2024年1月10日水曜日

池田嘉郎『ロシア革命 破局の8か月』岩波新書,2017年を読んで (2017/2/21)

  先月発売された池田嘉郎『ロシア革命 破局の8か月』岩波新書。私には,本書の記述は非常に重い。

 私は,学生時代に『レーニン全集』やジョン・リード『世界を揺るがした十日間』などによってロシア革命史を学んだ。その後,私は産業の実証研究で食っていくようになったが,何をやっていても,考え方の根底においてマルクス経済学や社会主義思想の見直しを絶えず行わざるを得なかった。それに伴って,ロシア革命史の見直しも必要であった。集権的計画経済や,スターリンの恐怖政治や,内戦期にレーニンやトロツキーが行った過酷な弾圧についての頭の整理はできていたつもりだが,二月革命から十月革命までの臨時政府を主な対象とした本書の記述は,私の認識をまた揺るがすものだった。

 個人的なことを離れても,本書はおそらく多くの人にとって重い。

 本書の問題提起は多様で錯綜しているが,私の読んだ限り,その核心はロシア革命の以下のようなジレンマだ。一方でエリートと隔絶し,経済格差にあえぎ戦場に駆り出されて怒りを蓄積させている労働者・農民・兵士に依拠しなければ,専制を倒し革命を遂行することはできなかった。しかし,大衆の憤激をただひたすら推し進めて「街頭の政治」をエスカレートさせるだけでは,専制にかえて確立しようとしていた自由と民主主義と経済運営自体が崩壊しかねなかった。臨時政府はこの矛盾のただなかに立って苦悩し,崩壊していった。それを倒したボリシェヴィキの実験も,種々の側面はあれ,自由と民主主義を急速に,経済運営を紆余曲折の末に挫くものとなった。

 そして,著者は「あとがき」で言う。「ことはロシアだけに限らない。民衆の価値観と社会上層の価値観とのギャップ,それによる社会秩序の動揺と混乱。こうしたことは,西欧とその白人入植地以外の地域が,西欧中心の世界秩序に組み込まれる際に,いたるところで起こったものである。のみならず,今日新たに,中東であれ,東欧であれ,旧ソ連諸国であれ,似たようなことは生じている。」

 その通りだ。そして,ことはそれだけに限らないのではないか。西欧に,アメリカに,日本に「似たようなことは生じている」のではないか。

2017/2/21 Facebookで限定公表

(2018/10/26に投稿しましたが,Bloggerでエラーが出てGoogleに認識されないため,再投稿します)

2021年10月18日月曜日

飯島敏宏監督はバルタン星人を侵略者で終わらせなかった

  以下は,2018年7月25日の午前0時57分にFacebookに投稿したものの転載です。飯島監督逝去の報を受け,哀悼の意を込めて掲載します。

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 52年前の今夜(厳密にはもう昨日)である,1966年7月24日。『ウルトラマン』第2話「侵略者を撃て」が放送された。宇宙忍者バルタン星人の登場である。

 「侵略者を撃て」は第2話だが,製作は第1話で,しかも製作中はまだ第1話のシナリオが固まっていなかった。そのため,脚本を千束北男の名前で書き,監督も務めた飯島敏宏氏は,このドラマがどういうものなのかをつかみかね,ストーリー進行も演出も手探りで行わねばならなかった。つまり,いまの視聴者なら知っている,宇宙人や怪獣が出現して地球を守る防衛隊が攻撃し,ついに力及ばずにピンチに陥ると謎の巨大ヒーローが現れ,敵を倒して大団円といった黄金パターンがまったく存在しない状態で,その脚本と演出を最初に本番として構築したのが飯島監督だったのだ。私はこの黎明期のたいへんさを,飯島監督のご本で初めて認識した。

 面白いことに「侵略者を撃て」には,その後,上記のような黄金パターンになった部分の他に,いろいろな試行錯誤による特異な部分がある。特撮シーンにもあるのだが,ここで注目したいのはストーリーだ。

