーションの仕方としては,こういうメッセージに強い懸念を持つ。系統的・意図的に発信しているメッセージ(団体のサイトなど)はもちろん、facebookでコメントしたりシェアしたりすることによって、無意識に集合的にこういうメッセージが形成されてしまうことについても、好感を持てない。

 なぜか。これが他の話題であれば,「これこれの理由で政府は嘘つきだ!」と主張するだけでも有意義なことはある。それによって,住民の政治行動に影響を与え,社会を変えようという,ごく通常の社会的行為として成り立つからだ。住民はメッセージを受けて冷静に考えた上で、行政への働きかけをしたり、選挙での投票行動を変えたり、自分の言動を変えたりすれば良い。

 しかし,繰り返しになるが,福島第一原発事故以来の食品の放射能汚染問題は,当該地域に住む多くの人にとってただちに「それでは食べない方が良いだろうか」「身近な食べ物が危険な状態でどうしたらよいだろう。ここに住んでいてよいのか」という,強い不安を伴った選択の問題に直結してくる。サイトを見たり、テレビを見たりする人は、こういう不安を何とかしてほしいのだ。

 この不安を持っているところに,「政府は嘘つきだ!」「原発に反対しよう」という主張だけをたたきつけられても,問題の答えにはならない。むしろ,政府の虚偽と原発の危険を強調されればされるほど,自らの食生活や居住についての不安が増幅するおそれすらある。「いま店で売っている牛乳やきのこを食べてよいかどうかわからないと不安でしょうがない」という人に「政府はうそつきだ!怪しからん!」と「だけ」たたきこんだら、ますます不安になるだろう。

 一般に、政府に対して批判的な運動は,社会に普及している支配的な見解を疑い,その虚構を覆すというスタイルに慣れている。ときによってはそれでよい。主観的には、各自が落ち着いて判断し、次の社会行動に移れるような状態ならば。客観的には、目の前のことから緊急避難することができないので、機会を見て社会的に行動するのが適切な事項ならば。たとえば、有権者が、TPPや消費税についての主張に触れて、賛成なり反対なりしている政治家を選挙で当選ないし落選させようと行動する、というような場合はこれでいい。

 しかし,大震災以来の放射能汚染に不安を持つ人に対して働きかけをする場合、こういうスタイルでは不十分ないし場合によっては不適切ではないのではないか。主観に即して言えば、不安を持っている人には,相談に乗る,不安を和らげる,落ち着いて考える力を呼び戻す,という姿勢で臨まないと,コミュニケーションは成立しないのではないか。また客観的にいうと、消費税やTPPと異なり、「いま目の前にある牛乳やキノコをどうしようか」というように非常に短期の、目前の問題であるから、それに即したメッセージでなければ意味がないのではないか。

 私は,自分が震災発生後に感じた不安とのたたかいの記憶からも,こういう思いを禁じ得ない。私はもともと反原発派であり、いまもそうである(安全かつ安価という見解に納得すればいつでも転向するが)。しかし、震災発生後1カ月に必要だったことは、現時点でとりあえず放射線被ばくがどのくらいに達していて、自分や、家族や、学生が、ここで生活を営み続けられるかどうかであった。もちろん、それに関する情報がいい加減であったり、隠されていたり(SPEEDIのように)すれば怒ったが、政府に対して怒ることが主眼ではなかったし、学生に発信すべき主要な点は「授業を再開してもよいかどうか」であり、「政府の見解には問題がある」ということではなかった(授業再開の判断材料について政府がおかしなことを言えば、それはもちろん指摘した)。

 反原発派だからこそ、訴え方には注意すべきだと思うのだ。この問題は,安全を主張する側には生じにくく,危険を主張する側の方に生じやすいからだ。

 食品の放射能汚染の危険性を訴える方々には、よく考えてほしい。住民の健康維持・改善が目的であれば、「政府は本当のことを言っているか」「この食べ物は危険かどうか」だけを論じるのでは不十分か,ときと場合によっては逆効果になりかねないのではないか。「食べない方が良いだろうか。どうしよう」という疑問と不安に応えるような,客観的根拠を持ち、また当事者が心を落ち着けて受け取れるようなアドバイスをするようにしてほしいと思うのだ。

 もしも,「そんなことは関係ない。自分はただ安全に関する間違いと嘘を暴くことに集中するのだ」とおっしゃる個人・団体がいるとしたら,私は信頼できない。また,そういう訴え方は,仮に事実を言ったとしても,副作用が非常に強い、つまり住民の安全な生活とは別の、予期せぬ方向に人を動かすのではないかと、懸念せざるを得ないのである。

 非常にデリケートな問題への試論なので,思い込みや誤りもあるかもしれません。コメントをいただきながら考え直していきたいと思います。

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「同一労働同一賃金」を推進するには「職務給」を拡大することが必要 (2016/4/12)

 『日経新聞』の安藤至大氏による同一労働同一賃金の解説に,romuyaさんがコメントしているものです。元の記事は有料会員限定なのでこちらをシェア。全部賛成ではありませんが,問題の所在をよく教えてくれるという意味で有益です。
 私の意見では,同一労働同一賃金と言うのは,つまり「仕事」をできるだけ客観的に定義して,その「同一の仕事」をする「同一の労働」なのだから同一賃金だという風にしか,考えようがありません。ですから,職務給でないと厳密には実施できないと見るべきです。
 これを無理くり否定しようとする左右問わず人が多いので困ります。
 年功賃金は,ほんとうに年齢や勤続に対して払っているのであれば,「同一労働同一賃金」になるはずがない。「同一勤続年数同一賃金」にしかなりません。また,ぼんやりとした潜在能力に対して払っているのだとしても,それはどんな仕事をしているかとは関係ないわけだから,「同一労働同一賃金」になるはずがない。「同一能力同一賃金」にしかなりません。「同一能力」ならよいではないかと言う人がいるかもしれませんが,その「能力」がぼんやりとした測定困難なものであるから問題なのであり,このぼんやりした「能力」で現在の賃金の男女差や正規・非正規の差は到底正当化できません。
 もう少し実態に即した議論として,「一見同一労働でも,転勤や配置転換があるかどうか,残業要請に応じるかどうかで違ってくる」から,同一労働同一賃金を固く考えなくてもよいという主張があります。しかし,転勤や配置転換に「人」の側が応じるかどうかは,いまやっている「仕事」=労働の問題ではありません。「職務・勤務地限定の契約」の人がやっているのか,「無限定で会社命令に応じる契約」の人がやっているのかの問題であり,それによって労務管理する側が便利かどうかという問題です。これをあえて「能力」と言いたいならば,「命じられた仕事や勤務地を幅広く受け入れて対処する能力」となるでしょうが,もうそうなると「どんな仕事か」と関係なくなります。この議論は,「どんな仕事か」の境目を客観的に測定せずに,「何でもできる人を確保したい」と言う,従来の日本の労務管理の問題点を引きずっています。
 同一労働同一賃金に持っていくには,職務給が必要です。実は,日本でも職務給は広がっています。「えっ?」とお思いの方もいるでしょうが,実は非正規雇用は「○○の仕事でいくら」となっている場合が正規より多く,雑な形ではあっても職務給なのです。つまり,非正規の間だけに適用される,正規との間に構造的に格差がついている職務給です。これは広がっている。ただ,日本で正規雇用の労働者を今すぐ全面職務給に移行するのは難しいでしょう。
 ならば,「同一労働同一賃金」の推進論は,実際のところ何をめざせばよいか。これまでもある程度行われているように,賃金体系(種々の種類の給与・手当からなる賃金の構成)の一部に,仕事は仕事としてきっちり測定した,職務に基づく「同一労働同一賃金」の部分を設定すればよいのです。これは正規も非正規も同じ物差しで測らねばなりません。その上で,「職務・勤務地限定の契約」か「無限定で会社命令に応じる契約」かの違いについて,後者にプレミアムをつけます。一方で,漠然と,何に基づいているのかわからない「基本給」や,ぼんやりとした能力による「職能給」はやめ,「年齢給」「勤続給」も縮小します。男女差別は論外。
 どこまでは労使自治,どこまでは規制によって行えるかは相当な議論が必要です。しかし,10年後くらいをめどに,このような着地点をめざすのは,何とか実施可能ではないかと私は思っています。

