2018年11月21日水曜日

北田暁大・栗原裕一郎・後藤和智『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』イースト新書,2017年を読んだがよくわからないので,とりあえず反緊縮に賛成しリフレに反対する (2017/7/4)

 北田暁大・栗原裕一郎・後藤和智『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』イースト新書,2017年。

 あまりに忙しくて,自分の研究に直接関係ある本,ゼミと講義に使う本,院生指導に必要な本,頭を休めるための本以外は読めないのが現状だ。それで,最近の論壇の流れとかを知りたくて買った。

 が,残念ながらあまりお勧めできない。肝心の,「誰が,何を言っていて,それをどう評価するのか」がわからないからだ。そんな馬鹿なと人は言うだろうが,私の読んだ限り,本当にそうなのだ。

 この本は,何年ごろ,どんな論客が,どんなイベントをきっかけに出現し,その次は誰が台頭し,そのまた次は誰で,どういう動きにつながっていくとか,その間は人脈としてはこういう風になっている,という話が延々なされている。それは別にいい。が,一番肝心な,それぞれの論客の主張内容がよく分からず,また,それに対してどこが,なぜ,どのように正しいのか,あるいはまちがっているのかが,きちんと評価されていない。登場する過半数の論者にはむやみにケチをつけたり馬鹿にしたりしているのだが,何がどう悪いのかがさっぱりわからない。何度も出てくる名前で言えば,著者たちがSEALDsに批判的なのはわかるが,SEALDsの何がどうだめなのかがわからない。また全然別系統の論者で言うと古市憲寿に批判的なのはわかるが,古市憲寿の何がどうだめなのかさっぱりわからない。私の読解力によほど問題があるのだろうか。

 本書を読んで,私は妙な既視感を覚えた。論客の系譜や人脈をたどって軽く,軽く,楽しむという書き口は,あのポスト・モダン盛りの1980年代によく見られた。だが,著者たちはそういうスタイルの人でなく,大真面目に何かを主張したい方々のはずであり,現に書き口は全然軽くない。データで事実を語らねばならないとおっしゃっている方々であって,解釈次第で世界はどうにでも見えるという方々でもない。なのに,どうしてこういう本になるのか,理解できない。

 とはいえ,ネガティブなことばかりわざわざ書くのも何なので,唯一主張が読み取れて,かつある程度賛同できたことを書く。それは,主に北田氏が述べている,「文化的左翼のアイデンティティ・ポリティクスは,経済を無視する限りにおいて無効だ。経済的困窮,貧困を直視しなければならない」,まして「経済はもう成熟した。反成長主義で行くべきだ,などというのは愚の骨頂であり,労働問題,とくにロスジェネ以後の比較的若い世代のそれを事実に基づいて語らねばならない」という主張である。著者たちがこの基準で語っているらしいことだけは,かろうじて分かった。著者たち,とくに後藤氏がむやみな「若者たたき」や「若者擁護」を批判するのも,それはロスジェネ以後の若者の困難という深刻な事実を無視するものだからなのだろう。

 この主張の延長上で,「左派は経済政策として反緊縮を主張すべきなのに,それが中心に座っていないから主張が首尾一貫しない。外交や民主主義の問題で反安倍なのはよいとして,ついでに反拡張政策を主張してしまっては,格差と貧困の解決が遠ざかるだけだ」というのももっともだ。これは日本において右翼が拡張政策を取り,左翼がそれを批判するという,ねじれた状態になっていることをよくとらえている
(とはいえ,その主張は松尾匡『この経済政策が民主主義を救う』大月書店,2016年を読んだ方が,はるかにわかりやすいし,また経済学的に理解できる)。

 ただ,そこにも問題があって,著者たちは「反緊縮政策イコールリフレ」だと思いこんでいる。これはおかしい。反緊縮政策は反緊縮政策,あるいは「金融緩和と財政拡大」といえばいいのであって,「リフレ」と言わねばならない理由は存在しない。

 例えば私は反緊縮派であるがリフレ派ではない。リフレ派が,「日銀は通貨供給量を自由に増やせるし,増やせばそれだけである程度物価は上がり,総需要も回復する」という因果関係を想定しているのは間違っていると考えている。中央銀行の通貨供給=ヒモ論,つまり中央銀行券の市中への供給は意図的に絞ることはできても,意図的に拡張することはヒモを押すようなものであって困難だという主張の方が正しいと思う。

 私の意見では,反緊縮主義のためにはケインズ『一般理論』の原典に記されている発想が肝心である。つまり,資本の限界効率,すなわち産業における投資決定者の期待利潤率を引き上げねばならない。それは日銀券供給だけではできない。新産業による市場形成への期待を直接に広がるか,あるいは眠っている個人貯蓄を保有者が喜んで支出したくなるようにして産業全般の期待利潤率向上を間接的に促進するかの,いずれかである。イノベーションの支援や,規制改革や,社会保障改革によってそれらを誘導しない限り,見込みはない。なぜなら,企業資本(機械設備や原材料)の期待利潤率はアニマル・スピリッツに左右される不確実なものであり,株価は美人投票メカニズムなのでやはり不確実なのであって(これが私の『一般理論』原典主義の意味である),通貨を何パーセント増やせばそれで期待利潤が何パーセント上がるというものではないからである。新産業形成か,貯蓄を使いたくなるか,いずれかに貢献するような財政政策や金融政策ならば好ましく,貢献しない財政・金融政策は好ましくないのであって,その境目は通貨供給量では決まらないのである。アベノミクスに問題があるのは,通貨膨張に過度に依存してきたことであり,規制改革と財政拡大が,新産業形成にも,安心してお金を使える環境にも寄与していないからなのだ。拡張政策が悪いのではなく,拡張政策の中身が悪いのだ(とはいえ,私は財政赤字のサステナビリティも気にせざるを得ないと考えているが)。

 本書から辛うじて読み取れた経済学主張に対する部分的賛同と部分的留保は以上である。

2017/7/4初稿(Facebook)
2017/7/8補足
2018/11/21補足に基づき修正。

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