2018年11月26日月曜日

與那覇潤『中国化する日本』文藝春秋,2011年と池田信夫・與那覇潤『「日本史」の終わり』PHP研究所,2012年を読んで (2013/10/1)

 近世から現代にいたる歴史を見るときに、「西洋化しているかどうか」だけでなく「中国化しているかどうか」を軸にすると、いままで見えなかったものが見えてくるのではないかというのが、與那覇潤『中国化する日本』の主要な論点である。実は、ふだんから中国人留学生と接し、さわり程度とはいえ中国産業を観察していると腑に落ちるところが多く、この考えに注目している。「中国社会の方がグローバリゼーションに適合しやすいのでは?」という疑問に正面から一つの試論を提示してくれる本であったことは確かである。

 読んでない人が誤解するといけないので注意書きすると、與那覇さんは「中国化が良いことだ」と言っているのではない。歴史を考えるものさしとして「中国化」を打ち出しているのだ。これまで、「西洋化」が良いことだと思う人もそうでないと思う人も、「日本が西洋化したかどうか」という基準で歴史を見てきた。同じように、ものさしとして「中国化したかどうか」をあてようという提案だ。

 與那覇さんの考える「中国化」とは,一極専制であること、法の支配より徳治を期待すること、立法に対する行政の優位、秩序への合意を調達する原理を「法の下の平等」でなく「独占的地位が固定化せず流動的であること」に置く(例:科挙に挑戦する機会は誰にも開かれていた)、身分制否定と私的利益追求の自由、といった特徴を社会が帯びることだ。確かにこれなら「西洋化」とも違うし,日本社会の特徴としてよく言われることとも違う。そしてこういう軸で考えると,政治的自由主義・個人主義には向かわないが,経済的自由主義・個人主義に向っていく中国社会の傾向などが理解可能になる。国家資本主義にも見えるし,大衆資本主義にも見えることの歴史的背景としても重視すべきかもしれない。

 もしかすると以前から中国化論に似たことを述べた研究はあったのかもしれないが、何しろ中国史はまったく不勉強なのでわからない。また、歴史学者のイメージを一変させる與那覇さんの超軽い文体(だが私の同僚にも一人いる)と話を単純化してわかりやすすぎるたとえ話にする話法に立腹する読者もいるかもしれない(私の周りにもいる)。しかし、というかそれ故にというか、『中国化する日本』は大ウケしたようだ。

 その與那覇さんと池田信夫さんの対談を読んだ。私は池田さんの「メンバーシップ雇用」論などは賛成だが、他人に対する批判のすさまじさについていけなくて,ブログはあまり読んでいない。しかしこの本では池田さんは冷静で面白い議論をしているし,與那覇さんは池田さんの主張に流されていない。池田さんの話が一面的になりそうになると輿那覇さんが「ただ、実はこういう面もあるわけで」「そうするとこういうことになると思うのですが」「それをもう少し考えてみますと」という形で話を深めたり,押し広げて広い角度から見直したりしているように見える。やはり,ただのほら吹きではなく,たいへんな討論能力の持ち主なのだなあと感心した。

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