2019年7月15日月曜日

きっとくる未来:河合雅司『未来の年表』を読んで(2018/2/12)

 河合雅司『未来の年表』講談社現代新書,2017年は2回読んだ。中央公論新社の「新書大賞」で2位になったとかで話題になっている。

 本書の前半は素晴らしい。このままいくと,何年には少子高齢化はどこまで進むか,その結果何が起こるか,が政府・自治体・シンクタンクのかなりまっとうなシミュレーションをもとに描かれている。私は,自らが何歳の時に日本がどうなっていて,その時,自分がまだ生きていればどのような位置にいるのだろうと想像しながら読んだ。その時,自分にかかわる人々もまたどうなっていて,その人たちにどういう影響が及ぶだろうという連想をかきたてられた。輸血用血液が不足した時にガンになったらどうなるだろうか(2027年,63歳),3戸に1戸が空き家になる時期に私が先に死んだら妻はこの家をうまく売れるだろうか(2033年,69歳),火葬場が不足するころ,私と妻の後に残った方が死んだら,誰が火葬の手配をしてくれるだろう(2039年,75歳),高齢者人口がピークに達した時,政治において世代間対立はどうなっているだろうか(2042年,78歳)。自分の足元からつながっている,輝かしくはない未来を見せてくれるというか,突きつけてくれる。

 もちろん,その未来はあるところまでは変えられる。しかし,ある程度以上には変えられない。たとえば,これからいくら特殊出生率を上げたところで,人口減少自体は逆転できない。著者は,おおむね「まずまちがいなくこうなる」という範囲のことを書いているのだ。一部,単純化のすぎた項目や,著者の価値観からくる偏った心配(人口が減少した地域に外国人が住みついたら大変ダー,など。不便なら外国人も住まないよ)も少し入ってはいるが,少しだけだ。むしろ,リベラルや左派の人には,著者が『産経』の論説委員であることからといって食わず嫌いをしないことを勧める。

 ただ,後半にの対策提案に入ると,肩に力の入った叙述の割には,話は急速にしょぼくなる。「24時間社会」をやめるとか「匠の技」を活かすとか,そういうことでどうにかなるようなものではないという話が多く,とくに年金,医療,介護,地域支援,そして財政をどう持続的なものにするかに話が及んでいないので何ともならない。しかし,これも前半のリアリティと後半のしょぼさのコントラストによって,対策を考えることの難しさを思い知らされるという思わぬ効果がある(狙ってこのように書いたのだとすれば見事な自爆精神である)。

 そういうわけで,議論の入り口として使うには,たいへんよい本だと思う。

河合雅司(2017)『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』講談社。
「イギリスのテレビ局も驚愕した日本の『国難レベルの人口減少』」講談社,2018年2月10日。

2018/2/12 Facebook投稿を転載。

2019年7月7日日曜日

アンドリュー・ロス・ソーキン『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』を読んで(2014/4/6)

 アンドリュー・ロス・ソーキン『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』(原題Too Big to Fail)は、タイトルの通り2008年のリーマンショックのさなかに、経営危機に陥った金融機関や連邦政府、連邦準備銀行の関係者やそれに連なる人々が何を思い、どのように行動し、どのような帰結に至ったのかを追跡したルポルタージュだ。つまり、ポールソン財務長官、バーナンキFRB議長、ガイトナーNY連銀総裁(いずれも当時)や、リーマン・ブラザーズ、モルガン・スタンレー、ゴールドマン・サックスの経営者たちが登場人物のドラマである。アメリカ経済と金融の研究から遠ざかって久しい私は(※)、仕事としてでなく、息抜きとして寝る前や休日に読んでいたが、文庫版上下で940ページをまったく退屈せずに読んだ。

 本書では、書類は乱れ飛び、メールは行き交い、電話は鳴り、ブラックベリーでメールが交換され、罵声は飛び交い、スーツやステーキや自家用ジェットや専用車や会議室は登場する。しかし、恐慌によって家を失い、職を失い、生活の糧を失う人々の姿は、(クビになったリーマンなどの経営者を除けば)、本書には直接には全く登場しない。しかし、ここで起こっていることから無数の人々が影響を受けていることは示されているし、まさにそれが現実だ。