「安藤至大先生の同一労働同一賃金解説」労務屋ブログ,2016年4月11日。

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メンバーシップ型の正社員とジョブ型の非正規を均衡待遇することの難しさ (2017/9/14)

 「「無期雇用へ転換、企業の覚悟問う」 東大の水町教授」『日本経済新聞』2017年9月13日。
 うーん。この問題の関連する審議会報告書などを読んでいないので断定はできないが,水町教授が何を理論的基準にして非正規の待遇を改善しようとしているのかが,よくわからない。推測するに,彼が以前から主張する「均衡待遇」論ではないかと思う。つまり,正規と非正規について,責任の重さなどで合理的な格差は認めながらも,賃金の決め方は一緒にしていく,というものだ。だから非正規も無期転換し,昇給させ,人材育成もし,格差を縮めるべきだと主張されている。この昇給とは,正規と同じ定期昇給のことであろうか。
 私は水町教授が東北大学においでだったころ組合役員をしていた。均衡待遇論を勝手に参考にして正規職員とパートの賃金表を同じものにせよと言ったこともある。ただし,教授と直接お話したのは1,2回であり,それも組合の話ではなかった。
 だが,いまになってみると非正規と正規では根本的に賃金形態が違っていることを考慮しなければならないように思う。
 正社員は多くの場合,新規学卒採用で職務を定められずに「入社」する。会社に入るのであって,特定の仕事に就くのではない。給料は職能資格制度に基づく社内資格給であり,能力に基づく支払いである。しかし,職務設計があいまいな日本企業ではその「能力」の基準があいまいになり,会社の要求にこたえて「なんでも柔軟にこなす」あいまいな能力が評価される。その上,少なからぬ場合,年功的に運用される。
 正社員は,会社の都合によって配置転換や転勤を命じられるし,時には出向さえ命じられる。それにはまず抗命できない。そのかわり,ある職務が会社の事業再編で消滅した場合,会社は別の仕事を当該社員にあてがう。これは労働政策研究・研修機構(JILPT)の濱口桂一郎氏が言うように,仕事に就いているジョブ型契約ではなく,会社に入るメンバーシップ型契約になっているからである。
 一方,非正規は多くの場合,職務を定められて雇われる。レジ係,時給いくらという具合である。給料は水準は低いが,形としては職務給であり,仕事に基づく支払いである。
 非正規は,配置転換や転勤や出向を命じられることは少ない。そのかわり,職務自体が事業再編で消滅した場合,解雇となることが多い。スーパーの店舗閉鎖でレジが消滅すればレジ係は解雇である。これはジョブ型契約になっているからであり,何もおかしくない。
 このように,正社員と原理が異なり,事実上の権利・義務の境界線が異なる非正規を,5年経過したところで無期雇用にした場合,どうなるか。
 正社員と類似した扱いで昇給させるというならば,雇う側としては,メンバーシップ型契約への移行をはかりたくなるはずである。つまり,曖昧な職務設計でも周囲と協力して目標のために粉骨砕身努力してくれて(残業もしてくれて),配置転換や転換にも応じてくれるようにしたくなる。それができない人を正社員のように昇給させられない。しかし,メンバーシップ型契約だと日本では解雇は難しいので,数を少数に絞りたくなる。そうすると,5年経過したら希望者は全員無期転換というのがコスト的に辛いので(もともとコストを下げたいから非正規を増やしたのだ),これを何とか逃れようと手練手管を尽くすことになってしまう。
 雇われる側としても,無期になって雇用が安定するのはいいとして,配置転換や転勤を一方的に命じられるようになるのは困る。もともと,家庭の事情でパート勤務にせざるを得ず,特定の場所でなければ働けないという人もいるからだ。急に仕事の中身を変えられても対応できない場合がある。
 このように考えると,パート労働法制定時に主張された「均衡処遇」論=処遇の基準の統一論で非正規の無期転換を進めようとするのは無理があると,私は思うのである。
 合理的な方向は,非正規のジョブ型契約をジョブ型契約のままにして無期転換することであると思う。配置転換や転勤はない。仕事に即して給料が決まるのであり,年齢は関係ない。昇給はさほどない。しかし,無期契約になるので雇用は安定する。ただし,職務自体が消滅した場合は解雇されるのである。これならば,企業にとって過重な負担とはならず,非正規労働者にとっては雇用が安定する。したがって,あまり無理なく,多くの非正規を無期契約に転換できるだろう。
 この方法の問題は,正社員と,無期転換した非正規とでは,賃金の決定原理が異なるために,「どのくらいの格差ならば合理的か」を定めることが難しいということである。そのため,賃金単価を引き上げることにはつながりにくい。
 また,企業側は「仕事自体が消滅したら無期契約社員を解雇」し,労働側はそれが普通であることを受け入れる,という,従来なかった慣行への飛躍が必要となる。正直,左右を問わずこれが難しいのではないかと思う。
 しかし,「均衡処遇」論では,少数しか無期転換したくない企業側と,全員を正社員に近づけよという労働側は衝突し,制度自体が行き詰まるのではないか。それよりは,「ジョブ型契約のまま無期転換」の方が合理的で実行可能だというのが私の見解である。

2017/9/14 facebook
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2018/11/9 表現を修正。

「「無期雇用へ転換、企業の覚悟問う」 東大の水町教授」『日本経済新聞』2017年9月13日。しょ

2018年11月9日金曜日

加藤哲郎『ゾルゲ事件 覆された神話』平凡社新書,2014年を読んで (2016/1/1)

 加藤哲郎『ゾルゲ事件 覆された神話』平凡社新書,2014年。シンプルなタイトルになっているが,概説書ではなく,ゾルゲ事件をある程度知っている人向けの本。

 とくに,1)「伊藤律の供述が元になって東京ゾルゲ団の活動が日本の警察に発覚した」(伊藤律端緒説)という長年の通説を覆すとともに,2)事件の本当の端緒を明らかにすること,3)「上海ゾルゲ団」の活動を含めて,当時の国際的な情報戦の解明を前進させることが主眼となっている。その要点をまとめると,以下の通り。

 1)渡部富哉『偽りの烙印』五月書房,1993年が明らかにしたように,伊藤律端緒説はまったく事実と異なる。これは事件当時においては,実際に存在したゾルゲの工作をもとに,さらに他の事件をでっちあげるための,また自らの諜報工作を隠すための特高警察の筋書きづくりの一部であった。また戦後においては,もともとは作家アグネス・スメドレーと中国共産党の関係を明らかにしてレッド・パージに用いようとする占領軍G2の謀略に端を発していた。ところが,そこでGHQの協力者となった,ゾルゲ事件被告の一人川合貞吉が,当時日本共産党の幹部となっていた伊藤律追い落としにこの動きを利用した。さらに,50年問題のさなかにあった日本共産党内部の党内闘争において,野坂参三らによって伊藤律追い落としの口実として利用された。

 2)伊藤律端緒説が誤りならば,特高警察はどのようにして北林トモ,宮城与徳に目をつけて検挙し,そこから尾崎秀実,ゾルゲの逮捕へと進むことができたのか。それは,1930年代から日本政府が進めてきた,アメリカ共産党日本人部に関する情報収集によって,北林と宮城の名前も名簿によってつかまれていたからだった。
 情報収集が名簿作成に及ぶきっかけになったのは,鬼頭銀一というアメリカ共産党員の日本人が,治安維持法被疑者の逃亡を助けたとのことで1931年に逮捕された時の供述であった。鬼頭の供述には,末端党員の北林や宮城の名前はなかったが,名簿作成が進展するうちに,1933年以後は氏名がつかまれるようになった。

 3)鬼頭は,実は上海で活動していた1930年に,尾崎をゾルゲに紹介した本人であった。そして,釈放後,神戸でゴム販売業を営むようになってから,尾崎と再会していた。それは,尾崎の側の情報ネットワークづくりであったと思われる。鬼頭が,釈放後もコミンテルンに協力する活動をしていたかどうかは不明。鬼頭は後にペリリュー島で店を構えたが,1938年,出入りしていた男に進められたあずきの缶詰を食べた直後に苦悶して死亡。真相は不明。
 鬼頭の存在がゾルゲ事件関係文書で希薄なのは,逮捕されたゾルゲが上海での活動を隠すために,鬼頭との関係について,極力薄めた供述をしたからだった。鬼頭も,逮捕されたのは上海ゾルゲ団と関係ない事件についてであったし,アメリカ共産党日本人党員10数名のことは供述したが,上海ゾルゲ団についてはしゃべらなかった。このため,上海ゾルゲ団の活動や,コミンテルンがアメリカ共産党日本人部を通して行っていた諜報活動の重要な一部分が,これまで謎のままになっていた。

