仙台でも上映が始まったので『マルクス・エンゲルス』を視た。あらゆる国家や思想や運動を批判しながら前進する若きマルクス,工場主の子息でありながら労働者に対する過酷な搾取を黙って見ていられない若きエンゲルスが活躍する。原題も「若きマルクス」だ。とにかくマルクスが傲慢さを伴いつつ,若さで周囲を押しまくる。
本作ではカール・マルクスもフリードリヒ・エンゲルスも,イェニー・マルクスもメアリー・バーンズも20代半ばから30代前半で,4人ともまっすぐに自らの道を走り続けようとする。ちなみに,史実が良くわかっていないだけにフィクションが導入されたと思われるメアリーは,現代的な,意志の強い自立した労働者の女性として描かれており,4人目の魅力的な主役として位置づけられている。
ラウル・ペック監督は,彼らを美しく描き過ぎているかもしれない。しかし,マルクスを好意的に描くが,神格化はしていない。ヴァイトリングやプルードンなど論敵たちとの争いでも,マルクスを政治的な正しさのシンボルとして際立たせるのではなく,頭が切れ過ぎて相手を根本的に否定してしまう若者として描いている。そして,本作は,絶妙な時期を選んで映像化されているように見える。私はマルクス伝にもエンゲルス伝にも詳しくないが,この映画で描かれた1942-48年,つまり木材窃盗取締法に関する論評から始まり『共産党宣言』に終わる時期は,ひた向きな若者として彼らを描くには最適だったのだろう。
裏返して言うと,この前の時期,例えばマルクスがどのようにして家庭の宗教的背景を乗り越えて,何事にも批判的な無神論者にして唯物論者になったのかは,この映画では描かれていない。また,この映画以後,マルクスが政治的にも個人的にもどれほど複雑な問題を抱えながら生きたかも,この映画には描かれていない。例えば,イェニーの使用人で映画にも出てくるヘレナ・レンヒェン・デムートがマルクスの子を生むのは,『共産党宣言』出版からわずか3年後だ。ペック監督はそれらのことを知らないとは考えられないし,政治的な理由から美しいところだけを描くというかつてのマルクス伝のようなことをしたとも思えない。彼はただ,マルクスたちの若さが,思想を生み出していく瞬間を描きたかったのだと思う。
最終盤。マルクスはやや疲れて砂浜にしゃがみ込み,『共産党宣言』は輪転機から静かに刷り出されてくる。そして現代の様々な映像。物語は大団円を迎えるのではなく,その後も長く続いていくのだ。何ものも恐れずに走る若者の純粋さは,時の流れの中に消えていく。人は年を取り,思想や書物は歴史の中でそれなりの役割を果たす。そこには必ず紆余曲折があり,回り道があり,挫折と再生が繰り返される。富と救いももたらすが,罪と死も刻まれる。だが,それ故にこそ,帰ることのない黎明の瞬間はかけがえのないものとなり,永遠となる。私は,そのように受け止めた。
Facebookに2018年6月25日に投稿したものを転載。
公式サイト
http://www.hark3.com/marx/
2018/6/25 Facebook
2018/6/28 Google+
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