 本書でのエリートたちの息詰まるやり取りに世界の命運がかかっているということは確かなら、全体として馬鹿げたしくみに世界が委ねられているということも確かなのだと、私は思う。優れた知性と行動力を示す人々のやり取りは魅力的であるが、もし人類より優れた知性を持つ宇宙人が観察していたら、「いったい、こいつら何をやってるんだ」と言うだろうなとも思う。

 ちょっとだけ具体的な点。アメリカ政府と言えども金融機関の経営や合併に介入する。その仕方が具体的にわかって面白い。会議室に金融機関のCEOを集めて脅すという、19世紀のようなやり方が、いざというときは21世紀でも起こるのだ。さらに細かい点を言うと、ポールソン財務長官が介入するのはわかるとして、ガイトナーNY連銀総裁が、金融機関同士の合併を促すために経営者に電話するというのには驚いた。

※大学院でごいっしょした方以外には信じがたいかもしれないが、私の修士論文は「1970年代以降のアメリカにおける企業合併運動」であった。

アンドリュー・ロス・ソーキン(加賀山卓朗訳)『リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上)追い詰められた金融エリートたち』早川書房,2012年。
アンドリュー・ロス・ソーキン(加賀山卓朗訳)『リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上)倒れゆくウォール街の巨人』早川書房,2012年。





田中隆之『総合商社の研究』が指摘する産業調査の意義(2014/4/27)

 田中隆之『総合商社の研究』。明日の大学院ゼミに備えて通読した。総合商社の概念,戦前,戦後の歴史と現在,研究史についてコンパクトにまとめられている。おそろしく便利で,おそろしくわかりやすい。こんなにきれいにまとまっていていいものだろうかと,かえって不安になるのだが,それは,単に私の性格がひねくれているからか。専門家の意見を聞きたい。

 商社論としての評価とは別に,著者が「おわりに」で以下のように述べていることには,大いに共感する。

「高度成長期以降,1990年代までの日本では,長期信用銀行3行,そして日本開発銀行(現日本政策投資銀行)など政府系金融機関の調査部,産業調査部が,わが国の産業調査を担っていた。それは,個別の産業・業界を長期的,構造的な観点から調査し,将来展望を行うという性格のもので,現在の証券アナリストが行う,主として短期の業績調査などとは一線を画するものであった。しかし,バブル崩壊後の金融危機を経て,長信銀が業態として姿を消し,政府系金融機関も民営化や統合で縮小するに及び,かつてのスタイルの産業調査は,ほとんど日本から姿を消してしまった。
 今回,はからずも私が書かせていただいた本書は,まさにこのスタイルの産業調査そのものであるといってよい。あらゆる産業・業界において,その来し方行く末を客観的な眼で見つめることは,将来の発展のために不可欠である。もはや産業調査を体系的,継続的に行う担い手は存在しないが,今回のようなアドホックな形においてでも,産業調査が『復活』することを強く望むものである」。

 ただ一点のみコメントしたい。大学の研究者も産業調査を行ってきた。それは今も生きている。大学教員となった著者が発表したこの本のように。

田中隆之『総合商社の研究:その源流,成立,展開』東洋経済新報社,2012年。

2019年7月6日土曜日

古田足日氏の逝去によせて(2014/6/10)

「そうじゃないわ。待ってても未来はこないのよ」
と、ミドリがいった。
「だって、十年したら、十年先のことがやってくるじゃないか?」
「ほおっておけば、来るのはいまのつづきだけよ。」
--『ぬすまれた町』より

 古田足日『宿題ひきうけ株式会社』は,その意表を突く題名とアイディアで有名である。子どもたちが小遣い稼ぎのためにつくったこの会社の経営は,順調に発展したが,やがてその存在が学校に露見して解散させられる。その後,いじめっ子とたたかうやら,地元電機メーカーの電子計算機(と昔は呼ばれていた)導入で兄弟が配置換えされ,同級生はソロバンで手に職をつけて就職するという夢が破れるやら,「月世界旅行ができるようになっても,月までの切符はずいぶん高いんじゃないかしら?」とつぶやくやら何やらで,何が本当に大事かと考えたあげく,主人公たちは「宿題ひきうけ株式会社」を「試験・宿題なくそう組合」として再組織する(えっ!)。