 伊藤律端緒説の崩壊自体は渡部氏の本で証明されているが,本書の貢献は,戦後も進歩的立場を装っていた川合貞吉が,GHQ協力者として伊藤律端緒説の作成と普及に関わっていたことを明らかにしたことだ。また,鬼頭銀一の生涯と活動に関する解明と,ゾルゲ事件発覚の真の端緒の解明も,本書の貢献だ。

 私は,伊藤律本人が中国での軟禁状態を解かれて帰国した時に高校生であったが,彼が何者であるか全く知らなかった。その後,松本清張『日本の黒い霧』と日本共産党の公式見解によって伊藤律端緒説を知り,その時は,たぶんそのとおりなのだろうなと思い込んでいた。しかし,渡部『偽りの烙印』を読んで,それが誤りであることを確証した。その後,この話題からしばらく遠ざかっていたのだが,本書を読んで,研究が順調に進んでいることがわかった。

 本書を読むと,「ソ連から日本を守ること」が正しかったとも,「革命闘争を遂行すること」が正しかったとも到底思えない。この事件から現代的教訓を引き出そうとする際に,日本を守る機密保持体制や対敵諜報活動を強化せよというのはまったくの矮小化だ。情報戦とはからみあう謀略の中に個人が翻弄され,その人生を狂わせるものだ。それは,国家が存在する限り不可避であろうが,なるべくその害を減らさなければならない。それこそが最大の教訓だ。私は,結論部における加藤氏の以下の記述に同意する。

「責任を問われるべきものがあるとすれば,自分たちの活動を世界の変革と戦争阻止のためと信じた人々を歯車として展開された,ソ連やコミンテルンの秘密の諜報活動の全体であり,それに対抗する『防諜』という口実でなされた,日本の特高警察・憲兵隊,米国占領軍G2・キャノン機関,CIAその他の謀略や拷問を含む言論思想弾圧の諜報戦であった。そこから現代の情報戦が学びうるものがあるとすれば,それは知る権利,言論・思想の自由と情報公開の必要性,公文書の作成・保管と歴史資料の収集・保全の重要性であろう」(241頁)。

加藤哲郎[2014]『ゾルゲ事件 覆された神話』平凡社新書。

われわれの平和を保つ力はゴルゴ13に及ばないのか:「潮流激(たぎ)る南沙 -G資金異聞-」によせて (2017/11/27)

 なぜ,さいとう・たかを先生が「マンガ郷いわて特別賞」を受賞されたか(『河北新報』2017年11月26日)。それは,奥様の出身地の花巻市にも居宅を構えているほかに,「「ゴルゴ13」には岩手県出身の商社マンを度々登場させている」からだ。この商社マンが登場するエピソードには,私は強烈な思い出がある。

 この商社マンの名は藤堂伍一。第176話(1981年9月)「穀物戦争 蟷螂の斧」,第180話「穀物戦争 蟷螂の斧 汚れた金」,そして増刊第39話「潮流激(たぎ)る南沙 -G資金異聞-」(1994年9月)に登場する。最初のエピソードでは藤堂は日本の商社マンとして穀物取引でメジャーに挑戦してゴルゴのために敗れ,2番目のエピソードでは一匹狼の相場師として,ゴルゴの力を借りながらメジャーに復讐を果たす。だが,私が2000年ごろに最初に遭遇したのは3番目のエピソード「潮流激る南沙」であった。

(注意!以下,エピソードの内容を明かします)

 1990年代前半の東京。商社を引退し,岩手県で自分の理想とする農業のために支援活動を続ける藤堂は,ある日かつての上司に呼び出される。上司が告げたのは,南沙諸島の油田開発をめぐる中国,台湾,フィリピン,マレーシア,ベトナム,ブルネイの角逐が激化している背後に「1997年までに領有権を確立したものに200億ドルの開発資金が提供される。それがG資金=ゴルゴ13の資金だ」という情報であった。上司は,藤堂からかつて接触のあったゴルゴ13にこのことを伝えさせ,その反応を見て自らの動きを決めたいという。日本が石油・穀物メジャーに甘い汁を吸われてきたことに忸怩たる思いを抱く藤堂は,世界のバランスマップを塗り替えるゴルゴの力に魅せられてこれを了承。岩手の農村部までやってきたゴルゴと,深夜,バンの前後部座席をはさんで面会する。ゴルゴは「1997年。香港」とつぶやく。驚愕する藤堂。「そ,そうか!よくできた話だ」。香港が返還されれば開発資金では圧倒的に中国が有利になる。しかし,それ以前にG資金が供与されれば対抗できる。台湾やアセアン諸国は,そのために領有権確保に血眼になっていたのだ。

 しかし,ゴルゴは政治紛争などにかかわらない。これは偽情報であった。ゴルゴは偽情報の発信源がインドネシアに拠点を構えるユダヤ系武器取引資本であることを突き止める。彼らは,国際紛争解決の手段としてのゴルゴ13の存在を公にすることにより,その活動を停止させ,かわって自らの商品としての武器を拡販することを狙っていたのだ。武器取引資本の黒幕は射殺される。そして,国連に「すべてを捨てし者」から「200億ドルの資金を環境保護に寄付する」という連絡が,各国首脳には「G資金は国連に寄付され,消滅した」との連絡が入る。冬の寒い朝,藤堂は岩手県の自宅の縁側で,新聞報道と自分宛の1億円の謝金の振込通知により,ゴルゴがすべてを捨てることによって自分の生き方を守ったことを知る。そして,各国は紛争の矛先を収め,共同開発に向かおうとしていた。

 ヨーロッパのどこかの街を,霧の中に去ってゆくゴルゴ。シリーズの最終話かと思わせるようなラストであった。

 私が強い印象を受けたのは,当時,現実の世界においてJICAのベトナム市場経済化支援プロジェクトに関与し,その中でベトナムやアセアン諸国が,それぞれの軍事力の弱さや市場の小ささを乗り越えようと体制を越えて団結していたこと,それぞれの産業基盤の弱さと体制の相違にもかかわらず,平和と市場開放を唱えて世界に打って出ていたことを,プロジェクトの中で感じ取っていたからだ。アセアン諸国は,もはや大国にふりまわされる存在ではなく,主体であった。軍事的に弱体であればこそ,平和と開放を自らを強くする原理にしようとしていた。私は,2000年にもなって,初めてそのことに気がついたのだ。

 まさにその時,このエピソードを読んだ。それまで「ゴルゴ13」では,アメリカ,旧ソ連諸国,西欧諸国,中国,日本が権謀術数を繰り広げることは普通であったが,アセアン諸国が,それも複数で,自らの経済開発のために国際的駆け引きの主体となったのは,これがはじめてだったと思う。アセアン諸国の立ち上がりは,フィクションの世界にも及んでいる。そして,東北の片隅からもその動きと連なることはできる。私は当時,このエピソードをそのように解釈して,力づけられたのだ。

 あれから17年が過ぎた。あの時,おそるべき国際テロ請負人でありスナイパーであるゴルゴ13が存在するフィクションの世界において,彼が自分の生き方を守ったことにより,--ただそれだけで--南シナ海には平和が訪れた。彼ほどの恐るべきテロ請負人は,現実にはおそらくはいないであろう。ならば,フィクションの世界よりもこの現実の方が平和なはずである。なのに,その現実において,われわれは南沙(スプラトリー)諸島の紛争を,またその近辺の領土紛争をも平和的に解決できていない。われわれの力は,空想上の1人の孤高のスナイパーにも如かないのであろうか?そうは思いたくない。私は今,このエピソードをこのように解釈する。

収録先。

SPコミックス108巻(本)。
https://www.amazon.co.jp/dp/4845801086

SPコミックス108巻(Kindle)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00BTRMP6A/

POCKET EDITION
https://www.amazon.co.jp/dp/4845843439

「<マンガ郷いわて特別賞>さいとうさん「東北に憧れ」 盛岡で表彰式」『河北新報』2017年11月26日。
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201711/20171126_35038.html

2017/11/27 Facebook
2017/12/18 Google+

ハイマー『多国籍企業論』における「優位性」と「比較優位」の統一的理解 (2017/12/12)

