先日,日本国内で,中国のある名門大学の哲学院の先生の報告を拝聴する機会があった。それはマルクス主義の中国化に関する研究報告であり,端的に言えば,マルクス主義は国毎の諸条件に応じて民族化する。毛沢東は主観主義と教条主義を排して,マルクス主義を中国化した,『実践論』や『矛盾論』はその成果だとするものだった。そして,その後も中国化は順調に進展し,真理基準をめぐる討論,生産力標準をめぐる討論,「三つの有利」論が生まれ,習近平新時代特色社会主義思想になった,のだそうだ。
あまりにもあんまりな内容にじっとしていられず,脳内から長らく使っていない「マルクス主義用語・言い回し辞典」を引っ張り出し,以下のようなメモを10分くらいかけて作成した。しかし,この研究会は通訳を交えたもので報告に時間がかかってしまい,討論時間がほとんどなくなったため,ややこしく長引きそうな発言はまずいかと思って,挙手しなかった。
「 私は経済学研究の観点から,先生が報告された,マルクス主義哲学の中国化における1978年を境とした変化について私見を述べたい。
毛沢東は確かに主観主義と教条主義に反対し,「農村から都市を包囲する」など,中国革命のための独自の理論と戦術を発展させた。それは中国を日本帝国主義とそのほかの外国支配から解放するためには非常に有効だったと思う。
しかし,毛沢東のマルクス主義は,階級闘争に過度に焦点をあてたものであり,新中国の経済建設においては十分貢献しなかったのではないか。とくに晩年,毛沢東自身が主観主義と教条主義に陥り,中国の現実に即した経済政策ができなかったのではないか。計画経済の停滞と文化大革命期の混乱はその結果であると思う。これは中国共産党が「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」(※1)で総括していることだ。
だから1970年代後半において,鄧小平は,晩年の毛沢東と,それを取り巻いた人々の誤った考えを改めるために,大きなエネルギーを割かねばならなかった。「実事求是」は唯物論にとって本来当たり前の考えであるが,これを彼が強調しなければならなかったのは,それが守られていなかったからだ。また,「三つの有利」(※2)を強調しなければならなかったのは,当時中国の生産力,外交的立場,そしてもっとも肝心な人民の生活が損なわれ,社会主義建設ができているとは言えない状態にあったからだ。
鄧小平は,状況を改善するために,あえてマルクス主義の原則からはみ出してさえいる。本来,マルクス主義は,生産力と生産関係の両面に注目するものであり,生産力さえ発展すればよいと考えることはないし,階級闘争を無視することはない。しかし,鄧小平は,多少の理論的逸脱に目をつむってでも,中国の社会・経済を発展させるためにあえて「三つの有利」を述べ,階級闘争を政策の中心から外したのだ。これは,中国の現実に対処するために必要だったプラグマティズムであったと私は理解している。
ある社会の現実に即してマルクス主義を発展させるためには,教条主義と主観主義を排しなければならない。その通りだと思う。しかし,晩年に毛沢東自身がその誤りに陥り,それを乗り越えるために鄧小平は,創造的な哲学を開発しなければならなかった。この鄧小平の哲学こそが改革・開放の成功に道を開いた。私は1978年を境目とする中国のマルクス主義哲学の移行を,このように,円滑な発展ではなく,矛盾と葛藤に満ちた弁証法的発展だと理解している。」
※1。文化大革命を「指導者が誤って発動し,反革命集団に利用され,党,国家,各民族人民に大きな災難をもたらした内乱」と規定した。以下で原文が読める。
中国共産党新聞。
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/71380/71387/71588/4854598.html
※2。鄧小平の唱えた政策判断の基準。生産力の発展に有利かどうか、総合国力の発展に有利かどうか、人民の生活. 水準向上に有利かというもの。渡辺英雄『「和諧社会」の構築に挑む中国・胡錦濤政権 - 「四位一体」の調和論』日本国際問題研究所,2007年3月,6頁で説明されている。
http://www2.jiia.or.jp/pdf/resarch/h18_china/h18china-4_Chapter1.pdf
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