 科特隊のムラマツキャップは,科学センターを占拠したバルタン星人に対して,「話し合いをしてみようと思います」と言い,防衛会議で呆れられる。そして,アラシ隊員に憑依したバルタンの口からは,彼らの星が「発狂した科学者の核実験」(原文ママ)がもとで死滅してしまったという悲劇が語られる。

 さらに,「われわれは地球に住むことにする」というバルタンに,「よいでしょう」と言うハヤタ(ウルトラマン)。「君たちが地球の風俗習慣になじみ,地球の法律を守るならばそれも不可能ではない」。しかし,交渉は決裂する。「われわれは地球をもらう」と言って巨大化したバルタン星人はウルトラマンのスペシウム光線で倒される。

 この試行錯誤の展開において,飯島監督は核戦争の危機という冷戦下の時代背景を強く意識していた。バルタン星人という名称も,かつてバルカン半島が欧州の火薬庫と呼ばれたことからつけた名前だったのだ。ウルトラマンシリーズは,宇宙人をむやみに悪役と決めつけて即時攻撃するという話ばかりではない。そういうエピソードが多数派になってしまったことも否めない。しかし,原点において意識されていたのはファーストコンタクトの難しさであり,戦争の悲劇であり,それが抜き差しならぬ対立を誘発するということだった。

 飯島監督は,この時はサブタイトルの通りに侵略者を撃ちまくる。防衛会議では核ミサイル「はげたか」をバルタンに打ち込むことが提案される。場所は東京のど真ん中なのに。ムラマツは「はげたかで破壊できなかったら」と問うものの,核兵器を東京で使用した場合の破壊や放射線被害は全く意識していない。あげく,巨大化したバルタンに対して本当に撃つ!繰り返すが,核ミサイルを東京のど真ん中のビル街で!それでもバルタンは死なない。一大事だ。いや,他にもかなり一大事になっているのではないかと思うところだが,何しろ侵略者との戦争だ。

 あげく,巨大バルタンを倒したウルトラマンは,地球への移住を図った20億3000万のバルタン星人が乗っている宇宙船を透視能力で発見し,これを宇宙へ運び去り,爆破処分する。20億3000万は侵略者として皆殺しだ。

 抜き差しならぬ戦いになればこうなるだろう。飯島監督はそう思って演出したのかもしれない。しかし,そこで話は終わらなかった。飯島監督は,その後もバルタン星人を画面に登場させる。ウルトラマン第16話「科特隊宇宙へ」では製作サイドの要望でやむを得ず出したのだそうだが,その後は,自ら,繰り返し繰り返し登場させる。産業活動によって自らの星を亡ぼしてしまった悲劇の宇宙人として。そして,地球を再び襲うときは,「人間も同じことをしているのではないか」と問いかける存在として。

 2006年2月。『ウルトラマンマックス』第33,34話「ようこそ!地球へ」は,飯島氏が脚本,監督を手掛けた,これまでのところ最後のバルタン星人のストーリーだ。ここではバルタン星人内に過激派と穏健派が存在する。過激派ダークバルタンの地球侵略計画を察知した穏健派のタイニーバルタンは地球の危機を救いにやってくる。タイニーバルタンは自らの姿を醜いと言い(あの姿は戦闘服でなく身体なのだ),「ぼくたちバルタン星人が,こんなみじめな進化をしなければならなかったのは,繰り返された核戦争の結果なのです」「ダークバルタンは地球を侵略しようとしているけど,穏健派バルタンは,自分たちの破綻したバルタン星を修復しようと努力しているんだ」と語る。そして,あっさりと美少女に変身し,動揺する田舎の少年とともにダークバルタンの計画を阻止しようと行動する。まあ,このあたりは平成の番組だ。