 大学院講義。受講者2名。先週と今週はスティーブン・ハイマー『多国籍企業論』。謎の多いこのテキストだが,この11年の間に7回も講義して,ようやく理解がまとまった。
 先週は,ハイマーが示しているモデルについて,ハイマー本人が意識しているように寡占論的に,さらに後期ハイマーのように意思決定のヒエラルキー論として理解した場合と,取引費用論的に理解した場合とでインプリケーションが異なって来ることが整理できた。
 今週は,長い間二律背反ではないかと思っていた企業単位の「優位性」論と比較生産費の「比較優位」について,統一解釈が可能だという見地に達した。企業に帰属する物的・技術的優位性と産業・企業に二重に帰属する価値の創出・取得上の比較優位は,互いに影響を与えながらも原理の異なる二重の存在と把握できる……って,あれだけ考えたあげく,「生産力と生産関係」「使用価値と価値」みたいな結論に!
 いま全然時間がないが,いちど研究ノートか何かにしておきたい。しかし,20年早くこの理解に達して,2人の師匠のどちらかの退官記念号に書くべきだった。本当に,亀のような速度でしか学んでいないのだ。


2017/12/12 Facebook
2017/12/18 Google+





2018年11月8日木曜日

科研費に介入する自民党と、それを煽る『産経』 (2017/12/19)

「徴用工をめぐる韓国側の主張に同調する研究者らに文科省などが助成金を交付していたことを伝えた産経新聞の報道(13日付朝刊)を受け、党文部科学部会は14日、文科省幹部を呼び説明を受けた。珍しく迅速な動きを見せたが、今後も激化する歴史戦に対応できるかは見通せない」(『産経ニュース』2017年12月14日)。この助成金とは科研費のことだ。『産経』は、政府の方針に疑問を呈する研究には科研費を交付するなと言いたいのだ。

 ことは重大だ。学問は特定国家の特定の時期の政権の都合のためにあるのではない。研究の結果,日本で安倍政権に都合の悪い結果が出ようと,アメリカでトランプ政権に都合の悪い結果が出ようと,中国で習近平政権に都合の悪い結果が出ようと,ロシアでプーチン政権に都合の悪い結果が出ようと,北朝鮮で金正恩政権に都合の悪い結果が出ようと,韓国で文在寅政権に都合の悪い結果が出ようと,学問の問題は,真実であるかどうか,それだけだ。そして,真実でないとしても,それも学問的批判によって証明されねばならず,弾圧や兵糧攻めで追い込まれてはならない。
 なぜか。国家は,政権に反対するものを含めた学問の自由を守り,言論や表現の自由を守らない限り,自由で民主的な社会の外枠となることはできないからだ。国家が真実を独占的に解釈しようとすれば,その社会はもはや自由でも民主的でもないからだ。国家は社会の外に立って社会を絞め殺す機構になってしまう。

 自由民主党の名称が示す「自由」と「民主」とは何か。自民党はどういう日本国家をつくりたいのか。『産経』は,研究者と大学に,学問の自由を捨てて特定政権の一時の,特定の主張に身をゆだねて宣伝部隊になれというのか。


「13日付け朝刊」の報道とはこれだ。東大の外村大教授,京大の水野直樹教授,立命館大の庵逧准教授の研究が科研費を獲得したことを「反日」の動きとみなしている。
「【歴史戦・第19部 結託する反日(中)】「徴用工」に注がれる科研費 前文部科学事務次官の前川喜平氏は韓国と同調」『産経ニュース』2017年12月13日。
http://www.sankei.com/world/news/171213/wor1712130007-n1.html

「自民党、目立つ鈍感ぶり 安倍晋三首相『サンフランシスコは失敗だった…』」『産経ニュース』2017年12月14日。
http://www.sankei.com/politics/news/171214/plt1712140031-n3.html

2017/12/19 Facebook
2017/12/28 Google+

石井寛治『資本主義日本の歴史構造』東京大学出版会,2015年を読んで (2017/12/22)

 石井寛治『資本主義日本の歴史構造』東京大学出版会,2015年。日本経済の講義を考える前提的な知識として読んだ。壮大にして時に徹底して細部に渉る碩学に対して,専門的なことはとてもコメントできない。読むべき関連文献で読んでいないものが多すぎるからだ。ここでは,あえて純学問的な問題から外れ,本書で石井教授が繰り返し述べる「個別的価値から普遍的価値へ」という見地からの危惧に触れたい。

「冷戦後の20世紀末以降の世界は,アメリカを中心とする資本主義側では倫理的規範を全く欠いた市場原理主義的な新自由主義が支配的潮流となって世界経済を攪乱しており,旧社会主義側はロシアも中国も市場経済化の生み出す国内格差への配慮を欠く分だけ対外緊張を創り出して国民統合を図っている。このままでは,双方の理念なき膨張を目指す攻撃的ナショナリズムの暴走は止まるところを知らないであろう。最近の自民党政府が「日本を取り戻そう」と訴えている憲法改定の路線は,天皇を「元首」とし戦争放棄をやめることを中身とするものであるが,天皇家という個別的価値に再びしがみついて歩むことになれば,その「日本」の進路は,西暦紀元前の血縁共同体段階の世界へと向かうものであり,日本人が動物的段階に近い野蛮な社会結合と国際対立に戻ることを意味している。」(346-347頁)。

 個々の情勢判断が妥当かどうか,2017年末現在では少し違うところもあるのではないかということが問題なのではない。先進国と新興国大国の一つ一つが力と力のぶつかり合いを辞さず,それを堂々と正当化する状況に対して,石井教授は警告を発しているのだ。「自分の国だから偉い」というのは,アメリカであれ日本であれ中国であれロシアであれ北朝鮮であれ韓国であれ,誰がやるのであれ手前勝手に過ぎない。それぞれが相手の政策や社会や歴史観にはごうごうたる非難をあびせ,自国自慢は歯止めなく行ったらどうなるのか。これが石井教授の言う「個別的価値」であり,そこに身をゆだねるのは動物的段階の精神だということだろう。動物的段階の精神が核をはじめとするハイテク兵器と結びついた時に何が生じるのかが問題だ。

 石井教授が言うから迫力があるのであって、お前はそんな法螺を吹く前にさっさと講義の準備をしろという批判は,甘んじて受けたい。

2017年12月22日facebook投稿。

https://www.amazon.co.jp/dp/4130402706

2017/12/22 Facebook
2017/12/28 Google+

博士論文の性格と,その執筆に必要な時間を考える (2018/1/22)

 博士論文審査を終えたどこかの院生の匿名ダイアリーによせて,博士論文の性格と,その執筆に必要な時間を考える。

 まず私がこの方に何かを言うとすれば,「審査委員はあなたの博士論文が学位に値する一つの研究として成り立っていると認めたのだから,今はそこに胸を張ってよいのです」ということだ。

 とはいえ,以下のように後悔することがない方が望ましいことはいうまでもない。

--
「いよいよ問題から目を逸らせなくなった時,私の目の前にあったのは「複数の,脈絡ない研究課題の,小さな成果の寄せ集め」だけだった。個別の成果だけでは小さすぎて博論にならないし,全体を包括するストーリーは存在しない。
--

 この問題にアプローチするために,ここでは,雑誌論文とは別に,十分な成果を表現し,包括的なストーリーのある博士論文を書くにはどれほどの時間が必要か,という問題を考えたい。これは,当ゼミの博士課程院生が直面する,非常に難しい問題であると,私は思う。以下,産業論と経営学の事情を念頭に置いたまったく経験則的なこと,したがって独断的なことを書くので,どうぞご批判いただきたい。

 まず社会的要請に歯向かうことを言うが,産業論や経営学,さらにおそらく文科系の多くの分野において,文科省が想定するように3年で博士論文を書けというのは無茶だと私は思う。私は,ゼミの院生に「諸君に研究者の卵としての平均的能力が備わっていて,かつ私がまじめに指導したとしても,3年で博士論文が書ける確率はそう高くないと考えざるを得ない」とはっきり言ってある。ただし,「そういう困難の中でも諸君は全力を尽くさねばならないし,私もまた無理を覚悟で3年で学位を取得できることを想定したスケジュールで指導する」とも言ってあるが。

