ラベル 特撮 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 特撮 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年10月18日月曜日

飯島敏宏監督はバルタン星人を侵略者で終わらせなかった

  以下は,2018年7月25日の午前0時57分にFacebookに投稿したものの転載です。飯島監督逝去の報を受け,哀悼の意を込めて掲載します。

ーー
 52年前の今夜(厳密にはもう昨日)である,1966年7月24日。『ウルトラマン』第2話「侵略者を撃て」が放送された。宇宙忍者バルタン星人の登場である。

 「侵略者を撃て」は第2話だが,製作は第1話で,しかも製作中はまだ第1話のシナリオが固まっていなかった。そのため,脚本を千束北男の名前で書き,監督も務めた飯島敏宏氏は,このドラマがどういうものなのかをつかみかね,ストーリー進行も演出も手探りで行わねばならなかった。つまり,いまの視聴者なら知っている,宇宙人や怪獣が出現して地球を守る防衛隊が攻撃し,ついに力及ばずにピンチに陥ると謎の巨大ヒーローが現れ,敵を倒して大団円といった黄金パターンがまったく存在しない状態で,その脚本と演出を最初に本番として構築したのが飯島監督だったのだ。私はこの黎明期のたいへんさを,飯島監督のご本で初めて認識した。

 面白いことに「侵略者を撃て」には,その後,上記のような黄金パターンになった部分の他に,いろいろな試行錯誤による特異な部分がある。特撮シーンにもあるのだが,ここで注目したいのはストーリーだ。

 科特隊のムラマツキャップは,科学センターを占拠したバルタン星人に対して,「話し合いをしてみようと思います」と言い,防衛会議で呆れられる。そして,アラシ隊員に憑依したバルタンの口からは,彼らの星が「発狂した科学者の核実験」(原文ママ)がもとで死滅してしまったという悲劇が語られる。

 さらに,「われわれは地球に住むことにする」というバルタンに,「よいでしょう」と言うハヤタ(ウルトラマン)。「君たちが地球の風俗習慣になじみ,地球の法律を守るならばそれも不可能ではない」。しかし,交渉は決裂する。「われわれは地球をもらう」と言って巨大化したバルタン星人はウルトラマンのスペシウム光線で倒される。

 この試行錯誤の展開において,飯島監督は核戦争の危機という冷戦下の時代背景を強く意識していた。バルタン星人という名称も,かつてバルカン半島が欧州の火薬庫と呼ばれたことからつけた名前だったのだ。ウルトラマンシリーズは,宇宙人をむやみに悪役と決めつけて即時攻撃するという話ばかりではない。そういうエピソードが多数派になってしまったことも否めない。しかし,原点において意識されていたのはファーストコンタクトの難しさであり,戦争の悲劇であり,それが抜き差しならぬ対立を誘発するということだった。

 飯島監督は,この時はサブタイトルの通りに侵略者を撃ちまくる。防衛会議では核ミサイル「はげたか」をバルタンに打ち込むことが提案される。場所は東京のど真ん中なのに。ムラマツは「はげたかで破壊できなかったら」と問うものの,核兵器を東京で使用した場合の破壊や放射線被害は全く意識していない。あげく,巨大化したバルタンに対して本当に撃つ!繰り返すが,核ミサイルを東京のど真ん中のビル街で!それでもバルタンは死なない。一大事だ。いや,他にもかなり一大事になっているのではないかと思うところだが,何しろ侵略者との戦争だ。

 あげく,巨大バルタンを倒したウルトラマンは,地球への移住を図った20億3000万のバルタン星人が乗っている宇宙船を透視能力で発見し,これを宇宙へ運び去り,爆破処分する。20億3000万は侵略者として皆殺しだ。

 抜き差しならぬ戦いになればこうなるだろう。飯島監督はそう思って演出したのかもしれない。しかし,そこで話は終わらなかった。飯島監督は,その後もバルタン星人を画面に登場させる。ウルトラマン第16話「科特隊宇宙へ」では製作サイドの要望でやむを得ず出したのだそうだが,その後は,自ら,繰り返し繰り返し登場させる。産業活動によって自らの星を亡ぼしてしまった悲劇の宇宙人として。そして,地球を再び襲うときは,「人間も同じことをしているのではないか」と問いかける存在として。

 2006年2月。『ウルトラマンマックス』第33,34話「ようこそ!地球へ」は,飯島氏が脚本,監督を手掛けた,これまでのところ最後のバルタン星人のストーリーだ。ここではバルタン星人内に過激派と穏健派が存在する。過激派ダークバルタンの地球侵略計画を察知した穏健派のタイニーバルタンは地球の危機を救いにやってくる。タイニーバルタンは自らの姿を醜いと言い(あの姿は戦闘服でなく身体なのだ),「ぼくたちバルタン星人が,こんなみじめな進化をしなければならなかったのは,繰り返された核戦争の結果なのです」「ダークバルタンは地球を侵略しようとしているけど,穏健派バルタンは,自分たちの破綻したバルタン星を修復しようと努力しているんだ」と語る。そして,あっさりと美少女に変身し,動揺する田舎の少年とともにダークバルタンの計画を阻止しようと行動する。まあ,このあたりは平成の番組だ。

 経過は省くが,結局美少女,いやタイニーバルタンは,ウルトラマンマックスを倒す勢いだったダークバルタンを,銅鐸の平和の波動で(佐々木守氏や実相寺昭雄監督も好んだ縄文文化論の影響か)説得することに成功する。バルタンたちは母星を再建すべくバルタン星に帰っていく。「自分たちの星に帰り,理想的な天体であったかつての美しいバルタン星を取り戻すために」。防衛隊DASHのヒジカタ隊長は言う。「互いに相手を理解すること,和み,平和。今,地球にとって一番必要なことだ」。

 バルタン星人が登場する個々の作品への評価は様々だろう。街中での核兵器ぶっぱなしもどうかと思うが,美少女が活躍して解決すればよいというものではないかもしれない。しかし,ここで確認したいのは,飯島敏宏監督はバルタン星人を,もともと侵略者として撃たれるだけの存在にしたくはなかったし,どうしてもそれで終わらせたくなかったということだ。地球人と和解し,母星の再建のために努力する。バルタン星人はそこにたどりついたのだ。

飯島敏宏+千束北男『バルタン星人を知っていますか? テレビの青春,駆け出し日記』小学館,2017年。




2018年11月13日火曜日

鈴木美潮『昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか』集英社,2015年を読んで (2015/6/28)

 鈴木美潮『昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか』集英社,2015年。

 私は1970年代から80年代前半にかけて小中高生の感性を特撮番組に直撃され,人格形成上の多大な影響を受けてしまったのであるが,どうも著者も同世代で,同じ出来事に見舞われたようだ。私のこだわりはウルトラシリーズ中心で,続いて東映ものになるのに対し,彼女は(著者は女性である)仮面ライダーをはじめとする東映ものへの傾倒が強いようだ。