 経過は省くが,結局美少女,いやタイニーバルタンは,ウルトラマンマックスを倒す勢いだったダークバルタンを,銅鐸の平和の波動で(佐々木守氏や実相寺昭雄監督も好んだ縄文文化論の影響か)説得することに成功する。バルタンたちは母星を再建すべくバルタン星に帰っていく。「自分たちの星に帰り,理想的な天体であったかつての美しいバルタン星を取り戻すために」。防衛隊DASHのヒジカタ隊長は言う。「互いに相手を理解すること,和み,平和。今,地球にとって一番必要なことだ」。

 バルタン星人が登場する個々の作品への評価は様々だろう。街中での核兵器ぶっぱなしもどうかと思うが,美少女が活躍して解決すればよいというものではないかもしれない。しかし,ここで確認したいのは,飯島敏宏監督はバルタン星人を,もともと侵略者として撃たれるだけの存在にしたくはなかったし,どうしてもそれで終わらせたくなかったということだ。地球人と和解し,母星の再建のために努力する。バルタン星人はそこにたどりついたのだ。

飯島敏宏+千束北男『バルタン星人を知っていますか? テレビの青春,駆け出し日記』小学館,2017年。




2021年8月6日金曜日

『はだしのゲン』は語る。「日本帝国は侵略した。だからと言って原爆は許されない」と(2017/8/6)

  私は、20世紀初頭から1945年まで、大日本帝国は朝鮮半島や中国大陸や東南アジアのの人々に対して侵略国だったと考えています。帝国が滅亡したことによって日本は多大な犠牲を自ら払い,また他者に強要しながらも再生し,少なくともそれ以前よりは良い国になったと考えています。

 しかし,侵略国だから原爆を落とされても当然だとは思いません。アメリカの世論にこの見解が根強いこと,中国政府が,以前は違っていたのに近年はこの見解に傾斜していることはとても残念です。

 第2次大戦以前から、軍事目標と一般市民とを区別しない無差別攻撃は国際法違反でした。つまり、誰であろうとやってはならないことでした。まず、日本軍による重慶爆撃がこれにあたります。アメリカ政府は、重慶爆撃について正しく批判しながら、自らも広島、長崎において多くの市民を殺傷し、長く続く放射線障害で苦しめました。また、日本全土に対して都市無差別爆撃を行いました。これらの行為は、大日本帝国が侵略国であろうが真珠湾攻撃がだましうちであったろうが,許されることではなく、批判されるべきだと私は考えます。

 日本帝国は侵略した。だからといって原爆は許されない。私には,ここに何の無理もないように思われます。「おまえはだめだが,こっちは正しいから何をやってもいいんだ」史観,「やられたらやり返すのは当然だ」史観でものを見るからおかしくなるのではないでしょうか。

 『はだしのゲン』では,主人公たちは,そんな硬直した考えを持っていませんでした。ゲンは原爆で家族を奪ったアメリカの戦争政策を憎みますが,同時に自由を奪い,国民を戦争に動員した帝国の生活も憎みながら,懸命に生きていきます。このマンガは,戦争という行為の手触りを感じさせるとともに,その行為の背景に社会的ななりたちがあることを,小学生の私に教えてくれました。そしてまた,このマンガの迫力から,ものごとを人の手触りがない理屈だけで語っても人の心に響かないこと,さりとて大事なことを見失わないためには、気分や感覚だけでない洞察が必要であることをも思い知らされたのです(でも,結局こうして理屈を書きつづるばかりなのですが)。

2018/8/6 Facebook投稿。





2019年7月15日月曜日

きっとくる未来:河合雅司『未来の年表』を読んで(2018/2/12)