 では,何年あれば書けるかというと,経験則的には4年だろうなと思う。

 現在の情勢下では,産業論や経営学で日本国内の大学に就職しようとした場合,最小限「国内学術誌に査読付き論文3本」はないと,大学教員としての就職活動をたたかうことができない(※1)。最小限,この程度はないと形式要件で選考外にされるおそれがあるからだ。だから,修了までに論文を3本出すために,後期課程院生は年がら年中,雑誌投稿論文のことを考えながら過ごさねばならない。

 これと同時に博士論文のことを考えるのは,結構難しい。雑誌論文3本を結合させ,序章と結論をつければ博士論文になるというものではない(※2)。雑誌論文が3本並んでいるのと博士論文とは異なるものだからだ。

 まず,このブログ主も言うように,個々の雑誌論文と博士論文とでは,取り組むべきテーマの次元が一階層異なる。雑誌論文が取り上げているトピックが3つあるとして,博士論文ではそれらを包括するような一つの大きなテーマを論じ,それについて学問的な貢献をしなければならない。

 また,雑誌論文と博士論文とでは論文としての叙述スタイルも違う。 雑誌投稿論文は雑誌ごとの専門分野が決まっており,字数制限も厳しい。そのため,トピックを絞り,イシューを絞って執筆する必要がある。そして論じ方も雑誌の専門性に合わせる。例えば当ゼミならば,経済学的な産業論にするのか,経営学にするのかの判断が必要だ。ついでに言うと,雑誌のカラーに対応して,先行研究の取り上げ方や主張の強調点も変わってくる。例えば,事例の解明自体が主題で,それを理論的に行うべきなのか,理論的解明が主題で事例はその材料なのかで,論じ方は大きく異なる(※3)。
 つまり,雑誌論文とは独特の種類の樹木の幹であり,それが3本あるということは,少しずつ種類の違う樹木の幹が3本あるということだ。

 ところが博士論文は,何が主要論点で何が副次的論点かを含めて,あるテーマの全体を論じることが求められる。字数制限もない。つまり,木の幹だけでなく,幹と枝葉を含めた樹木全体を描かねばならない。それも,1本の大きな樹木を描くのである。3本の別種の幹と,1本の枝葉を含めた樹木。ここに大きな違いがあると,私は思う(※4)。

 では,雑誌論文の執筆に全力を挙げながら,同時に博士論文のことを考えられるだろうか。
 もちろん,同時に考えるべき側面もある。別物だと言っても,たいていは雑誌論文を材料に,これを組み替えて博士論文をつくっていくのであるから,雑誌論文のテーマと博士論文のテーマの関係をよく考えることが必要だ。同一の分析内容が,階層性の異なる二つのテーマを表現するようにしなければならない。
 しかし,やはり博士論文は博士論文で,その執筆について,集中的に考え,作業する時間が必要である。とくに,博士論文全体のテーマ,認識論,仮説や分析視角,結論について考え,それと個々の雑誌論文との関係を整合させ,構成を整序し,修正していくという作業は独自の努力が必要であり,したがって,雑誌論文の執筆がほぼ終わった頃に,独自の時間をとることが必要である。

 その時間を考慮すると,単純計算で雑誌論文1本に1年,3本で3年,博士論文にさらに1年は必要だと,私には思われるのである。

※1私の指導教員であった故・金田重喜教授は,院生の顔を見るたびに「30歳までに3本書かんといかん」と言い続けていた。年に30回くらい言われるのでゼミ生はげんなりしていたが,経験則的に妥当であったので,逆らうことができなかった。同僚の先生方もこれを「金田の法則」と呼んだ。いまならもっと厳しく「後期課程修了までに査読付きを3本」となるだろう。院生の年齢が高い場合についても考察が必要だが,ここでは省く。
※2「おまえの博士論文=単行本はどうなんだ」という批判は大いにあり得るが,それはまた別の機会に。
※3この分かりやすい表現として,多くの雑誌はメインタイトルが理論的テーマ(「流通プロセスのアーキテクチャ」とか)で,サブタイトルが事例(「ベトナム鉄鋼業における流通機構の構築過程」とか)の名称である。しかし,事例研究の雑誌や地域研究の雑誌だと,メインタイトルが事例でサブタイトルが理論的テーマになることもある。私は後者の方を好むのだが,経済学,経営学の主流的思考は前者であるのでとてもつらい。このことは別途論じたい。
※4このことは,単発論文と学術的単行書の違いについても言える。だから,私は査読付き雑誌論文だけで研究者を評価することに反対する。単行書は,第三者評価の客観性という点で弱点があることは事実である。しかし,原理的に雑誌論文よりも包括的で広がりをもった学的認識を体現する形式であるとも思う。

「博論審査を終えて(所感、長文)」はてな匿名ダイアリー,2018年1月19日。

映画『マルクス・エンゲルス』:帰らざる時 (2018/6/25)

 仙台でも上映が始まったので『マルクス・エンゲルス』を視た。あらゆる国家や思想や運動を批判しながら前進する若きマルクス,工場主の子息でありながら労働者に対する過酷な搾取を黙って見ていられない若きエンゲルスが活躍する。原題も「若きマルクス」だ。とにかくマルクスが傲慢さを伴いつつ,若さで周囲を押しまくる。

 本作ではカール・マルクスもフリードリヒ・エンゲルスも,イェニー・マルクスもメアリー・バーンズも20代半ばから30代前半で,4人ともまっすぐに自らの道を走り続けようとする。ちなみに,史実が良くわかっていないだけにフィクションが導入されたと思われるメアリーは,現代的な,意志の強い自立した労働者の女性として描かれており,4人目の魅力的な主役として位置づけられている。

 ラウル・ペック監督は,彼らを美しく描き過ぎているかもしれない。しかし,マルクスを好意的に描くが,神格化はしていない。ヴァイトリングやプルードンなど論敵たちとの争いでも,マルクスを政治的な正しさのシンボルとして際立たせるのではなく,頭が切れ過ぎて相手を根本的に否定してしまう若者として描いている。そして,本作は,絶妙な時期を選んで映像化されているように見える。私はマルクス伝にもエンゲルス伝にも詳しくないが,この映画で描かれた1942-48年,つまり木材窃盗取締法に関する論評から始まり『共産党宣言』に終わる時期は,ひた向きな若者として彼らを描くには最適だったのだろう。

 裏返して言うと,この前の時期,例えばマルクスがどのようにして家庭の宗教的背景を乗り越えて,何事にも批判的な無神論者にして唯物論者になったのかは,この映画では描かれていない。また,この映画以後,マルクスが政治的にも個人的にもどれほど複雑な問題を抱えながら生きたかも,この映画には描かれていない。例えば,イェニーの使用人で映画にも出てくるヘレナ・レンヒェン・デムートがマルクスの子を生むのは,『共産党宣言』出版からわずか3年後だ。ペック監督はそれらのことを知らないとは考えられないし,政治的な理由から美しいところだけを描くというかつてのマルクス伝のようなことをしたとも思えない。彼はただ,マルクスたちの若さが,思想を生み出していく瞬間を描きたかったのだと思う。

 最終盤。マルクスはやや疲れて砂浜にしゃがみ込み,『共産党宣言』は輪転機から静かに刷り出されてくる。そして現代の様々な映像。物語は大団円を迎えるのではなく,その後も長く続いていくのだ。何ものも恐れずに走る若者の純粋さは,時の流れの中に消えていく。人は年を取り,思想や書物は歴史の中でそれなりの役割を果たす。そこには必ず紆余曲折があり,回り道があり,挫折と再生が繰り返される。富と救いももたらすが,罪と死も刻まれる。だが,それ故にこそ,帰ることのない黎明の瞬間はかけがえのないものとなり,永遠となる。私は,そのように受け止めた。

Facebookに2018年6月25日に投稿したものを転載。

公式サイト
http://www.hark3.com/marx/

2018/6/25 Facebook
2018/6/28 Google+

ウルトラマンはハヤタと出会った (2014/7/10)

 7月10日は、1966年にウルトラマンが初めてテレビ画面に登場した日とのこと。

 しばしば誤解されているが、ウルトラマンは、地球を守るために光の国から派遣されたのではない。

 ウルトラマンは、地球に逃げてきた宇宙怪獣ベムラーを追いかけて来たのだが、誤ってハヤタ隊員の乗るジェットビートル機に衝突してしまった。ハヤタの生命を奪ってしまったことを申し訳ないと思い、ハヤタを生かすために一心同体となって、ついでに地球の平和のために働くことにしたのだ。つまり、交通事故の責任をとったのだ。

