2018年11月9日金曜日

加藤哲郎『ゾルゲ事件 覆された神話』平凡社新書,2014年を読んで (2016/1/1)

 加藤哲郎『ゾルゲ事件 覆された神話』平凡社新書,2014年。シンプルなタイトルになっているが,概説書ではなく,ゾルゲ事件をある程度知っている人向けの本。

 とくに,1)「伊藤律の供述が元になって東京ゾルゲ団の活動が日本の警察に発覚した」(伊藤律端緒説)という長年の通説を覆すとともに,2)事件の本当の端緒を明らかにすること,3)「上海ゾルゲ団」の活動を含めて,当時の国際的な情報戦の解明を前進させることが主眼となっている。その要点をまとめると,以下の通り。

 1)渡部富哉『偽りの烙印』五月書房,1993年が明らかにしたように,伊藤律端緒説はまったく事実と異なる。これは事件当時においては,実際に存在したゾルゲの工作をもとに,さらに他の事件をでっちあげるための,また自らの諜報工作を隠すための特高警察の筋書きづくりの一部であった。また戦後においては,もともとは作家アグネス・スメドレーと中国共産党の関係を明らかにしてレッド・パージに用いようとする占領軍G2の謀略に端を発していた。ところが,そこでGHQの協力者となった,ゾルゲ事件被告の一人川合貞吉が,当時日本共産党の幹部となっていた伊藤律追い落としにこの動きを利用した。さらに,50年問題のさなかにあった日本共産党内部の党内闘争において,野坂参三らによって伊藤律追い落としの口実として利用された。

 2)伊藤律端緒説が誤りならば,特高警察はどのようにして北林トモ,宮城与徳に目をつけて検挙し,そこから尾崎秀実,ゾルゲの逮捕へと進むことができたのか。それは,1930年代から日本政府が進めてきた,アメリカ共産党日本人部に関する情報収集によって,北林と宮城の名前も名簿によってつかまれていたからだった。
 情報収集が名簿作成に及ぶきっかけになったのは,鬼頭銀一というアメリカ共産党員の日本人が,治安維持法被疑者の逃亡を助けたとのことで1931年に逮捕された時の供述であった。鬼頭の供述には,末端党員の北林や宮城の名前はなかったが,名簿作成が進展するうちに,1933年以後は氏名がつかまれるようになった。

 3)鬼頭は,実は上海で活動していた1930年に,尾崎をゾルゲに紹介した本人であった。そして,釈放後,神戸でゴム販売業を営むようになってから,尾崎と再会していた。それは,尾崎の側の情報ネットワークづくりであったと思われる。鬼頭が,釈放後もコミンテルンに協力する活動をしていたかどうかは不明。鬼頭は後にペリリュー島で店を構えたが,1938年,出入りしていた男に進められたあずきの缶詰を食べた直後に苦悶して死亡。真相は不明。
 鬼頭の存在がゾルゲ事件関係文書で希薄なのは,逮捕されたゾルゲが上海での活動を隠すために,鬼頭との関係について,極力薄めた供述をしたからだった。鬼頭も,逮捕されたのは上海ゾルゲ団と関係ない事件についてであったし,アメリカ共産党日本人党員10数名のことは供述したが,上海ゾルゲ団についてはしゃべらなかった。このため,上海ゾルゲ団の活動や,コミンテルンがアメリカ共産党日本人部を通して行っていた諜報活動の重要な一部分が,これまで謎のままになっていた。

 伊藤律端緒説の崩壊自体は渡部氏の本で証明されているが,本書の貢献は,戦後も進歩的立場を装っていた川合貞吉が,GHQ協力者として伊藤律端緒説の作成と普及に関わっていたことを明らかにしたことだ。また,鬼頭銀一の生涯と活動に関する解明と,ゾルゲ事件発覚の真の端緒の解明も,本書の貢献だ。

 私は,伊藤律本人が中国での軟禁状態を解かれて帰国した時に高校生であったが,彼が何者であるか全く知らなかった。その後,松本清張『日本の黒い霧』と日本共産党の公式見解によって伊藤律端緒説を知り,その時は,たぶんそのとおりなのだろうなと思い込んでいた。しかし,渡部『偽りの烙印』を読んで,それが誤りであることを確証した。その後,この話題からしばらく遠ざかっていたのだが,本書を読んで,研究が順調に進んでいることがわかった。

 本書を読むと,「ソ連から日本を守ること」が正しかったとも,「革命闘争を遂行すること」が正しかったとも到底思えない。この事件から現代的教訓を引き出そうとする際に,日本を守る機密保持体制や対敵諜報活動を強化せよというのはまったくの矮小化だ。情報戦とはからみあう謀略の中に個人が翻弄され,その人生を狂わせるものだ。それは,国家が存在する限り不可避であろうが,なるべくその害を減らさなければならない。それこそが最大の教訓だ。私は,結論部における加藤氏の以下の記述に同意する。

「責任を問われるべきものがあるとすれば,自分たちの活動を世界の変革と戦争阻止のためと信じた人々を歯車として展開された,ソ連やコミンテルンの秘密の諜報活動の全体であり,それに対抗する『防諜』という口実でなされた,日本の特高警察・憲兵隊,米国占領軍G2・キャノン機関,CIAその他の謀略や拷問を含む言論思想弾圧の諜報戦であった。そこから現代の情報戦が学びうるものがあるとすれば,それは知る権利,言論・思想の自由と情報公開の必要性,公文書の作成・保管と歴史資料の収集・保全の重要性であろう」(241頁)。

加藤哲郎[2014]『ゾルゲ事件 覆された神話』平凡社新書。

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