 河合雅司『未来の年表』講談社現代新書,2017年は2回読んだ。中央公論新社の「新書大賞」で2位になったとかで話題になっている。

 本書の前半は素晴らしい。このままいくと,何年には少子高齢化はどこまで進むか,その結果何が起こるか,が政府・自治体・シンクタンクのかなりまっとうなシミュレーションをもとに描かれている。私は,自らが何歳の時に日本がどうなっていて,その時,自分がまだ生きていればどのような位置にいるのだろうと想像しながら読んだ。その時,自分にかかわる人々もまたどうなっていて,その人たちにどういう影響が及ぶだろうという連想をかきたてられた。輸血用血液が不足した時にガンになったらどうなるだろうか(2027年,63歳),3戸に1戸が空き家になる時期に私が先に死んだら妻はこの家をうまく売れるだろうか(2033年,69歳),火葬場が不足するころ,私と妻の後に残った方が死んだら,誰が火葬の手配をしてくれるだろう(2039年,75歳),高齢者人口がピークに達した時,政治において世代間対立はどうなっているだろうか(2042年,78歳)。自分の足元からつながっている,輝かしくはない未来を見せてくれるというか,突きつけてくれる。

 もちろん,その未来はあるところまでは変えられる。しかし,ある程度以上には変えられない。たとえば,これからいくら特殊出生率を上げたところで,人口減少自体は逆転できない。著者は,おおむね「まずまちがいなくこうなる」という範囲のことを書いているのだ。一部,単純化のすぎた項目や,著者の価値観からくる偏った心配(人口が減少した地域に外国人が住みついたら大変ダー,など。不便なら外国人も住まないよ)も少し入ってはいるが,少しだけだ。むしろ,リベラルや左派の人には,著者が『産経』の論説委員であることからといって食わず嫌いをしないことを勧める。

 ただ,後半にの対策提案に入ると,肩に力の入った叙述の割には,話は急速にしょぼくなる。「24時間社会」をやめるとか「匠の技」を活かすとか,そういうことでどうにかなるようなものではないという話が多く,とくに年金,医療,介護,地域支援,そして財政をどう持続的なものにするかに話が及んでいないので何ともならない。しかし,これも前半のリアリティと後半のしょぼさのコントラストによって,対策を考えることの難しさを思い知らされるという思わぬ効果がある(狙ってこのように書いたのだとすれば見事な自爆精神である)。

 そういうわけで,議論の入り口として使うには,たいへんよい本だと思う。

河合雅司(2017)『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』講談社。
「イギリスのテレビ局も驚愕した日本の『国難レベルの人口減少』」講談社,2018年2月10日。

2018/2/12 Facebook投稿を転載。

2019年7月7日日曜日

アンドリュー・ロス・ソーキン『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』を読んで(2014/4/6)

 アンドリュー・ロス・ソーキン『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』(原題Too Big to Fail)は、タイトルの通り2008年のリーマンショックのさなかに、経営危機に陥った金融機関や連邦政府、連邦準備銀行の関係者やそれに連なる人々が何を思い、どのように行動し、どのような帰結に至ったのかを追跡したルポルタージュだ。つまり、ポールソン財務長官、バーナンキFRB議長、ガイトナーNY連銀総裁(いずれも当時)や、リーマン・ブラザーズ、モルガン・スタンレー、ゴールドマン・サックスの経営者たちが登場人物のドラマである。アメリカ経済と金融の研究から遠ざかって久しい私は(※)、仕事としてでなく、息抜きとして寝る前や休日に読んでいたが、文庫版上下で940ページをまったく退屈せずに読んだ。

 本書では、書類は乱れ飛び、メールは行き交い、電話は鳴り、ブラックベリーでメールが交換され、罵声は飛び交い、スーツやステーキや自家用ジェットや専用車や会議室は登場する。しかし、恐慌によって家を失い、職を失い、生活の糧を失う人々の姿は、(クビになったリーマンなどの経営者を除けば)、本書には直接には全く登場しない。しかし、ここで起こっていることから無数の人々が影響を受けていることは示されているし、まさにそれが現実だ。

 本書でのエリートたちの息詰まるやり取りに世界の命運がかかっているということは確かなら、全体として馬鹿げたしくみに世界が委ねられているということも確かなのだと、私は思う。優れた知性と行動力を示す人々のやり取りは魅力的であるが、もし人類より優れた知性を持つ宇宙人が観察していたら、「いったい、こいつら何をやってるんだ」と言うだろうなとも思う。