 驚いたのは,中高生当時,私が,誰にも理解してもらえずに一人で空回り的に憤っていたこだわりを,著者もまた日本のどこかで持っていたということだ。

 例えば,著者は『電子戦隊デンジマン』放映当時(1979-80年),「脚本家・曽田博久の作品にはまった15歳の筆者は,感想の手紙を送り,以後,文通を続けていた」という。彼女が本書でとりあげているのは第18話「南海に咲くロマン」,第34話「悲しい捨て子の物語」,第46話「腹ペコ地獄X計画」であり,また後番組『太陽戦隊サンバルカン』第11話「哀しみのメカ少女」である。これらは,すべて私の当時のこだわりと一致する。

『ウルトラセブン』の「超兵器R1号」とか「ノンマルトの使者」のような(その筋では)メジャーな話ではない。それなら当時でもクラス35名のうち5名ほどは理解した。再放送されていて,雑誌『宇宙船』や『ファンタスティック・コレクション』などのムック本で取り上げられていたからだ。しかし,『デンジマン』は当時のリアルタイム放送であり,また今と異なり戦隊ものは幼稚とされていたため,周囲の理解を得ることは不可能であった。しかし,著者はこれらの作品を愛し,脚本家と文通までしていたのだ。私より重症な人もいたのだ。

 著者は,特撮への思いをどこまでも貫く。19歳で米国に留学し,ホームシックと課題図書の重圧に苦しむが,ある日,「仮面ライダーは,怪人に殺されるかもしれないのに戦っている。私は命をとられるわけではないのに,何を甘ったれたことを言っているんだろう」と「開眼」する。以後,1日十数時間机に向かうようになって学士と修士を獲得,望み通りに新聞記者となる。これこそ,特撮オタクの鏡である。私は,彼女を心から尊敬する。

日本が「汚染列島」と呼ばれていた頃:『ファイヤーマン』の思い出 (2017/10/12)

 『ファイヤーマン』のサントラCDが出ていたと知り,買った。番組はマイナーだがCDは2枚組という中高年向け商売。作曲は『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンレオ』も手掛けた冬木透先生。1973年に円谷プロダクション10周年記念番組として『ウルトラマンタロウ』『ジャンボーグA』とともに放映されたが,視聴率は伸びず,30話で終了した。

 『ファイヤーマン』の苦戦は『サザエさん』の裏番組というこの上なく無謀な放映時間によるところもあったが,特撮番組乱立の当時,ウルトラシリーズとの差別化が今一つ十分でなく,またコンセプトやシリーズ構成の甘さもあったと思う。

 とはいえ,初期は‌人間の自然破壊に対する自然の側からの反動から事件が起こるという問題意識に導かれており,防衛チームは科学者からなるSAFでありながら,科学文明の帰結にしばしば戸惑う姿を見せた。俳優の中では,とくに水島隊員役の岸田森がしぶかった。岸田が自ら脚本を書いた第12話「地球はロボットの墓場」がもっとも有名であるが,私は第5話「ジュラ紀へ落ちた少年」も好きだ。

 だが,やはり家族の圧力に負けて『サザエさん』にチャンネルが合わせてあったのか,子どものころに視たことはほとんど覚えていない。若者のために補足すると,当時はビデオなどないので裏番組は見ることができない。その後中学時代,早朝に『ファイヤーマン』をやっていると知り,無理やり早起きしてカセットテープで録音の準備をして視たものだ。主題歌がどこかで聞いた声だと思ったら「およげ!たいやきくん」の子門真人だった。もう一度若者のために補足すると録画ではなく録音である。再三再四補足すると,当時はビデオもネット配信もないので,1度見逃すと何年も見られなくなる。それでもウルトラシリーズなら5年ほど待てばまた再放送されるが,『ファイヤーマン』となるとそうはいかない,現に,この中学時代の後,25年ほど見られなかった。そのため音だけを繰り返し聞き,「ジュラ紀へ落ちた少年」の水島隊員のセリフを覚えた。このCDを買ったときにアマゾンビデオで番組もネットレンタルされていることを知り,また10年ぶりくらいに見て確かめたが,おおむね正しかった。

「これはもっともおそろしいことなんですが,あのオレンジ色の液体は,雨が運んできた大気汚染物質が,凝縮されてできたと思われるんです」。

「今もどこかで,あのオレンジ色の液体は,雨となって降り続いているかもしれないんだ」。

 ときは1973年。番組中で日本は「汚染列島」と呼ばれていた。

ファイヤーマン MUSIC COLLECTION(作曲:冬木透,歌・子門真人)

2018年11月8日木曜日

ウルトラマンはハヤタと出会った (2014/7/10)

 7月10日は、1966年にウルトラマンが初めてテレビ画面に登場した日とのこと。

 しばしば誤解されているが、ウルトラマンは、地球を守るために光の国から派遣されたのではない。

 ウルトラマンは、地球に逃げてきた宇宙怪獣ベムラーを追いかけて来たのだが、誤ってハヤタ隊員の乗るジェットビートル機に衝突してしまった。ハヤタの生命を奪ってしまったことを申し訳ないと思い、ハヤタを生かすために一心同体となって、ついでに地球の平和のために働くことにしたのだ。つまり、交通事故の責任をとったのだ。

 最終回で、宇宙恐竜ゼットンに敗れてこときれそうになっているウルトラマンを、光の国の使者ゾフィーが迎えに来る。光の国に帰ろうというゾフィーに対してウルトラマンは言う。
「ゾフィー、私の身体は私だけのものではない。私が帰ったら、一人の地球人が死んでしまうのだ」
(ウルトラマン、お前はもう十分、地球のために尽くしたのだ。地球人は許してくれるだろう)
「ハヤタは立派な人間だ。犠牲にはできない。私は地球に残る」
(地球の平和は、地球人自身の手でつかみ取ることに意味があるのだ。ウルトラマン、いつまでも地球にいてはいかん)
「ゾフィー、それならば私の命をハヤタにあげて地球を去りたい」
(お前は死んでもいいのか)
「かまわない。私はもう2万年も生きたのだ。地球人の命は非常に短い。それに、ハヤタはまだ若い。彼を犠牲にはできない」
(ウルトラマン、そんなに地球人が好きになったのか。よろしい、私は命を二つ持ってきた。その一つをハヤタにやろう)
「ありがとう、ゾフィー」

 ウルトラマンは、「地球」のためではなく、「ハヤタ」という一人の地球人を好きになったために、自分の命を犠牲にしてもよいと言ったのである。ウルトラマンと地球人の交流は、初めからこのように描かれていた。異なる世界から来て出会った一つの命と、もう一つの命の出会いの物語としてだ。

 星と星としてでもなく、国と国としてでもなく、正義を守る星という大義名分と美しい緑の星という大義名分としてでもなく、一つの命と一つの命として、ウルトラマンとハヤタは出会った。私もそのように他の人と出会いたい。