 最終回で、宇宙恐竜ゼットンに敗れてこときれそうになっているウルトラマンを、光の国の使者ゾフィーが迎えに来る。光の国に帰ろうというゾフィーに対してウルトラマンは言う。
「ゾフィー、私の身体は私だけのものではない。私が帰ったら、一人の地球人が死んでしまうのだ」
(ウルトラマン、お前はもう十分、地球のために尽くしたのだ。地球人は許してくれるだろう)
「ハヤタは立派な人間だ。犠牲にはできない。私は地球に残る」
(地球の平和は、地球人自身の手でつかみ取ることに意味があるのだ。ウルトラマン、いつまでも地球にいてはいかん)
「ゾフィー、それならば私の命をハヤタにあげて地球を去りたい」
(お前は死んでもいいのか)
「かまわない。私はもう2万年も生きたのだ。地球人の命は非常に短い。それに、ハヤタはまだ若い。彼を犠牲にはできない」
(ウルトラマン、そんなに地球人が好きになったのか。よろしい、私は命を二つ持ってきた。その一つをハヤタにやろう)
「ありがとう、ゾフィー」

 ウルトラマンは、「地球」のためではなく、「ハヤタ」という一人の地球人を好きになったために、自分の命を犠牲にしてもよいと言ったのである。ウルトラマンと地球人の交流は、初めからこのように描かれていた。異なる世界から来て出会った一つの命と、もう一つの命の出会いの物語としてだ。

 星と星としてでもなく、国と国としてでもなく、正義を守る星という大義名分と美しい緑の星という大義名分としてでもなく、一つの命と一つの命として、ウルトラマンとハヤタは出会った。私もそのように他の人と出会いたい。

※『ウルトラマン』最終回のセリフはすべて記憶によるものです。まちがっていたらすみません。

2022年7月。セリフの誤りを修正。

小中千昭『光を継ぐために ウルトラマンティガ』洋泉社,2015年を読んで (2015/2/22)

 1996年に放映が開始された『ティガ』は最初はかなりぼんやりした,何をしたいのかわからない感じで始まった。しかし,第3話「悪魔の預言」での,ウルトラマン=光と対極にある影の存在キリエロイドの登場で,本気でつくっていることは感じられ,続いて第5話「怪獣が出てきた日」で,迫力ある怪獣掃討作戦,マスメディアを通すことでリアル感が出た怪獣災害が描かれ,かなりいけるのではないかという気がした。その後,回を重ねるにつれて調子が上がって行ったが,私は,上記2本や第25話「悪魔の審判」,第34話「南の涯てまで」,第43話「地の鮫」などの傑作をものしている脚本家が小中千昭氏であることに気がついた。

 このあたりの背後にあった事情は本書で初めて理解できた。小中氏が番組に参加した時はすでに基本設定と右田万昌氏による第1・2話のシナリオはできていたそうで,氏は何本か個別の話を書くという姿勢で参加し,その後シリーズをまとめあげる立場に移行したそうだ。

 実際,シリーズが進むと,第1・2話を書き,円谷プロ社員ライターでもあった右田万昌氏の脚本にトンチンカンなものが目立ったが,そのことはスタッフ内でも理解されたのか,小中氏や長谷川圭一氏が要所要所をおさえるようになり,見事な最終回で締めてくれた(最後の2話は右田・小中・長谷川氏の共同執筆というクレジットだが,本書によれば小中氏が最後にまとめたそうだ)。

 「ウルトラマンはなぜ地球を守るのか」は,ウルトラシリーズ最大の難題の一つだ。佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』が政治問題にこじつけるというねじれた形で提起したこの問題に,私自身がずっとひっかかっていた。『ティガ』は,ウルトラマンは神でもなく,人間を守ってくれる他者でもなく,たった一人でたたかうべき者でもなく,地球に住む一人の存在であること,「人間は,みんな自分自身で光になれる」(最終回のダイゴ隊員の最後のセリフより)こと,しかしまた第44話のタイトルが示す「影を継ぐもの」にもなりうることを示して,この問題に一つの決着をつけてくれたように思う。私は当時そう思った。

小中千昭『光を継ぐために ウルトラマンティガ』洋泉社,2015年。

東京医科大学による統計的差別 (2018/8/2)

 東京医科大学が女性受験者の点数を一律に切り下げていた件。当然,これは差別だ。だが,なぜそんなことをしたのか。「同大出身の女性医師が結婚や出産で離職すれば、系列病院の医師が不足する恐れがあることが背景にあったとされる」。この点をどう見るか。倫理的に論外であることは言うまでもないが,立場上,経済学的に考えたい。
 東京医科大学の行為は,経済学で「統計的差別」と呼ばれている行為が,教育の場に現れたものだ。大学は,一人一人の学生が医師になったとき,結婚や出産などの家族関係の出来事にどう対応するかを十分に知ることはできない。そのため,まず,ある母集団をくくる。この場合は「女子」だ。そして,過去の統計的結果として,「女子」は医師になったとき結婚や出産で離職することが多かったと認識する。
 この認識が統計的にも虚偽で偏見だった場合は論外だ。問題は,過去について統計的には正しかった場合だ。
 ここに分かれ道がある。一つの道は,女性の医師が働きやすい職場を系列の病院につくろうとすることだ。当然,これは個々の大学や病院にはコストをもたらす。大学は非営利機関なのだから,この課題に挑んでもよいはずだ。しかし,東京医科大学はその道を選んでいない。
 もう一つの道は,個々の学生の就業態度を判断できないため,医師を確保しようと,一括して「女子」という集団を不利に扱ってしまうことだ。これが東京医科大学がやっていることだ。そうすると,本来は合格する学力があり,かつ本当は結婚や出産という機会があっても働き続けるはずだった女性まで,「女性だから」という理由で不合格にしてしまうことになる。これが統計的差別だ。
 統計的差別が深刻なのは,差別している主体が過去の統計データに基づいて「経済合理的」に行動していることだ。偏見によって差別しているのではなく,差別したほうが得だから差別しているのだ。そのため,統計的差別は,合否を判断する人間の,女性に対する偏見を取り除いただけでは是正されない恐れがある。偏見がなくても利益のために差別するからだ。
 これは「だから,差別があっても仕方がない」ということを意味しない。個々の大学はそれで得をしたつもりでも,統計的差別は社会経済に害を与える。まず短期的にみても,社会全体としては,能力があるのに医師になる道を閉ざされる女性が少なからず発生する。これは労働力の有効活用に失敗しているということだ。
 さらに長期的にみた場合,女性医師が長く働くことを妨げるような勤務条件を改善したほうが,医師の数が増え,医療のパフォーマンスが上がるだろうと予想される。それをせず,統計的差別を実行して男性医師に過酷な勤務を強要して良しとしていては,勤務条件を改革するインセンティブが社会に全く働かない。やがて勤務が過酷な分野から順に医師のなり手がいなくなる。長期的に医療パフォーマンスが下がる。
 だから,統計的差別は倫理的に許されないことはもちろん,経済社会の活性化のためにも解決しなければならない。しかし,個々の主体の自由に任せていては解決しない。差別をした方が経済的に得なので,改めようとしないからだ。規制を緩和して競争を激しくしてもなくならない。多くの主体が経済的に合理的に差別するからだ。差別をすると大損するような政策的介入,制度設計を行うしかないのだ。
 東京医科大学の統計的差別が,法に触れるかどうかは私にはわからない。しかし,社会的に批判されて当然だし,文科省が行政指導レベルで介入するのも妥当だろう。こうした行為を防ぐ制度的な仕組みがなければつくるべきだろう。それらによって大学の行動をただし,女性医師が働きやすい職場をつくるべく努力するという見地,そうしないと社会的に見放されるからやるしかないという見地に立たせるべきだろう。

井上伸「東京医科大学の女性差別入試は日本社会を劣化させ日本経済も衰退させるもの」BLOGOS,2018年8月2日。医療現場のことは指摘していないが,女性を差別するのは価値判断として許されないのみならず,経済社会も衰退させるという国際的傾向を指摘している。
http://blogos.com/article/315331/

遠藤公嗣「日本化した奇妙な統計的差別論」『ポリティーク』第3号,旬報社,2002年。統計的差別は経済合理的だとしてそのまま無批判でいる労働経済学の議論を批判。
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~endokosh/Endo%282002%29Politik.pdf