 ちょっとだけ具体的な点。アメリカ政府と言えども金融機関の経営や合併に介入する。その仕方が具体的にわかって面白い。会議室に金融機関のCEOを集めて脅すという、19世紀のようなやり方が、いざというときは21世紀でも起こるのだ。さらに細かい点を言うと、ポールソン財務長官が介入するのはわかるとして、ガイトナーNY連銀総裁が、金融機関同士の合併を促すために経営者に電話するというのには驚いた。

※大学院でごいっしょした方以外には信じがたいかもしれないが、私の修士論文は「1970年代以降のアメリカにおける企業合併運動」であった。

アンドリュー・ロス・ソーキン(加賀山卓朗訳)『リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上)追い詰められた金融エリートたち』早川書房,2012年。
アンドリュー・ロス・ソーキン(加賀山卓朗訳)『リーマン・ショック・コンフィデンシャル(上)倒れゆくウォール街の巨人』早川書房,2012年。





田中隆之『総合商社の研究』が指摘する産業調査の意義(2014/4/27)

 田中隆之『総合商社の研究』。明日の大学院ゼミに備えて通読した。総合商社の概念,戦前,戦後の歴史と現在,研究史についてコンパクトにまとめられている。おそろしく便利で,おそろしくわかりやすい。こんなにきれいにまとまっていていいものだろうかと,かえって不安になるのだが,それは,単に私の性格がひねくれているからか。専門家の意見を聞きたい。

 商社論としての評価とは別に,著者が「おわりに」で以下のように述べていることには,大いに共感する。

「高度成長期以降,1990年代までの日本では,長期信用銀行3行,そして日本開発銀行(現日本政策投資銀行)など政府系金融機関の調査部,産業調査部が,わが国の産業調査を担っていた。それは,個別の産業・業界を長期的,構造的な観点から調査し,将来展望を行うという性格のもので,現在の証券アナリストが行う,主として短期の業績調査などとは一線を画するものであった。しかし,バブル崩壊後の金融危機を経て,長信銀が業態として姿を消し,政府系金融機関も民営化や統合で縮小するに及び,かつてのスタイルの産業調査は,ほとんど日本から姿を消してしまった。
 今回,はからずも私が書かせていただいた本書は,まさにこのスタイルの産業調査そのものであるといってよい。あらゆる産業・業界において,その来し方行く末を客観的な眼で見つめることは,将来の発展のために不可欠である。もはや産業調査を体系的,継続的に行う担い手は存在しないが,今回のようなアドホックな形においてでも,産業調査が『復活』することを強く望むものである」。

 ただ一点のみコメントしたい。大学の研究者も産業調査を行ってきた。それは今も生きている。大学教員となった著者が発表したこの本のように。

田中隆之『総合商社の研究:その源流,成立,展開』東洋経済新報社,2012年。

2019年7月6日土曜日

古田足日氏の逝去によせて(2014/6/10)

「そうじゃないわ。待ってても未来はこないのよ」
と、ミドリがいった。
「だって、十年したら、十年先のことがやってくるじゃないか?」
「ほおっておけば、来るのはいまのつづきだけよ。」
--『ぬすまれた町』より

 古田足日『宿題ひきうけ株式会社』は,その意表を突く題名とアイディアで有名である。子どもたちが小遣い稼ぎのためにつくったこの会社の経営は,順調に発展したが,やがてその存在が学校に露見して解散させられる。その後,いじめっ子とたたかうやら,地元電機メーカーの電子計算機(と昔は呼ばれていた)導入で兄弟が配置換えされ,同級生はソロバンで手に職をつけて就職するという夢が破れるやら,「月世界旅行ができるようになっても,月までの切符はずいぶん高いんじゃないかしら?」とつぶやくやら何やらで,何が本当に大事かと考えたあげく,主人公たちは「宿題ひきうけ株式会社」を「試験・宿題なくそう組合」として再組織する(えっ!)。