※『ウルトラマン』最終回のセリフはすべて記憶によるものです。まちがっていたらすみません。

2022年7月。セリフの誤りを修正。

小中千昭『光を継ぐために ウルトラマンティガ』洋泉社,2015年を読んで (2015/2/22)

 1996年に放映が開始された『ティガ』は最初はかなりぼんやりした,何をしたいのかわからない感じで始まった。しかし,第3話「悪魔の預言」での,ウルトラマン=光と対極にある影の存在キリエロイドの登場で,本気でつくっていることは感じられ,続いて第5話「怪獣が出てきた日」で,迫力ある怪獣掃討作戦,マスメディアを通すことでリアル感が出た怪獣災害が描かれ,かなりいけるのではないかという気がした。その後,回を重ねるにつれて調子が上がって行ったが,私は,上記2本や第25話「悪魔の審判」,第34話「南の涯てまで」,第43話「地の鮫」などの傑作をものしている脚本家が小中千昭氏であることに気がついた。

 このあたりの背後にあった事情は本書で初めて理解できた。小中氏が番組に参加した時はすでに基本設定と右田万昌氏による第1・2話のシナリオはできていたそうで,氏は何本か個別の話を書くという姿勢で参加し,その後シリーズをまとめあげる立場に移行したそうだ。

 実際,シリーズが進むと,第1・2話を書き,円谷プロ社員ライターでもあった右田万昌氏の脚本にトンチンカンなものが目立ったが,そのことはスタッフ内でも理解されたのか,小中氏や長谷川圭一氏が要所要所をおさえるようになり,見事な最終回で締めてくれた(最後の2話は右田・小中・長谷川氏の共同執筆というクレジットだが,本書によれば小中氏が最後にまとめたそうだ)。

 「ウルトラマンはなぜ地球を守るのか」は,ウルトラシリーズ最大の難題の一つだ。佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』が政治問題にこじつけるというねじれた形で提起したこの問題に,私自身がずっとひっかかっていた。『ティガ』は,ウルトラマンは神でもなく,人間を守ってくれる他者でもなく,たった一人でたたかうべき者でもなく,地球に住む一人の存在であること,「人間は,みんな自分自身で光になれる」(最終回のダイゴ隊員の最後のセリフより)こと,しかしまた第44話のタイトルが示す「影を継ぐもの」にもなりうることを示して,この問題に一つの決着をつけてくれたように思う。私は当時そう思った。

小中千昭『光を継ぐために ウルトラマンティガ』洋泉社,2015年。

2018年11月5日月曜日

ゴジラと空母信濃 (2018/1/9)

 『特撮秘宝』Vol.7の大特集は「元祖ゴジラ,逝く」。初代『ゴジラ』から『ゴジラ対ガイガン』までゴジラのスーツアクターをつとめ,2017年8月7日に亡くなられた中島春雄さんの追悼特集だ。私が初めて見たゴジラ映画は『モスラ対ゴジラ』のリバイバルであり,その後,『三大怪獣地球最大の決戦』,『怪獣大戦争』,『ゴジラ対ヘドラ』などで中島さんのゴジラを視た。子ども心に「こわいゴジラ」から「人間に味方するゴジラ」への変遷をはっきりと感じ取った。その変化には賛否あれど,ゴジラはいつも身近にいた。それは,中島さんの素晴らしい演技があったからだったのだ。
 今回の特集を読んで驚いたのは,中島さんが空母信濃に乗られていたということだった。自叙伝『怪獣人生』洋泉社,2010年には記されていたそうだが不勉強にして知らなかった。信濃は,もともと大和型戦艦の3番艦として起工されたが,いったん建造が中断され,ミッドウェー海戦で日本海軍が4席の正規空母を喪失した後に,これを補うべく正規空母に変更されて建造された。中島さんは1944年3月,横須賀海軍工廠で信濃に配属され,公試運転で乗艦もされた。その後,艦に残る道もあったが海軍航空隊への転属を希望し,かなえられて横須賀を離れたという。ちなみに,当時横須賀には東北地方から宮城第一高等女学校や福島高等女学校の生徒が勤労動員に駆り出されており,軍人から信濃の話を聞いたり,実際に見かけたりした人もあったという。私の母より年上の方々である。
 信濃は就役後,空襲を避けるために呉に回航されることになり,その際,台湾の新竹航空基地に配備される予定の特攻兵器,ロケット機「桜花」を50機をも運んでいくことになった。1944年11月28日,信濃は桜花とその弾頭を積み,護衛の駆逐艦3隻とともに横須賀を出港したが,翌日午前3時30分,遠州灘の沖合でアメリカ海軍の潜水艦アーチャーフィッシュの雷撃により,4発の魚雷を受けて沈没した。1080人が救助され,1300人が死亡した。
 もし中島さんが信濃に残っていたら,その生命は1944年11月29日に奪われていたかもしれない。そうすれば,私は中島さんの演じるゴジラに出会うことはできなかった。私は,中島さんが戦争で命を奪われず,俳優として,スーツアクターとしての人生を送られたことに感謝する。中島さんの命を奪いかねなかった,戦争という行為に恐怖する。誠にありふれたセリフで申し訳ないが,ゴジラよりおそろしいのは人間だ。

参考:あまり専門的な戦史研究書を持っておらず,以下を使用。
鳥居民『昭和二十年 第一部5 女学生の勤労動員と学童疎開』草思社,1994年。

2018/1/9 Facebook
2018/1/11 Google+



昭和天皇は『ハワイ・マレー沖海戦』に何を思ったか (2016/8/29)

 円谷英二による精巧な特撮で知られる映画『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)。実は、昭和天皇はこの映画を1942年11月28日に鑑賞している(※1)。12月3日の公開に先駆けて、とくに天皇のために上映したのであろう。

 その時、天皇は何を思っただろうか。

 『ハワイ・マレー沖海戦』は言うまでもなく真珠湾攻撃とマレー沖海戦の戦果を誇る国策・戦意高揚映画だ。しかし、公開時点で、この映画は、戦局の実態を国民から隠ぺいする役割を背負わされていた。というのは、すでに1942年6月5日から7日にかけてのミッドウェー海戦で、日本海軍は正規空母4隻を失う惨敗に終わり、戦局は転換点を迎えていたからだ。

 では、大元帥である昭和天皇は、事実を知っていたのだろうか。

 実は、大本営は、天皇に対してもミッドウェー海戦の結果を偽って報告していた(※2)。6月10日に航空母艦1隻喪失、1隻大破(「加賀」と「蒼龍」)としていた。実際には沈んだ「赤城」と「飛龍」が無事であったかのように偽っていたのだ。昭和天皇は、国民と同様に、大本営発表に騙されて、海軍が快進撃を続けていると思い込んでいたのだろうか。