 『モグラ原っぱの仲間たち』は,原っぱに集まる子どもたちの日常を描いた作品だが,最後に原っぱが団地開発のために造成されてなくなってしまう。主人公たちは切り倒されようとする木の上に籠城し,かけつけた市長に遊び場をなくさないでと夜中まで交渉する。その結果,ほんの小さな公園,その中の小さな林,小さな丘が団地の片隅に実現する。子どもたちは「こんなものしかできなかったのか」と悔しがるが,仲間の一人が「でも私たちががんばらなかったら,もっと小さな公園しかできなったかもしれないんですもの」と慰める。

 上記の叙述に好感を持つ人も違和感を持つ人もおわかりのように,古田足日の一部の作品は,高度成長期の労働運動や住民運動を背景としている。したがって,いま,大人が読んだら好き嫌いが分かれるであろうことは予想される。日本中の子どもたちが海賊旗を掲げて,「宿題反対!試験反対!」とデモをすることを夢想するシーンもある。さすがに自分が大学教員になってみると立場上困るし(笑),「ちょっと,ちょっと」と言いたくなるところもなくはない。

 しかし,古田作品は政治的勧善懲悪劇ではないし,そこが人気だったわけでもない。主人公たちは家族や学校や友人を通して社会の現実を知っていくが,だからといって家計の事情や,家族内の葛藤や,自分の容姿や,成績への鬱屈した思いはなくなるわけではなかった。彼/彼女たちのそれぞれは,あくまでも一人の子どもであり,真剣であったが無力であった。主人公たちは必ずしも成功せず,しばしば敗北して,動かしがたい大人たちの現実に唇をかんだ。それでも彼/彼女らは,徒手空拳で,見えない明日に向かって懸命に手探りし続けた。そういうところが私は好きだったし,また人気だったのだと思う。

※今では古田作品を自宅に持っておりませんので,ストーリー,設定は記憶によっています。まちがっていたらすみません。また冒頭の台詞は「ゆかちゃんのbook review」(http://yukareview.jugem.jp/?eid=105)から孫引きさせていただきました。

「古田足日さん死去、86歳 絵本「おしいれのぼうけん」の児童文学作家、評論家」Huffington Post, 2014年6月9日。

2019年5月27日月曜日

バーリ&ミーンズ『現代株式会社と私有財産』誤読の歴史:森杲氏の新訳刊行に寄せて(2014/6/25)

 北海道大学図書刊行会から宣伝ハガキが来るまで気がつかなかったのだが、バーリ&ミーンズ『現代株式会社と私有財産』(The Modern Corporation and Private Property)が森杲先生の新訳によって新たに刊行された。従来の訳は1958年に出版されたものだが、超直訳調でどうも危なっかしく、原著を脇に置きながらでないと使えなかった。本に対する丁寧な読解では、森先生の右に出る者はいないと私は思っているので、新訳には大いに期待が持てる。

 バーリ&ミーンズと言えば、アメリカの巨大株式会社で「所有と経営の分離」と「経営者支配」が生じたことを示した本として知られている。しかし、この理解はまちがってはいないが正確ではない。バーリ&ミーンズが強調したのは「所有と支配の分離」の様々なバージョンであり、「経営者支配」はその極限である。

 もっと問題なのは、バーリ&ミーンズが「経営者支配の下では経営者は様々なステークホルダーに所得を割り当てる中立的テクノクラシーになった」と主張したと理解されていることだ。これはまったくの誤読だ。