プーチンの平和条約呼びかけの問題点と千島列島(北方領土)問題解決の方向 (2018/9/13)

 2018年9月12日,ウラジオストクにおいてプーチン大統領は安倍首相に対して,「平和条約を、今ではないが今年が終わる前に、前提条件を付けずに締結しよう」と唐突に呼び掛けた。同日,日本では菅官房長官が「政府としては北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する基本方針に変わりはない」との見解を示した。

 日本とロシアの平和条約交渉は,長期にわたり暗礁に乗り上げている。理由は簡単で,日本の「北方四島の返還を合意してから平和条約を締結する」という主張に対して,ロシア側が同意する見通しがないからだ。もともと,世界のほとんどの国にとって,いわゆる北方四島のうち択捉島,国後島は「千島列島」の一部なので,サンフランシスコ条約により日本が領有権を放棄してしまったとみなされている。日本政府は,なぜなのか今に至るまで私にはその理屈が全く理解できないのだが,ある時期から「択捉,国後は千島ではない」と言い張って返還を要求している。だが,国際的に無理な解釈なので,旧ソ連もロシアも応じない。もし,ロシアが経済開発上困窮していて日本の援助をぜひとも必要としているなどの弱みがあるならば,政治的妥協において四島返還が実現する可能性もゼロではない。事実,1993年の東京宣言では,「択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題」を解決するように交渉しようとの合意が発表された。しかし,ロシア経済が市場経済化直後の混乱を脱し,ロシア政治が大国主義化を強めている今,ロシアと日本の関係は日本の経済的優位がものを言うようなものではない。交渉したところで,ロシアが譲る見通しは全くない。

 だから,プーチンの「前提をつけずに締結しよう」に対して,日本政府が「まず四島を返せ」というのは無理すじに過ぎず,話をもとの膠着状態にとどめるだけであろう。しかし,ならばプーチンに同意すればよいかというとそうではない。

 本来,性質が異なるのは「北方領土と北千島」ではなく,「歯舞群島,色丹島と千島(択捉,国後を含む)」だ。前述のように,日本は千島をサンフランシスコ条約で放棄してしまった。しかし,歯舞,色丹は歴史的に明らかに北海道であって,これを「千島」とする見解は学術的にどこにもない。旧ソ連とロシアが行っていることは国際法上の根拠がない不当占拠なのだ。日本が返還を要求するのはまったく正当だ。実は,旧ソ連もこの点では譲歩し,もう62年も前の1956年に出された日ソ共同宣言で,平和条約締結後に歯舞,色丹を日本に引き渡すことに同意している。この共同宣言は,一時はソ連により一方的に無効を宣言されたりしたが,結局,その有効性は2001年のイルクーツク声明で確認されている。

 プーチンは今回,日ソ共同宣言にも言及し,「この宣言の履行を日本側が拒否した」としたうえで,「前提をつけずに締結しよう」と述べている。これは,日ソ共同宣言も前提とせずに締結し,領土問題はすべてその後に話し合うということだ。つまり,プーチンはこれまで以上に強硬なことを言って日本に譲歩を迫ったのだ。この先,「二島返還も拒否し,無前提締結も嫌だというならば,平和条約の締結を妨げているのは日本だろう」と言い出しかねない。

 日本政府が「まず,四島を返せ」という主張に固執すると,ロシア側にまったく応じてもらえないどころか,揚げ足をとられる。この膠着状態から前進する道はあるのか。

 私は,「北方領土」問題は,「北方領土と千島(択捉,国後を含まず)」という線引きでは政治的僥倖がない限り解決しないのでこれを改め,「歯舞群島・色丹島と千島(択捉,国後を含む)」という線引きに切り替えるべきだと思う。

 その第一段階は即時の平和条約締結と二島返還だ。日ソ共同宣言通り,平和条約を結んで歯舞,色丹をその時点で返還させるのだ。これは,日本側が二島返還に方針を変更すれば正当な主張として通ることだ。日本の関係者の間では「四島一括返還」が絶対視されており,「二島返還」論がタブーであるためになかなかこの議論ができない。しかし,こうしない限り前進ができないのであり,押し問答が続くうちに,今回のプーチン発言のようなトリッキーな提案をされてしまうのだ。

 第二段階は,長期的な全千島返還要求だ。なぜそこまで言うかというと,千島列島は北千島を含めて,大日本帝国が武力で侵略したり,戦争の結果として割譲させたものではないからだ。だから,第二次大戦で敗れた後も,放棄する必要はなかった。なのに,ヤルタ会談での米ソ合意により引き渡しが勝手に決定され,日本に押し付けられたに過ぎない。日本は侵略の結果獲得した領土を放棄し,連合国は領土拡大を求めないという,戦後処理の原則に反している。サンフランシスコ条約の千島放棄条項は,敗戦国だからと言って不当に押し付けられたものだ。私は日本がアジアに対して侵略国であったことを認めるが,侵略国だからと言って何をされてもやむを得ないわけではない。連合国の中にあった大国主義も批判されねばならない。千島問題は,原爆投下とともにその事例だ。

 しかし,サンフランシスコ条約をそのままにして返還を要求することは不可能だ。この条約の千島放棄条項が不当なものであったこと,これは廃棄されるべきであることを国際社会に訴えていくしかない。それと同時に全千島返還をロシアに要求すべきだろう。

 私は,この政策こそが,1)国際法にかなっており,2)日露の平和条約早期締結に貢献し,3)旧ソ連の行った不当占拠を明らかにし,4)かつて大日本帝国が行った侵略や植民地主義をあいまいにすることなく,連合国に含まれていた大国主義をも明確にする,均衡のとれた歴史観を広げることに貢献すると信じる。

2018/9/13 facebook
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北方領土問題か千島問題か (2016/10/5)

北方領土問題か千島問題か (2016/10/5)

 私はいわゆる「北方領土」問題について以下のように考える。

*ほんらい,サンフランシスコ平和条約で「千島列島」を放棄したのが誤りだった。というのは,千島列島は大日本帝国が戦争の結果獲得したものではないからだ。択捉島以南が日本領というのは,1855年の日露和親条約において確認され,ウルップ島より北が日本領というのは,1875年の樺太・千島交換条約により日本の領土となったものだからだ。いずれもロシアとの外交交渉の結果だ。戦争の結果として割譲させた樺太とは異なる。だから第二次大戦後も放棄する必要はなかった。日本は侵略の結果獲得した領土を(それのみを)放棄し,連合国は領土拡大を求めないという,戦後処理の原則に反している。それが,ヤルタ会談以来のスターリンの領土膨張主義的要求により条約に盛り込まれてしまい,そこに屈服して放棄してしまったものだ。千島列島を日本に放棄させて旧ソ連に帰属させたこと自体が,連合国の戦後処理の原則に反しており,「戦争に勝ったら敵の領土を獲得してよい」という帝国主義思想の残滓だ。この点で,旧ソ連が批判されるべきだ。

*放棄した「千島列島」は北千島(ウルップ島より北)と南千島(択捉島,国後島)を含むのが,北方領土返還運動以前の日本を含めて世界に通じる用語法だ。だから,日本は択捉,国後を放棄しているとみるべきだ。しかし,同じ基準で,歯舞群島,色丹島は北海道の一部と見ることができる。だから,歯舞,色丹はロシアによって不法占拠されていると見るべきだ。
 実はある時期まで日本政府も,このように「千島列島には択捉,国後が含まれる。ただし,歯舞,色丹は含まれない」という理解をとっていた。ある時期から「千島列島には択捉,国後は含まれない」と言い出した。しかし,この解釈には無理がある。

*したがって,日本政府が2島返還=歯舞,色丹を返せと言うのはまったく正当だ。その一方,「北方領土」=択捉,国後,歯舞,色丹を返せと言うのは,サンフランシスコ平和条約の現行内容を維持したままだと理屈が通らず,実現困難だ。「北方領土」=択捉,国後,歯舞,色丹というくくり方をしたことは,領土返還交渉を困難に追い込んでおり,歴代自民党政権の責任だ。

*そのため,外交のすじ論としては,二島の即時返還を主張しつつ,サンフランシスコ平和条約の千島列島放棄条項を破棄した上で,全千島変換を要求するのが適切だ。

*この場合,「日本は侵略の結果獲得した領土を,それのみを放棄し,連合国は領土拡大を求めない」という戦後処理の原則を,日本自身が高く掲げる必要がある。つまり,サンフランシスコ体制の本来の精神に日本政府が立ち,旧ソ連・ロシアによるそこからの逸脱を批判するという立場に立つことが必要だ。歴代自民党政権が,侵略戦争の清算を伴うこの立場に立ちきれないところに,千島問題が混乱する隠れた原因の一つがある。