 そうではなかったのかもしれない。ミッドウェー海戦より少し前の4月18日、ドーリットル爆撃隊が初めて東京を空襲した。この時、米軍機は1機も撃墜されなかったのだが、東部軍司令部は午後2時に「9機撃墜」と発表した。その発表と同じ時刻に、杉山元参謀総長が天皇に空襲について報告している。ここでも虚偽の報告をしている可能性が高い。ところが、午後7時35分に防衛総司令官であった東久邇宮稔彦王が、杉山参謀総長の妨害をはねのけて「敵機は1機も撃墜できませんでした」と正直に報告したという(※3)。もしこの通りだとすれば、昭和天皇は、1942年4月の時点で、軍が不利な情報を自分に正確にあげて来ないことがあるのだと、気がついていたのかもしれない。

 「ハワイ・マレー沖海戦」における円谷英二の見事な特撮は、昭和天皇の心を高揚させただろうか。それとも、すでに戦局は変わっているのかもしれないという警戒心を抱かせただろうか。それとも、また別な思いを呼び起こしただろうか。もはや、明らかにすることは難しい。しかし、この映画が、昭和天皇の心を動かすという意味で、歴史に影響を与えた可能性については、想像してみる価値があるだろう。

※1:原武史『「昭和天皇実録」を読む』岩波新書、2015年、付録2頁。
※2:半藤一利・保坂正康・御厨貴・磯田道史『「昭和天皇実録」の謎を解く』文春新書、2015年、204頁。
※3:同上、205-207頁。

「ハワイ・マレー沖海戦」Wikipedia

2018年10月31日水曜日

「狙われた街」ラストシーンの起源は「遊星より愛をこめて」にあるのではないか? (2018/1/18)

 『ウルトラセブン』第8話「狙われた街」ラストシーンの起源は幻の第12話「遊星より愛をこめて」にある。

---
 『ウルトラセブン』のファンにおいて,第8話「狙われた街」のラストシーンはあまりにも有名である。

 他人がすべて敵に見えてくる薬物をタバコに仕込み,人間同士の信頼感を崩壊させて自滅に導こうとするメトロン星人。だが,その計画はウルトラ警備隊とウルトラセブンに暴露されて,失敗に終わる。星人が倒れ,美しい夕日が沈む工場地帯。そこにかぶさるナレーション。

「メトロン星人の地球侵略計画はこうして終わったのです。人間同士の信頼感を利用するとは恐るべき宇宙人です。でも,ご安心ください。このお話は,遠い,遠い未来の物語だからです。え,なぜですって?われわれ人類は今,宇宙人に狙われるほど,お互いを信頼してはいませんから」

 このナレーションは,架空の未来の事件から,その事件の前提である人間同士の信頼を達成していない現実を照射し,視聴者の足元を揺るがすものとして,長く語り継がれてきた。脚本はメインライターの金城哲夫氏。だが,いまでは資料調査により,このナレーションは脚本にはなく,実相寺昭雄監督が付け加えたものであることが知られている(※1)。ここまでは,すでに明らかにされていることだ。

 ここで問題提起したいのは,このナレーションの発想法は,第12話「遊星より愛をこめて」の脚本に起源をもつということだ。つまり,その執筆者である佐々木守氏のアイディアを起源として,実相寺監督が第8話に応用したものではないかということだ。このことは,第12話が欠番となったエピソードであり,あまり広く視聴されていないこと,関連出版物でも取り上げられないこともあって,これまで注目されてこなかった(しかしこの世界は奥が深いので,この論点に触れた評論もあるのかもしれない。ご存知の方は一方いただけると幸い)。

 まず,テクニカルな前提として,どうして第12話の脚本を第8話に応用できるのかという問題に触れておきたい。『ウルトラセブン』は制作順序と放映順序が異なっており,第12話は制作順序としては9番目,第8話は10番目である。そしてこの2話の本編は実相寺組によって同時に撮影されているのだ(※2)。

 その第12話冒頭には,このようなシーンがある。宇宙パトロールを行うアマギ隊員が「平日より若干多量の放射能を検出」と報告してきたのに対して,作戦室のフルハシ隊員が「放射能か。ついこの間まで,地球もその放射能で大騒ぎをしたもんだ」といい,アマギ隊員が「うん。原水爆の実験でな」,キリヤマ隊長が「しかし,地球上ではもうその心配はなくなった。地球の平和が第一だ」,そしてダンが「まったくですね」とつなぐのだ(※3)。

 もちろん,放映当時,つまり1967年の地球はそんな状態ではなかった。「遊星より愛をこめて」は,核戦争の危機を人類が克服した時代を架空の世界として設定しているのだ。地球では戦争の危機を克服し,個々の国の都合よりも地球の平和を第一とするようになった。そんな時代でさえも,宇宙戦争の危機はまだ去っていない。けれど,それを乗り越える努力も始まっている。かの欠番となった第12話で,実相寺監督はそのようなドラマを描き,まだ核戦争の危機を克服していない,この私たちの世界のありかたを照らし出そうとしたのだ。

 この,「架空の世界にすらある問題を描くことで,その前提さえも達成していない現実を照射する」という手法が「狙われた街」におけるラストナレーションと同じであることは,容易に看て取れる。とすれば,「狙われた街」を監督するに際し,実相寺監督は「遊星より愛をこめて」の脚本をヒントにナレーションを付け加えたのではないか。このように,私には思えるのである。もちろん,それは実相寺監督のオリジナリティを損なうものではない。近未来という『ウルトラセブン』の作品世界と現実との距離感をどうとるかについて,佐々木守氏が思いついた卓抜なアイディアを,実相寺監督は他の題材,他のテーマにも生かしたのであって,それは十分に創造的な行為である。

 ついでながら,このような距離感は,もともと『ウルトラセブン』を企画するさいに金城哲夫氏が構想していたものでもあった。金城哲夫氏は第1話「姿なき挑戦者』シナリオの余白に,「このシリーズのテーマ」と題して次のように書き残している(※4)。

 「人類の“平和”について良く語られる“完全平和”それはもし……という仮設(ママ)故に現実性のないものだが、宇宙人の侵略がもしそのドラマをつらぬくことによってそれ故に地球の平和が乱されるとすれば、仮定の“もし”が現実に与える力がないかしら」

 金城氏の構想や,シナリオに書き記したメモを佐々木氏や実相寺氏が知っていたかどうかはわからない。しかし,結果として,金城氏が期待していた「仮定の”もし”が現実に与える力」のあり方を,佐々木氏は具体化し,実相寺監督はそのより広範な適用を行ったと言えるのではないか。これが本稿が主張したいことである。