 『モグラ原っぱの仲間たち』は,原っぱに集まる子どもたちの日常を描いた作品だが,最後に原っぱが団地開発のために造成されてなくなってしまう。主人公たちは切り倒されようとする木の上に籠城し,かけつけた市長に遊び場をなくさないでと夜中まで交渉する。その結果,ほんの小さな公園,その中の小さな林,小さな丘が団地の片隅に実現する。子どもたちは「こんなものしかできなかったのか」と悔しがるが,仲間の一人が「でも私たちががんばらなかったら,もっと小さな公園しかできなったかもしれないんですもの」と慰める。

 上記の叙述に好感を持つ人も違和感を持つ人もおわかりのように,古田足日の一部の作品は,高度成長期の労働運動や住民運動を背景としている。したがって,いま,大人が読んだら好き嫌いが分かれるであろうことは予想される。日本中の子どもたちが海賊旗を掲げて,「宿題反対!試験反対!」とデモをすることを夢想するシーンもある。さすがに自分が大学教員になってみると立場上困るし(笑),「ちょっと,ちょっと」と言いたくなるところもなくはない。

 しかし,古田作品は政治的勧善懲悪劇ではないし,そこが人気だったわけでもない。主人公たちは家族や学校や友人を通して社会の現実を知っていくが,だからといって家計の事情や,家族内の葛藤や,自分の容姿や,成績への鬱屈した思いはなくなるわけではなかった。彼/彼女たちのそれぞれは,あくまでも一人の子どもであり,真剣であったが無力であった。主人公たちは必ずしも成功せず,しばしば敗北して,動かしがたい大人たちの現実に唇をかんだ。それでも彼/彼女らは,徒手空拳で,見えない明日に向かって懸命に手探りし続けた。そういうところが私は好きだったし,また人気だったのだと思う。

※今では古田作品を自宅に持っておりませんので,ストーリー,設定は記憶によっています。まちがっていたらすみません。また冒頭の台詞は「ゆかちゃんのbook review」(http://yukareview.jugem.jp/?eid=105)から孫引きさせていただきました。

「古田足日さん死去、86歳 絵本「おしいれのぼうけん」の児童文学作家、評論家」Huffington Post, 2014年6月9日。

2019年5月27日月曜日

バーリ&ミーンズ『現代株式会社と私有財産』誤読の歴史:森杲氏の新訳刊行に寄せて(2014/6/25)

 北海道大学図書刊行会から宣伝ハガキが来るまで気がつかなかったのだが、バーリ&ミーンズ『現代株式会社と私有財産』(The Modern Corporation and Private Property)が森杲先生の新訳によって新たに刊行された。従来の訳は1958年に出版されたものだが、超直訳調でどうも危なっかしく、原著を脇に置きながらでないと使えなかった。本に対する丁寧な読解では、森先生の右に出る者はいないと私は思っているので、新訳には大いに期待が持てる。

 バーリ&ミーンズと言えば、アメリカの巨大株式会社で「所有と経営の分離」と「経営者支配」が生じたことを示した本として知られている。しかし、この理解はまちがってはいないが正確ではない。バーリ&ミーンズが強調したのは「所有と支配の分離」の様々なバージョンであり、「経営者支配」はその極限である。

 もっと問題なのは、バーリ&ミーンズが「経営者支配の下では経営者は様々なステークホルダーに所得を割り当てる中立的テクノクラシーになった」と主張したと理解されていることだ。これはまったくの誤読だ。

 バーリ&ミーンズが主張したことはこうだ。「所有と支配の分離のもとで、支配者(経営者など)は自己利益を追求している。しかし、企業利潤を支配者が得ることは正当化できない。さりとて所有者(支配を失った株主)が得ることも、もはや正当化できない。こうなったら、支配の機能は、利潤を独り占めするのではなく、様々なステークホルダーに所得を割り当てる中立的テクノクラシーに変わる「べき」だ。そうならないと株式会社は存続できない」ということである。