 バーリ&ミーンズが主張したことはこうだ。「所有と支配の分離のもとで、支配者(経営者など)は自己利益を追求している。しかし、企業利潤を支配者が得ることは正当化できない。さりとて所有者(支配を失った株主)が得ることも、もはや正当化できない。こうなったら、支配の機能は、利潤を独り占めするのではなく、様々なステークホルダーに所得を割り当てる中立的テクノクラシーに変わる「べき」だ。そうならないと株式会社は存続できない」ということである。

 私が大学院に入って最初に公表した論文は、実はこの点に関するものであった。新訳を注文しながら、苦い思い出がよみがえった。着眼点はよかったと思う。しかし、身の程知らずであった。『資本論』の株式会社論をベースに、マルクス経済学内部の論争に関与する形で書いたためにわかりにくくなり、その上、自己主張を焦るあまり、説明不足の、穴だらけの論文となった。

 書いた後、語学的素養も教養もない自分には、(古典的で数理化されていないマルクス経済学の範囲でも)理論研究は無理だと悟った。まだしばらく、あきらめの悪い、妙な書き方の論文が続くのだが、まるきり理論・学説の論文を書いたのはこのときだけである。

 バーリ&ミーンズがなぜ「変わるべきだ」と規範論を主張したかについては、私の論文でも解釈しているが、わかりにくい。今回の新訳には森杲先生の長い解説がついているようなので、きっとそこに載っているであろう。まだ届かないが、読むのが楽しみだ。

拙稿「バーリ&ミーンズ『近代株式会社と私有財産』批判の方法的視点」はこちらでダウンロードできます


ロベルト・アンプエロ『ネルーダ事件』(2014/6/28)

ロベルト・アンプエロ『ネルーダ事件』。アジェンデ政権末期のチリ。キューバから来た男カジェタノは,詩人パブロ・ネルーダからある医者を探してほしいとの依頼を受ける。にわか探偵となったカジェタノは,メキシコへ,キューバへ,東ドイツへ,ボリビアへと飛び回ることになる。ネルーダの目的は政治工作でもなければ,自身のがんの治療法でもない。それでは,いったい……というような話。

 ネルーダの壮絶なパートナーとっかえひっかえ人生って,研究者には常識なのでしょうが,私,知りませんでした。

 チリでは「9・11」と言えば2001年のあれではなく,1973年9月11日,選挙で選ばれたサルバドール・アジェンデ政権をピノチェト将軍率いる軍部がクーデターで崩壊させたことを指すのだそうです。

2019年5月23日木曜日

ほとんどは途中で倒れてしまうけど:内海愛子・大沼保昭・田中宏・加藤陽子『戦後責任 アジアのまなざしに応えて』によせて(2014/7/14)

内海愛子・大沼保昭・田中宏・加藤陽子『戦後責任 アジアのまなざしに応えて』岩波書店,2014年で最も印象に残った言葉。

「ただ、市民運動ってそういうものなんですね。当事者の思いを実現するため、箱根駅伝みたいに、自分に課せられた--神様が課すんでしょうかね--区間というか期間をとにかく走り続けて次の走者にたすきを渡していく。ほとんどは途中で倒れてしまうけど、ごく稀にゴールインできる人もいる。そういうものなんじゃないんでしょうか」(大沼、178頁)。

 本書は、何が正しいかを学者があれこれ論じただけの対談集ではない。朝鮮人のBC級戦犯や台湾人元日本兵やサハリン残留朝鮮人や従軍慰安婦について、実際の政治的・司法的・行政的・外交的措置を実現するために奔走した記録だ。そのため、物事は一筋縄ではいかず、駆け引きも妥協もあるし、挫折も多い。「実現してナンボ」という言葉が飛び交い、ひたすら正義を叫ぶだけで実効ある措置に結びつかない主張は、むしろ批判されている。

 私は本書の主張内容の是非や、右か左かということとは別に、大沼氏の言葉を紹介したかった。この言葉が示すのは、社会において、権力を持たないものが何かを実現することの途方もなさであり、限りある個人がそこに関わることに伴う宿命だ。たいていの場合、人は途中までしか行けない。にもかかわらず、行こうとする人もいる。立派だから見習おうというのではない。ただ、そういう風に生きようとする人もいるということは、覚えておきたい。