2018年11月8日木曜日

東京医科大学による統計的差別 (2018/8/2)

 東京医科大学が女性受験者の点数を一律に切り下げていた件。当然,これは差別だ。だが,なぜそんなことをしたのか。「同大出身の女性医師が結婚や出産で離職すれば、系列病院の医師が不足する恐れがあることが背景にあったとされる」。この点をどう見るか。倫理的に論外であることは言うまでもないが,立場上,経済学的に考えたい。
 東京医科大学の行為は,経済学で「統計的差別」と呼ばれている行為が,教育の場に現れたものだ。大学は,一人一人の学生が医師になったとき,結婚や出産などの家族関係の出来事にどう対応するかを十分に知ることはできない。そのため,まず,ある母集団をくくる。この場合は「女子」だ。そして,過去の統計的結果として,「女子」は医師になったとき結婚や出産で離職することが多かったと認識する。
 この認識が統計的にも虚偽で偏見だった場合は論外だ。問題は,過去について統計的には正しかった場合だ。
 ここに分かれ道がある。一つの道は,女性の医師が働きやすい職場を系列の病院につくろうとすることだ。当然,これは個々の大学や病院にはコストをもたらす。大学は非営利機関なのだから,この課題に挑んでもよいはずだ。しかし,東京医科大学はその道を選んでいない。
 もう一つの道は,個々の学生の就業態度を判断できないため,医師を確保しようと,一括して「女子」という集団を不利に扱ってしまうことだ。これが東京医科大学がやっていることだ。そうすると,本来は合格する学力があり,かつ本当は結婚や出産という機会があっても働き続けるはずだった女性まで,「女性だから」という理由で不合格にしてしまうことになる。これが統計的差別だ。
 統計的差別が深刻なのは,差別している主体が過去の統計データに基づいて「経済合理的」に行動していることだ。偏見によって差別しているのではなく,差別したほうが得だから差別しているのだ。そのため,統計的差別は,合否を判断する人間の,女性に対する偏見を取り除いただけでは是正されない恐れがある。偏見がなくても利益のために差別するからだ。
 これは「だから,差別があっても仕方がない」ということを意味しない。個々の大学はそれで得をしたつもりでも,統計的差別は社会経済に害を与える。まず短期的にみても,社会全体としては,能力があるのに医師になる道を閉ざされる女性が少なからず発生する。これは労働力の有効活用に失敗しているということだ。
 さらに長期的にみた場合,女性医師が長く働くことを妨げるような勤務条件を改善したほうが,医師の数が増え,医療のパフォーマンスが上がるだろうと予想される。それをせず,統計的差別を実行して男性医師に過酷な勤務を強要して良しとしていては,勤務条件を改革するインセンティブが社会に全く働かない。やがて勤務が過酷な分野から順に医師のなり手がいなくなる。長期的に医療パフォーマンスが下がる。
 だから,統計的差別は倫理的に許されないことはもちろん,経済社会の活性化のためにも解決しなければならない。しかし,個々の主体の自由に任せていては解決しない。差別をした方が経済的に得なので,改めようとしないからだ。規制を緩和して競争を激しくしてもなくならない。多くの主体が経済的に合理的に差別するからだ。差別をすると大損するような政策的介入,制度設計を行うしかないのだ。
 東京医科大学の統計的差別が,法に触れるかどうかは私にはわからない。しかし,社会的に批判されて当然だし,文科省が行政指導レベルで介入するのも妥当だろう。こうした行為を防ぐ制度的な仕組みがなければつくるべきだろう。それらによって大学の行動をただし,女性医師が働きやすい職場をつくるべく努力するという見地,そうしないと社会的に見放されるからやるしかないという見地に立たせるべきだろう。

井上伸「東京医科大学の女性差別入試は日本社会を劣化させ日本経済も衰退させるもの」BLOGOS,2018年8月2日。医療現場のことは指摘していないが,女性を差別するのは価値判断として許されないのみならず,経済社会も衰退させるという国際的傾向を指摘している。
http://blogos.com/article/315331/

遠藤公嗣「日本化した奇妙な統計的差別論」『ポリティーク』第3号,旬報社,2002年。統計的差別は経済合理的だとしてそのまま無批判でいる労働経済学の議論を批判。
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~endokosh/Endo%282002%29Politik.pdf


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