*ただし,以上の二項目は理想主義的であり,すぐには実現しそうにない。現在の政治の文脈に譲っていえば,とりあえずどんな政権であれ,2島の先行返還を交渉することは妥当だと思う。2島については,ロシアが占拠する根拠がまったくないからだ。1956年の日ソ共同宣言交渉時には,ソ連(当時)と日本の間に平和条約が締結された後に,ソ連が歯舞群島と色丹島を引き渡すという合意がなされている。この合意は重要だが,平和条約締結前であっても,二島返還を要求することは日本に正当性がある。しかし,択捉島,国後島を加えると「それはサンフランシスコ平和条約で放棄しているではないか」という議論に反駁することが困難になり,膠着する。

*まとめると,すじみちからすれば,第1段階2島即時返還,第2段全千島,というステップにするのが妥当だ。以上の考えは,日本共産党の主張とほぼ同じだ(※)。

*もちろん,政治は力関係と駆け引きによって左右されるから,それ以外のステップがとられることはあり得る。力関係次第では,まったく返還されないことも,4島返還も3島返還も2島返還も,4島返還してもらってロシアに租借というのも,何でもあり得る。それが政治だ。
 しかし,政治には力関係だけでなく正当性も作用する。力関係だけで揺れ動く国境線は,正当化され得ないものだ。逆に,力関係の結果がいったん正当化されれば,それは動きにくくなる。それでよいのかどうか,そうした発想で紛争処理をすることに危険はないのかどうかは,常に問われなければならない。4島返還論は,力関係と駆け引きに依拠したものであり,戦後処理の原則に立っていないことに注意しなければならない。歴史的に正当化可能な返還論,日本が戦後処理の枠組みの正当な部分に依拠し,不当な大国主義に抵抗するすじみちを通した返還論は,第1段階2島,第2段階全千島だと私は思う。

*ただし,私のこの意見は日本(大日本帝国,日本国)とロシア(旧ロシア帝国,ソ連,ロシア)と,それをとりまく連合国の戦後処理という枠組みでしかものを考えていない。もともとアイヌが住んでいた土地をロシアや日本が占拠したのではないか,という論点を含めると,また違う見方も必要かもしれない。その点は保留する。

※意外と感じる人も多いかもしれないが,日本共産党はある時期から旧ソ連と中国に対する独立性を強め,旧ソ連に対してもこのように主張していた。

2018年11月5日月曜日

ゴジラと空母信濃 (2018/1/9)

 『特撮秘宝』Vol.7の大特集は「元祖ゴジラ,逝く」。初代『ゴジラ』から『ゴジラ対ガイガン』までゴジラのスーツアクターをつとめ,2017年8月7日に亡くなられた中島春雄さんの追悼特集だ。私が初めて見たゴジラ映画は『モスラ対ゴジラ』のリバイバルであり,その後,『三大怪獣地球最大の決戦』,『怪獣大戦争』,『ゴジラ対ヘドラ』などで中島さんのゴジラを視た。子ども心に「こわいゴジラ」から「人間に味方するゴジラ」への変遷をはっきりと感じ取った。その変化には賛否あれど,ゴジラはいつも身近にいた。それは,中島さんの素晴らしい演技があったからだったのだ。
 今回の特集を読んで驚いたのは,中島さんが空母信濃に乗られていたということだった。自叙伝『怪獣人生』洋泉社,2010年には記されていたそうだが不勉強にして知らなかった。信濃は,もともと大和型戦艦の3番艦として起工されたが,いったん建造が中断され,ミッドウェー海戦で日本海軍が4席の正規空母を喪失した後に,これを補うべく正規空母に変更されて建造された。中島さんは1944年3月,横須賀海軍工廠で信濃に配属され,公試運転で乗艦もされた。その後,艦に残る道もあったが海軍航空隊への転属を希望し,かなえられて横須賀を離れたという。ちなみに,当時横須賀には東北地方から宮城第一高等女学校や福島高等女学校の生徒が勤労動員に駆り出されており,軍人から信濃の話を聞いたり,実際に見かけたりした人もあったという。私の母より年上の方々である。
 信濃は就役後,空襲を避けるために呉に回航されることになり,その際,台湾の新竹航空基地に配備される予定の特攻兵器,ロケット機「桜花」を50機をも運んでいくことになった。1944年11月28日,信濃は桜花とその弾頭を積み,護衛の駆逐艦3隻とともに横須賀を出港したが,翌日午前3時30分,遠州灘の沖合でアメリカ海軍の潜水艦アーチャーフィッシュの雷撃により,4発の魚雷を受けて沈没した。1080人が救助され,1300人が死亡した。
 もし中島さんが信濃に残っていたら,その生命は1944年11月29日に奪われていたかもしれない。そうすれば,私は中島さんの演じるゴジラに出会うことはできなかった。私は,中島さんが戦争で命を奪われず,俳優として,スーツアクターとしての人生を送られたことに感謝する。中島さんの命を奪いかねなかった,戦争という行為に恐怖する。誠にありふれたセリフで申し訳ないが,ゴジラよりおそろしいのは人間だ。

参考:あまり専門的な戦史研究書を持っておらず,以下を使用。
鳥居民『昭和二十年 第一部5 女学生の勤労動員と学童疎開』草思社,1994年。

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昭和天皇は『ハワイ・マレー沖海戦』に何を思ったか (2016/8/29)

 円谷英二による精巧な特撮で知られる映画『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)。実は、昭和天皇はこの映画を1942年11月28日に鑑賞している(※1)。12月3日の公開に先駆けて、とくに天皇のために上映したのであろう。

 その時、天皇は何を思っただろうか。

 『ハワイ・マレー沖海戦』は言うまでもなく真珠湾攻撃とマレー沖海戦の戦果を誇る国策・戦意高揚映画だ。しかし、公開時点で、この映画は、戦局の実態を国民から隠ぺいする役割を背負わされていた。というのは、すでに1942年6月5日から7日にかけてのミッドウェー海戦で、日本海軍は正規空母4隻を失う惨敗に終わり、戦局は転換点を迎えていたからだ。

 では、大元帥である昭和天皇は、事実を知っていたのだろうか。

 実は、大本営は、天皇に対してもミッドウェー海戦の結果を偽って報告していた(※2)。6月10日に航空母艦1隻喪失、1隻大破(「加賀」と「蒼龍」)としていた。実際には沈んだ「赤城」と「飛龍」が無事であったかのように偽っていたのだ。昭和天皇は、国民と同様に、大本営発表に騙されて、海軍が快進撃を続けていると思い込んでいたのだろうか。

 そうではなかったのかもしれない。ミッドウェー海戦より少し前の4月18日、ドーリットル爆撃隊が初めて東京を空襲した。この時、米軍機は1機も撃墜されなかったのだが、東部軍司令部は午後2時に「9機撃墜」と発表した。その発表と同じ時刻に、杉山元参謀総長が天皇に空襲について報告している。ここでも虚偽の報告をしている可能性が高い。ところが、午後7時35分に防衛総司令官であった東久邇宮稔彦王が、杉山参謀総長の妨害をはねのけて「敵機は1機も撃墜できませんでした」と正直に報告したという(※3)。もしこの通りだとすれば、昭和天皇は、1942年4月の時点で、軍が不利な情報を自分に正確にあげて来ないことがあるのだと、気がついていたのかもしれない。

 「ハワイ・マレー沖海戦」における円谷英二の見事な特撮は、昭和天皇の心を高揚させただろうか。それとも、すでに戦局は変わっているのかもしれないという警戒心を抱かせただろうか。それとも、また別な思いを呼び起こしただろうか。もはや、明らかにすることは難しい。しかし、この映画が、昭和天皇の心を動かすという意味で、歴史に影響を与えた可能性については、想像してみる価値があるだろう。

※1:原武史『「昭和天皇実録」を読む』岩波新書、2015年、付録2頁。
※2:半藤一利・保坂正康・御厨貴・磯田道史『「昭和天皇実録」の謎を解く』文春新書、2015年、204頁。
※3:同上、205-207頁。

「ハワイ・マレー沖海戦」Wikipedia