 さらに,もしこの主張が妥当だとすると,以下のような問題が派生することを述べておきたい。「狙われた街」のラストシーンが「遊星より愛をこめて」に起源をもつとするならば,「狙われた街」と「遊星より愛をこめて」を,セットで評価することが有意義かもしれないということだ。つまり「狙われた街」ラストナレーションを評価しようとする際には,同じ着想を持つ「遊星より愛をこめて」をどう見るかも問われてもおかしくない。「狙われた街」を高く評価する人は,「遊星より愛をこめて」についてはどう思うかと自然に尋ねられる可能性がある。そのような意味でも,「遊星より愛をこめて」については,欠番措置の是非とは別に,その内容を評価することが求められる。むしろ,内容の到達点と問題点に注目するためにこそ,欠番は解除されるべきなのだ(※5)。
 
※1 例えば,白石雅彦『「ウルトラセブン」の帰還』双葉社,2017年。156-158頁。
※2 このことは金田益美編著・円谷プロダクション監修『ウルトラセブン撮影日誌』復刊ドットコム,2017年,62-67頁で確認できる。
※3 このセリフもまた実相寺監督が付け加えた可能性を考慮して,「遊星より愛をこめて」のシナリオが収録されている佐々木守『故郷は地球 子ども番組シナリオ集』三一書房,1995年を確認したところ,シナリオに確かに含まれていた。佐々木氏の手によるものだろう(写真が現物。この本は大学図書館の相互利用システムを活用して神戸大学から取り寄せた。もちろん,本務ではないので私費で貸借料を支払った)。
※4 『ウルトラセブン フィルムストーリーブック SFヒーローのすばらしき世界』ファンタスティックコレクションNo.11,朝日ソノラマ,1979年。
※5 「遊星より愛をこめて」に対する私自身の見解は,拙稿「ウルトラセブン第12話「遊星より愛をこめて」放映50周年によせて」を参照してほしい。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/1250-20171218.html


ウルトラセブン第12話「遊星より愛をこめて」放映50周年によせて (2017/12/18)

 ウルトラセブン第12話「遊星より愛をこめて」(脚本:佐々木守,監督:実相寺昭雄,特殊技術:大木淳)。ニコニコ動画にあったので改めて視聴してみた(※)。このエピソードは「欠番」によってあまりにも有名になっているが,ここでは作品自体についての解釈を書いておきたい。ただし,それによって「欠番」の是非についてもコメントすることになる。本作品のストーリーや封印された経過は,丁寧に研究された12話会の「1/49計画サポートページ」の記述,安藤健二「『ウルトラセブン』第12話は、封印すべき作品だったのか? “アンヌ隊員”に聞いた」,Wikipedia「スペル星人」に依拠する。

 さて,結論から言うと,私はこのエピソードは,知的生命間の対立,戦争,共存を扱ったものとしてはかなりの奥行きをもって成立しているが,その契機としての核兵器,核戦争,被爆の扱いは,製作者の意図に反して乱暴になっていると考える。そのため,ストーリーとしての全体の完成度もいまひとつ高くないと感じる。その高くなさを相殺するほどに個々のパーツには圧巻の部分もあるのだが。

 実相寺監督の本編演出や,大木特撮監督の戦闘シーン演出はすばらしい(私には画面の切り方とか特撮の細かな部分を論じる力がないので,そこは語らない)。だから全体として決してつまらないわけではない。アンヌ隊員役のひし美ゆり子さんと,早苗役の桜井浩子さん(『ウルトラマン』のフジ隊員)の夢の共演があり,お二人とも実に美しい。

 そして,エピソードは,時計に見せた特殊な機器で地球人の女性から血液を奪おうとするスペル星人・佐竹を愛してしまった早苗の悲劇としては見事に成立している。そして,それに対比されるのはM78星雲から来たダンの存在であり,そのダンとアンヌが心を通わせていることだ。以下の二つのシーンに,このエピソードのテーマは凝縮されている。

 早苗たちを探しながらダンとアンヌが森林公園を歩くシーン。ダンとアンヌは私服であり,自分たちもデートを装っての尾行だが,似た設定の「狙われた街」よりも重みがある。それは,以下で述べるようにテーマにかかわった関係性だからだ。

アンヌ「ダン,静かね。」
ダン「ああ。」
アンヌ「宇宙全体がこんな静かな毎日を送る日が,いったいいつになったら来るのかしら。」
ダン「いつかわからない。でも,いつか必ず来る。来るよ。」
アンヌ「ええ。」

 そして,スペル星人が倒れ,夕日を前にしたラストシーン。

アンヌ「夢だったのよ。」
早苗「ううん,現実だったわ。あたし,忘れない決して。地球人もほかの星の人も同じように信じあえる日が来るまで。」
アンヌ「くるわ,きっと。いつかそんな日が。」
ダン(心の中で)「そうだ。そんな日はもう遠くない。だって,M78星雲の人間である僕が,こうして君たちといっしょに戦っているじゃないか。」

 森林公園のシーンでは,平和な日がいつ来るのかと疑問を投げていたアンヌが,ここでは「くるわ,きっと」と言い,また「いつかわからない」と言っていたダンがここでは「そんな日はもう遠くない」という。あれほどの悲劇があったのに,二人とも,一歩,平和の日の到来を早めている。それは強がりかもしれないがそれだけではない。ダンがここにいて,地球人とともに暮らしていることであり,またおそらくは誰よりもアンヌと心が通じ合っているからなのだ。佐竹と早苗は悲劇に終わったが,ダンとアンヌは違うかもしれない。このラストはそう暗示している。

 このラストは,悲劇のようでいて甘美でもある。きれいにまとめ過ぎと思う人もいるかもしれない。だが,ここにはしかけがある。この話は,放映当時の1967年の現実を想定していないのだ。

 冒頭で,宇宙パトロールを行うアマギ隊員が「平日より若干多量の放射能を検出」と報告してきたのに対して,作戦室のフルハシ隊員が「放射能か。ついこの間まで,地球もその放射能で大騒ぎをしたもんだ」といい,アマギ隊員が「うん。原水爆の実験でな」,キリヤマ隊長が「しかし,地球上ではもうその心配はなくなった。地球の平和が第一だ」,そしてダンが「まったくですね」とつなぐ。もちろん,1967年の地球はそんな状態ではなかった(2017年の地球もそうだ)。「遊星より愛をこめて」は,戦争の危機を人類が克服した時代の話なのだ。
 そう。これは「狙われた街」のラストのナレーションと同じだ。実相寺監督は,「遊星より愛をこめて」を「遠い遠い未来の物語」として設定したのだ。ようやく地球では戦争の危機を克服し,個々の国の都合よりも地球の平和を第一とするようになった。そんな時代でさえも,宇宙戦争の危機はまだ去っていない。けれど,それを乗り越える努力も始まっている。実相寺監督は,そのような世界を描いて,まだそこまでも行っていない,この私たちの世界のありかたを照らし出そうとしたのだ。

