2018年11月8日木曜日

博士論文の性格と,その執筆に必要な時間を考える (2018/1/22)

 博士論文審査を終えたどこかの院生の匿名ダイアリーによせて,博士論文の性格と,その執筆に必要な時間を考える。

 まず私がこの方に何かを言うとすれば,「審査委員はあなたの博士論文が学位に値する一つの研究として成り立っていると認めたのだから,今はそこに胸を張ってよいのです」ということだ。

 とはいえ,以下のように後悔することがない方が望ましいことはいうまでもない。

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「いよいよ問題から目を逸らせなくなった時,私の目の前にあったのは「複数の,脈絡ない研究課題の,小さな成果の寄せ集め」だけだった。個別の成果だけでは小さすぎて博論にならないし,全体を包括するストーリーは存在しない。
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 この問題にアプローチするために,ここでは,雑誌論文とは別に,十分な成果を表現し,包括的なストーリーのある博士論文を書くにはどれほどの時間が必要か,という問題を考えたい。これは,当ゼミの博士課程院生が直面する,非常に難しい問題であると,私は思う。以下,産業論と経営学の事情を念頭に置いたまったく経験則的なこと,したがって独断的なことを書くので,どうぞご批判いただきたい。

 まず社会的要請に歯向かうことを言うが,産業論や経営学,さらにおそらく文科系の多くの分野において,文科省が想定するように3年で博士論文を書けというのは無茶だと私は思う。私は,ゼミの院生に「諸君に研究者の卵としての平均的能力が備わっていて,かつ私がまじめに指導したとしても,3年で博士論文が書ける確率はそう高くないと考えざるを得ない」とはっきり言ってある。ただし,「そういう困難の中でも諸君は全力を尽くさねばならないし,私もまた無理を覚悟で3年で学位を取得できることを想定したスケジュールで指導する」とも言ってあるが。

 では,何年あれば書けるかというと,経験則的には4年だろうなと思う。

 現在の情勢下では,産業論や経営学で日本国内の大学に就職しようとした場合,最小限「国内学術誌に査読付き論文3本」はないと,大学教員としての就職活動をたたかうことができない(※1)。最小限,この程度はないと形式要件で選考外にされるおそれがあるからだ。だから,修了までに論文を3本出すために,後期課程院生は年がら年中,雑誌投稿論文のことを考えながら過ごさねばならない。

 これと同時に博士論文のことを考えるのは,結構難しい。雑誌論文3本を結合させ,序章と結論をつければ博士論文になるというものではない(※2)。雑誌論文が3本並んでいるのと博士論文とは異なるものだからだ。

 まず,このブログ主も言うように,個々の雑誌論文と博士論文とでは,取り組むべきテーマの次元が一階層異なる。雑誌論文が取り上げているトピックが3つあるとして,博士論文ではそれらを包括するような一つの大きなテーマを論じ,それについて学問的な貢献をしなければならない。

 また,雑誌論文と博士論文とでは論文としての叙述スタイルも違う。 雑誌投稿論文は雑誌ごとの専門分野が決まっており,字数制限も厳しい。そのため,トピックを絞り,イシューを絞って執筆する必要がある。そして論じ方も雑誌の専門性に合わせる。例えば当ゼミならば,経済学的な産業論にするのか,経営学にするのかの判断が必要だ。ついでに言うと,雑誌のカラーに対応して,先行研究の取り上げ方や主張の強調点も変わってくる。例えば,事例の解明自体が主題で,それを理論的に行うべきなのか,理論的解明が主題で事例はその材料なのかで,論じ方は大きく異なる(※3)。
 つまり,雑誌論文とは独特の種類の樹木の幹であり,それが3本あるということは,少しずつ種類の違う樹木の幹が3本あるということだ。

 ところが博士論文は,何が主要論点で何が副次的論点かを含めて,あるテーマの全体を論じることが求められる。字数制限もない。つまり,木の幹だけでなく,幹と枝葉を含めた樹木全体を描かねばならない。それも,1本の大きな樹木を描くのである。3本の別種の幹と,1本の枝葉を含めた樹木。ここに大きな違いがあると,私は思う(※4)。

 では,雑誌論文の執筆に全力を挙げながら,同時に博士論文のことを考えられるだろうか。
 もちろん,同時に考えるべき側面もある。別物だと言っても,たいていは雑誌論文を材料に,これを組み替えて博士論文をつくっていくのであるから,雑誌論文のテーマと博士論文のテーマの関係をよく考えることが必要だ。同一の分析内容が,階層性の異なる二つのテーマを表現するようにしなければならない。
 しかし,やはり博士論文は博士論文で,その執筆について,集中的に考え,作業する時間が必要である。とくに,博士論文全体のテーマ,認識論,仮説や分析視角,結論について考え,それと個々の雑誌論文との関係を整合させ,構成を整序し,修正していくという作業は独自の努力が必要であり,したがって,雑誌論文の執筆がほぼ終わった頃に,独自の時間をとることが必要である。

 その時間を考慮すると,単純計算で雑誌論文1本に1年,3本で3年,博士論文にさらに1年は必要だと,私には思われるのである。

※1私の指導教員であった故・金田重喜教授は,院生の顔を見るたびに「30歳までに3本書かんといかん」と言い続けていた。年に30回くらい言われるのでゼミ生はげんなりしていたが,経験則的に妥当であったので,逆らうことができなかった。同僚の先生方もこれを「金田の法則」と呼んだ。いまならもっと厳しく「後期課程修了までに査読付きを3本」となるだろう。院生の年齢が高い場合についても考察が必要だが,ここでは省く。
※2「おまえの博士論文=単行本はどうなんだ」という批判は大いにあり得るが,それはまた別の機会に。
※3この分かりやすい表現として,多くの雑誌はメインタイトルが理論的テーマ(「流通プロセスのアーキテクチャ」とか)で,サブタイトルが事例(「ベトナム鉄鋼業における流通機構の構築過程」とか)の名称である。しかし,事例研究の雑誌や地域研究の雑誌だと,メインタイトルが事例でサブタイトルが理論的テーマになることもある。私は後者の方を好むのだが,経済学,経営学の主流的思考は前者であるのでとてもつらい。このことは別途論じたい。
※4このことは,単発論文と学術的単行書の違いについても言える。だから,私は査読付き雑誌論文だけで研究者を評価することに反対する。単行書は,第三者評価の客観性という点で弱点があることは事実である。しかし,原理的に雑誌論文よりも包括的で広がりをもった学的認識を体現する形式であるとも思う。

「博論審査を終えて(所感、長文)」はてな匿名ダイアリー,2018年1月19日。

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