 私が大学院に入って最初に公表した論文は、実はこの点に関するものであった。新訳を注文しながら、苦い思い出がよみがえった。着眼点はよかったと思う。しかし、身の程知らずであった。『資本論』の株式会社論をベースに、マルクス経済学内部の論争に関与する形で書いたためにわかりにくくなり、その上、自己主張を焦るあまり、説明不足の、穴だらけの論文となった。

 書いた後、語学的素養も教養もない自分には、(古典的で数理化されていないマルクス経済学の範囲でも)理論研究は無理だと悟った。まだしばらく、あきらめの悪い、妙な書き方の論文が続くのだが、まるきり理論・学説の論文を書いたのはこのときだけである。

 バーリ&ミーンズがなぜ「変わるべきだ」と規範論を主張したかについては、私の論文でも解釈しているが、わかりにくい。今回の新訳には森杲先生の長い解説がついているようなので、きっとそこに載っているであろう。まだ届かないが、読むのが楽しみだ。

拙稿「バーリ&ミーンズ『近代株式会社と私有財産』批判の方法的視点」はこちらでダウンロードできます


ロベルト・アンプエロ『ネルーダ事件』(2014/6/28)

ロベルト・アンプエロ『ネルーダ事件』。アジェンデ政権末期のチリ。キューバから来た男カジェタノは,詩人パブロ・ネルーダからある医者を探してほしいとの依頼を受ける。にわか探偵となったカジェタノは,メキシコへ,キューバへ,東ドイツへ,ボリビアへと飛び回ることになる。ネルーダの目的は政治工作でもなければ,自身のがんの治療法でもない。それでは,いったい……というような話。

 ネルーダの壮絶なパートナーとっかえひっかえ人生って,研究者には常識なのでしょうが,私,知りませんでした。

 チリでは「9・11」と言えば2001年のあれではなく,1973年9月11日,選挙で選ばれたサルバドール・アジェンデ政権をピノチェト将軍率いる軍部がクーデターで崩壊させたことを指すのだそうです。

2019年5月23日木曜日

ほとんどは途中で倒れてしまうけど:内海愛子・大沼保昭・田中宏・加藤陽子『戦後責任 アジアのまなざしに応えて』によせて(2014/7/14)

内海愛子・大沼保昭・田中宏・加藤陽子『戦後責任 アジアのまなざしに応えて』岩波書店,2014年で最も印象に残った言葉。

「ただ、市民運動ってそういうものなんですね。当事者の思いを実現するため、箱根駅伝みたいに、自分に課せられた--神様が課すんでしょうかね--区間というか期間をとにかく走り続けて次の走者にたすきを渡していく。ほとんどは途中で倒れてしまうけど、ごく稀にゴールインできる人もいる。そういうものなんじゃないんでしょうか」(大沼、178頁)。

 本書は、何が正しいかを学者があれこれ論じただけの対談集ではない。朝鮮人のBC級戦犯や台湾人元日本兵やサハリン残留朝鮮人や従軍慰安婦について、実際の政治的・司法的・行政的・外交的措置を実現するために奔走した記録だ。そのため、物事は一筋縄ではいかず、駆け引きも妥協もあるし、挫折も多い。「実現してナンボ」という言葉が飛び交い、ひたすら正義を叫ぶだけで実効ある措置に結びつかない主張は、むしろ批判されている。

 私は本書の主張内容の是非や、右か左かということとは別に、大沼氏の言葉を紹介したかった。この言葉が示すのは、社会において、権力を持たないものが何かを実現することの途方もなさであり、限りある個人がそこに関わることに伴う宿命だ。たいていの場合、人は途中までしか行けない。にもかかわらず、行こうとする人もいる。立派だから見習おうというのではない。ただ、そういう風に生きようとする人もいるということは、覚えておきたい。