 ここまでが「遊星より愛をこめて」の達成に関する私の解釈だ。

 さて,その上での問題。まず,気を付けてほしいことが二つある。一つは,上記のストーリーは,核兵器と放射能による健康被害という契機を用いなくても,人類あるいは別の知的生命体をを滅ぼす全面戦争をイメージさえすれば,十分成り立っているということだ。放射能の話をしなくてもよかったはずなのだ。

 もう一つは,このエピソードではスペル星人は単なる倒すべき侵略者として位置づけられていることだ。戦争の悲劇を描いてはいるが,基本的に地球人が被害者,宇宙人が加害者という二項対立の中にある。そのため,抜き差しならない深刻な利害対立や,不幸なすれ違いから戦争を招くことが,深くとらえられていない。これは第6話「ダーク・ゾーン」のペガッサ星人や第11話「魔の山へ飛べ」のワイルド星人の置かれた状況や,彼らの姿勢と比べると明らかだろう。ペガッサ星人は自らの宇宙空間都市が地球に衝突するのを回避するために地球爆破を計画し,ワイルド星人は肉体の衰弱によって滅びるのを避けたいために地球人の生命を生命カメラで持ち去ろうとする。もちろん,それも手前勝手だ。だがペガッサ星人は衝突を回避できる可能性に賭けてアース・ボムを地球に打ち込む時間を遅らせ,ワイルド星人は非難されると「わかっている」と認め,そして「だが,地球人に頼んでも,われわれの気持ちはわかってもらえないだろう」と訴えた。しかし,スペル星人は自らの都合のためには地球人の生命を何とも思わない。

 より具体的に,スペル星人の扱い方が問題になるのは,おそらく3点だろう。まず,スぺリウム爆弾実験で放射線を浴び,血液が著しく侵されたスペル星人を単なる悪者として設定し,その立場,論理,地球人との間での葛藤をまったく描かなかったことだ。第二に,そのデザインを,いかにもケロイド状の皮膚を持つものにしたことだ。このデザインは,当初のカブトムシのような姿という構想を実相寺監督が変更したものであり,美術の成田亨氏は「真っ白い服にケロイドをつけてくれないかというのが、演出の実相寺昭雄氏からの注文でした。これは、ウルトラ怪獣に対する私の姿勢に反するのでやりたくありませんでした」と述べている(『成田亨画集ウルトラ怪獣デザイン編』(朝日ソノラマ,1983年)を,Wikipedia「スペル星人」より孫引き)。第三に,スペル星人の別名に「ひばく星人」とつけたことであり,この名称が書かれた怪獣カードが『小学二年生』1970年11月号の付録として発行されたことが欠番に至る批判の直接の起点となった。「ひばく星人」は番組内では文字,音声として述べられないが,円谷プロ公式設定であった(Wikipedia「スペル星人」による)。

 スペル星人が地球人の血液を欲する状況と彼ら自身の考え方,ポリシーを肉付けし,佐竹と早苗の関係を一方的にだましだまされるものでなく,もう少し書き込んでいれば(「君の血液を奪うために近づいたのに,君を愛してしまった,ああ,どうしよう」というようなありきたりなものにしろということではないが)良かったと思う。しかし,制作されたエピソードは,早苗にとっての悲劇であったが,そこで,スぺリウム爆弾で被爆し,血液を侵され,ケロイドを負ったスペル星人は単なる悪者として描かれた。これではスペル星人の悲劇としては成り立っていない。そして,被爆者と,その被った放射能被害に対して無神経な取り上げ方と言わざるを得ない。

 この問題について,当時の批判者が「遊星より愛をこめて」を視ずに「ひばく星人」という名称に反応して抗議したと言われ,そのことについて現在のファンからの反発は非常に強い。だが私は,「遊星より愛をこめて」を見た上でこう言いたい。このエピソードは知的生命間の対立と戦争,共存というテーマを真摯に扱ったものの,その契機としての核兵器による健康被害については,取り上げ方が不用意だったと思う。「遊星より愛をこめて」には,傑作と呼べる側面もあれば,確かに被爆者と被爆に対して乱暴な扱いもある。むろん,脚本の佐々木守氏や監督の実相寺昭雄氏の意図したところではないだろうが,作品の構造は,そのように解釈される余地を大いに持っているのだ。

 ここでようやく「欠番」問題にふれる。私は「遊星より愛をこめて」を欠番にすべき理由はないと思う。基本的にどんな作品も公表されたうえで自由に評価されるべきだからだ。確かにそれも無条件ではない。放送は一種の社会的パワーを持っているから,放送の権利を行使することが、自由な評価と交流の前提である他者の基本的人権に破壊的に作用するような場合は放送が許されないという放送倫理はあってしかるべきだ。その上で言えば,このエピソードがそのような意味での放送倫理に触れているとは思えない。問題を含めて自由に論評し合うべきであり,またそのようにした方が問題の存在やその性質も明らかになるだろう。平和と共存というテーマを掘り下げた時に,こういう不用意な扱いが紛れ込んでしまうのはどうしてなのかを考えるには,作品が公開されていなければならない。だから,私は「遊星より愛をこめて」が公開されて自由な論評がされるべきと思う。その前提の上で,私はここまで書いてきたように,この作品を一面肯定的に,一面批判的に解釈したい。

※「遊星より愛をこめて」は2017年12月17日現在,「ウルトラセブン 12」とGoogle検索すると,検索結果トップのニコニコ動画にアップされたものへのリンクが現れる。なお,このニコ動で視聴するとタイトルバックには「特殊技術 高野宏一」と出てくる。これは,アップロードした人物が,本編のフィルムは入手したもののオープニングを入手できず,素材からビデオ合成で自作するか他のエピソードのオープニングを流用したものと思われる。その証拠に,出演者に肝心の「桜井浩子」の名がない。

橿原書蔵「12話欠番問題経緯」1/49計画サポートページ,12話会。
https://sites.google.com/site/proj149/12wa-ketsuban-mondai/keii

安藤健二「『ウルトラセブン』第12話は、封印すべき作品だったのか? “アンヌ隊員”に聞いた ひし美ゆり子さん「私の目の黒いうちに絶対復活を」Huffington Post, 2017年10月1日。
http://www.huffingtonpost.jp/kenji-ando/ultra-seven_a_23221891/

Wikipedia「スペル星人」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AB%E6%98%9F%E4%BA%BA

安藤健二「ウルトラセブン第12話「遊星より愛をこめて」が放送50年、アンヌ隊員の女優が解禁を祈るメッセージ 「実相寺昭雄・佐々木守さんを偲んで解禁をお祈りしましょう」と、ひし美ゆり子さん」Huffington Post, 2017年12月17日。
http://www.huffingtonpost.jp/2017/12/17/ultraseven_a_23309749/

2020/12/02追記
「「狙われた街」ラストシーンの起源は「遊星より愛をこめて」にあるのではないか? (2018/1/18)」Ka-Bataアーカイブ。 https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/2018118.html

大野隆之教授のご逝去に際してーーウルトラセブン最終回のこと (2017/8/15)


 本日,ネットをうろうろしていたら,沖縄国際大学の大野隆之教授が,2015年3月30日に54歳で逝去されていたことに気がついた。いまさらで申し訳ないが,ご冥福をお祈りしたい。


  大野教授は,私の評論「佐藤健志氏の金城哲夫論について ウルトラセブンを中心に」を2003年にブログでとりあげてくださった研究者であり,直接メールもいただいてやり取りをしたこともあった。


  この評論は,1994年,つまりいまから23年前,29歳の時にミシガン州立大学の寮で書いたものだ。当たり前だが仕事で渡米したので,ウルトラシリーズの資料など持っていなかった。インターネットは既に存在したが日本語コンテンツは限られており,またアクセスも困難だった。私のPCは重さ2.7kgもあるエプソンノートで,Windows3.1すら入っていなかった。できたのはアメリカでCompuserveにつなぎ,そこから日本のNifty-serveにつなぐこと,それによってテキストメールをやり取りすることだけだった。若者には何のこっちゃであろう。よくもまあ書いたものだ。ちゃんと経済学の研究はしていたのだろうか(おい)。


  それはともかく,いま読んでみると,「金城哲夫が言いたかったことは,一人の宇宙人とひとりひとりの地球人との友情だ」という理解には自ら赤面するものの,妥当な解釈だという自信はある。その証拠はこうだ(以下,マニアのピンポイントな世界です)。


  ウルトラセブンの最終回「史上最大の侵略 後編」。有名なダンとアンヌの別れのシーン。ダンが変身しようがしまいが、マグマライザーが自動操縦で敵の基地に突っ込むことは決まっており、変身しなくてもゴース星人は撃退できる可能性が高い。それでも、ダンは命がけで、セブン上司と、一番大切な地球人,愛するアンヌを振り切ってまでも、変身する。それは、アマギ隊員を救うためである。実際,ゴース星人基地に突っ込んでセブンがやったことはアマギの救出のみであり,基地を破壊したのは自動操縦で突っ込んだマグマライザー搭載の爆薬だ。セブンは,地球全体や抽象的正義のためではなく、アマギ隊員を助けるために変身したのだ。


  大きな建前のためではなく,一人の友達のためにたたかう。地球防衛という思想が大切なのではない。友達だから大切なのだ。


  しかし,金城の苦しみは,「宇宙人=悪,地球人=善」という番組の大枠の中でそれを表現しなければならなかったことにあった。だから,改造パンドンをわざわざ出現させてセブンを苦しめ,キリヤマ隊長に言わせねばならない。「ダン!行こう!地球はわれわれ人類が、自らの手で守らなければならないのだ!」。セブンを「ダン」と呼ぶことは友情の証だ。しかし,キリヤマはウルトラ警備隊の隊長として,それを「地球防衛」の規範に回収するのだ。


  金城は,またウルトラシリーズは,この矛盾を逃れることはできない。友情は大事だが,それは地球防衛の仲間だから成り立つのかもしれない。しかし,友情は地球防衛と関係なく大切なのではないか。いや,ちがうかも……。


  この矛盾を突破しようとすれば,「宇宙人=悪,地球人=善」という所与の枠組みをひっくり返すしかなくなる。それでは番組が崩壊しかねない。しかし,金城は,それもやっていたのだ。それがすなわち「ノンマルトの使者」であり,このエピソードこそは「ウルトラセブン」のもう一つの結論,もう一つの最終回なのだ。この拙論の続きは,そういう中身になるはずだったのだが,23年たった今も書けていない。その間に優れた「ノンマルトの使者」論がたくさん出ており,私の出番はもうないだろう。


  中途半端な拙論を,大野教授は「「地球ナショナリズム」と「友情」を対比させた見方は重要である」といい,また「川端氏の論から学ぶべき事は、まずポリティカルな言説に対する一定のストイシズムである」と評してくださった。実のところ,私は学生時代,政治的主張をもってものごとを裁断しており,これを書いたころは,古い自分から抜け出すために悪戦苦闘を続けていた。この拙論で,「ダンは地球防衛のためでなく,アマギという友達を救うために変身した。そのように金城は書いたのだ」と言えたことは,いかにも青臭いけれども,私の誇りであった。だから,大野教授に評価していただいたときに,嬉しかったのだ。

「ウルトラマン研究12 (1)」オキナワの中年,2003年6月24日。
https://plaza.rakuten.co.jp/tohno/diary/200306240000/

川端望「佐藤健志氏の金城哲夫論について ウルトラセブンを中心に」『糸納豆ホームページ』(蛸井潔氏作成)。
http://www.asahi-net.or.jp/~ug5k-tki/ob&og/seven1.html

以下の文章は大野孝之教授に捧げるつもりで書きました。
「『ウルトラマンタロウ』第4-5話について (2017/8/16)」Ka-Bataアーカイブ。
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/4-5-2017816.html

上原正三はなぜ『ウルトラマンタロウ』第4-5話を書いたのか (2017/8/16)

 8月12日付の『河北新報』の連載「これからを生きる君へ いま戦争を伝える」に上原正三さんが出て自著『キジムナーkids』のことなどを語っている。残念ながら電子版には載っていない。
 私は沖縄のことをほとんど何も知らない。沖縄のことについては,むやみにコメントしてはならないと思い,実際にもほとんどしていない。だが,上原さんの脚本になる作品ならば多く視ている。上原さんは若いころに円谷プロ文芸部に所属し,『ウルトラマン』では人気作「怪獣無法地帯」(金城哲夫との共作)などを,『ウルトラセブン』ではモロボシ・ダン誕生の秘密を明かした「地底Go!Go!Go!」などを,そして『帰ってきたウルトラマン』ではメインライターとして前半のほとんどを執筆された方だ。
 それらの話についてならば,私にも書く資格はあるだろう。
 ここで取り上げるのは,『ウルトラマンタロウ』でただ一度上原さんが脚本を書いた,第4-5話「大海亀怪獣東京を襲う!」「親星子星一番星」だ。
 この話は,一般にはそれほど有名ではなく,マニアの間でも必ずしも傑作扱いされていない。それは,同じく上原さんによるもので,はるかに有名な『帰ってきたウルトラマン』第13-14話「津波怪獣の恐怖 東京大ピンチ!」「二大怪獣の恐怖 東京大竜巻」のリメイクと思われているからであり,また『タロウ』らしくファンタジックに書かれているからだろう。
 しかし,私には,実は『タロウ』第4-5話の方が,『新マン』第13-14話よりも重い話のように思えてならない。



(以下ストーリーの重要部分に触れますのでご注意ください)

 『新マン』第13-14話ではモロタイ島にすむつがいの怪獣シーモンスとシーゴラスが東京を襲う。シーモンスは産卵のために上陸し,シーゴラスはシーモンスを守ろうと角から放電して大竜巻を起こす。最後の決戦で,マットがレーザーガンSP70でシーゴラスの角を破壊すると,シーゴラスとシーモンスは海に還っていく。すると,ウルトラマンは攻撃をやめて去っていく。
 『タロウ』第4-5話では,オロン島に住むつがいの大亀怪獣キングトータスとクイントータスを,日本の興行師たちが捕獲に行く。産卵中のクイントータスを捕獲し,とりあげた卵でスープを作る興行師たち。クイントータスは怒りで麻酔から覚め船を襲う。キングトータスもかけつけてクイントータスを逃がす。ZATに救出された興行師たちだが,こりずに残った卵を日本に持ち帰って孵化させ,見世物にしようとする。ところが,彼らの身体中には亀甲状の腫物ができていて,痒くて仕方がない。そして,彼らの一人が夜中に失踪し,残った者たちの前にもクイントータスとキングトータスが現れる。東光太郎はウルトラマンタロウに変身して立ち向かうが,2匹の真空竜巻攻撃(ガメラ方式で回転しながら空を飛ぶ)に手も足も出ない。結局,興行師たちはすべてトータス夫妻に殺され,卵は奪い返される。復讐は完結したのだ。
 ここまでは,「モスラ」や「キングコング」などにある「おとなしい動物を捕まえて一儲けしようとする悪い興行師に天罰が下る」の類に見える。
 だが,ここから事態は急展開する。卵を持てないために,そのまま東京に居座るトータス夫妻。ZATはなんとか彼らをオロン島に返そうと知恵を絞るが,そこに現れるスミス長官(白人)。長官はすぐにカメを攻撃して殺せ,島に戻すなという。
鮫島参謀「島は長官の領土なんだ」
スミス長官「怪獣を領土内に入れることはできません。わが国の潜水艦や軍艦が安心してパトロールできません。演習するにも邪魔です」
 亀はおとなしい動物だ,殺すわけにはいかない,島へ帰すと主張する朝比奈隊長。
スミス長官「もうZATには頼まない。そのかわり,オロン島で亀怪獣が巻き起こす事件の責任は,すべてZATにある」
 ZATはスカイホエールにつりさげたバスケットに卵を乗せて先導し,トータス夫妻をオロン島に帰す。喜ぶトータス夫妻。
 と,水平線上に現れるスミス司令の艦隊(この恐ろしさは文字では伝わらないので写真を引用)。島に向かっていっせいに艦砲射撃を始める。苦しむトータス夫妻(写真)。執拗に続く砲撃。卵のほとんどは破壊され,残った一つとトータス夫妻とともに,オロン島全体が海中に没してしまう。
光太郎「連れてくるんじゃなかった……連れてくるんじゃ」









 東京に戻ったZATの前に出現するクイントータス。頭に傷を受けて狂暴化し,まだ避難が完了していない団地を襲う。ウルトラマンタロウに変身する光太郎。やむをえずストリウム光線を放つ。ZATもコンドル1号で攻撃する。倒れるクイントータス。その時,口の中に隠していた卵が孵化して小さなミニトータスが現れる。攻撃を中止するタロウ。鮫島参謀は攻撃を命じるが,朝比奈隊長は中止を命じる。
 しかし,そこにキングトータスが来襲。ミニトータスを巨大化させ,2匹でタロウを攻撃し始める。タロウは攻撃できない。
「このままでは俺が殺されてしまう。いったいどうすればいいんだ」
 タロウはクイントータスを担ぎ上げて飛び立ち,宇宙へ2匹を誘導しようとするが,巨大化したミニトータスは自力で飛べず,キングトータスの背中にも乗れない。これでは誘導できない。
 そこへ駆けつけるウルトラセブン。ミニトータスを背負って飛び,キングトータスを誘導する。タロウとセブンは,トータス親子をウルトラの国に連れて行った。そこでなら大亀親子も平和に暮らせるに違いない(※)。
 『新マン』では,シーモンスは産卵をしようと海を渡っただけだったが,それは東京に住む人々にとっては脅威だった。だから郷秀樹は「許せ!おまえたちは,力を持ち過ぎた」といって攻撃した。対して,『タロウ』のクイントータスはただオロン島にすんでいただけであり,産卵も島で行っていた。人間にとって何の脅威でもなかったのだ。それを捕獲して連れ帰り,卵を食べたのは東京の興行師だ。だからタロウはクイントータスを殺したことをすぐに後悔し,キングトータスとミニトータスを攻撃できなくなった。
 シーモンスとシーゴラスは海に,おそらくはモロタイ島に帰ることができた。しかし,トータス親子は東京にいることもできなければ,島に帰ることもできなかった。東京では暮らしの脅威とみなされて追放されるし,島では,そこを軍隊の活動の場にしようとするスミス司令の軍隊に攻撃されるからだ。光太郎がラストシーンで言ったように「この地球上に,あの亀の親子が安心して暮らせるところはない。ウルトラマンタロウはそう判断したんだ」。だから,ウルトラの国に行くしかなかったのだ。
 『新マン』では,MATとウルトラマンは,シーゴラスの角を破壊した後,海へ帰る2頭を黙って見送った。そうすることで,東京を守りながら,2頭が島で暮らすこともできるようにした。『タロウ』では,ZATはトータス夫妻が平和に暮らせるように島へ帰そうとしたが,そのために2匹は艦砲射撃にさらされた。だから東(タロウ)は「連れてくるんじゃなかった」と言わねばならなかった。ZATとタロウは,トータス親子の居場所を地球上で見つけることができなかったのだ。ウルトラセブンが助けに来てくれなければ,トータス親子は東京で暴れ続け,一度は攻撃を中止したZATも,再び戦闘を開始しなければならなかっただろう。
 上原さんは,自ら創造したシーモンスとシーゴラスの物語,東京と島の物語に納得していなかったのだと思う。だから,トータス親子の物語を書いたのだ。それはリメイクに見えて,より子ども向けのファンタジイに見えて,じつはすべてがより厳しい出来事となって書き直されていた。そうせずにはいられなかったのだろう。


※タロウとの闘いではクイント―タスが絶命しているように見えるが,この宇宙空間を行くシーンではクイント―タスの首が動き,明らかに生きている。瀕死の重傷だが死んではいなかったということか,タロウとセブンの力で甦ったということなのか,どちらかだろう。
 もとより,『ウルトラマン』のガヴァドン以来,怪獣を宇宙やウルトラの星に連れて行くという結末に無理があるのは明らかなので(だいたい宇宙に出たところで呼吸できまい),「宇宙に連れて行く」ということ選択肢が出た時点でリアリティの問題ではなくなっていると見た方がよいだろう。一度はクイント―タスは死んで,地球の現実を離れたから甦ったのだ。
※※この文章を,2015年3月30日に54歳で逝去された沖縄国際大学の大野隆之教授に捧げます。

2017/8/16 Facebook
2017/8/17 Google+