2018年10月31日水曜日

ウルトラセブン第12話「遊星より愛をこめて」放映50周年によせて (2017/12/18)

 ウルトラセブン第12話「遊星より愛をこめて」(脚本:佐々木守,監督:実相寺昭雄,特殊技術:大木淳)。ニコニコ動画にあったので改めて視聴してみた(※)。このエピソードは「欠番」によってあまりにも有名になっているが,ここでは作品自体についての解釈を書いておきたい。ただし,それによって「欠番」の是非についてもコメントすることになる。本作品のストーリーや封印された経過は,丁寧に研究された12話会の「1/49計画サポートページ」の記述,安藤健二「『ウルトラセブン』第12話は、封印すべき作品だったのか? “アンヌ隊員”に聞いた」,Wikipedia「スペル星人」に依拠する。

 さて,結論から言うと,私はこのエピソードは,知的生命間の対立,戦争,共存を扱ったものとしてはかなりの奥行きをもって成立しているが,その契機としての核兵器,核戦争,被爆の扱いは,製作者の意図に反して乱暴になっていると考える。そのため,ストーリーとしての全体の完成度もいまひとつ高くないと感じる。その高くなさを相殺するほどに個々のパーツには圧巻の部分もあるのだが。

 実相寺監督の本編演出や,大木特撮監督の戦闘シーン演出はすばらしい(私には画面の切り方とか特撮の細かな部分を論じる力がないので,そこは語らない)。だから全体として決してつまらないわけではない。アンヌ隊員役のひし美ゆり子さんと,早苗役の桜井浩子さん(『ウルトラマン』のフジ隊員)の夢の共演があり,お二人とも実に美しい。

 そして,エピソードは,時計に見せた特殊な機器で地球人の女性から血液を奪おうとするスペル星人・佐竹を愛してしまった早苗の悲劇としては見事に成立している。そして,それに対比されるのはM78星雲から来たダンの存在であり,そのダンとアンヌが心を通わせていることだ。以下の二つのシーンに,このエピソードのテーマは凝縮されている。

 早苗たちを探しながらダンとアンヌが森林公園を歩くシーン。ダンとアンヌは私服であり,自分たちもデートを装っての尾行だが,似た設定の「狙われた街」よりも重みがある。それは,以下で述べるようにテーマにかかわった関係性だからだ。

アンヌ「ダン,静かね。」
ダン「ああ。」
アンヌ「宇宙全体がこんな静かな毎日を送る日が,いったいいつになったら来るのかしら。」
ダン「いつかわからない。でも,いつか必ず来る。来るよ。」
アンヌ「ええ。」

 そして,スペル星人が倒れ,夕日を前にしたラストシーン。

アンヌ「夢だったのよ。」
早苗「ううん,現実だったわ。あたし,忘れない決して。地球人もほかの星の人も同じように信じあえる日が来るまで。」
アンヌ「くるわ,きっと。いつかそんな日が。」
ダン(心の中で)「そうだ。そんな日はもう遠くない。だって,M78星雲の人間である僕が,こうして君たちといっしょに戦っているじゃないか。」

 森林公園のシーンでは,平和な日がいつ来るのかと疑問を投げていたアンヌが,ここでは「くるわ,きっと」と言い,また「いつかわからない」と言っていたダンがここでは「そんな日はもう遠くない」という。あれほどの悲劇があったのに,二人とも,一歩,平和の日の到来を早めている。それは強がりかもしれないがそれだけではない。ダンがここにいて,地球人とともに暮らしていることであり,またおそらくは誰よりもアンヌと心が通じ合っているからなのだ。佐竹と早苗は悲劇に終わったが,ダンとアンヌは違うかもしれない。このラストはそう暗示している。

 このラストは,悲劇のようでいて甘美でもある。きれいにまとめ過ぎと思う人もいるかもしれない。だが,ここにはしかけがある。この話は,放映当時の1967年の現実を想定していないのだ。

 冒頭で,宇宙パトロールを行うアマギ隊員が「平日より若干多量の放射能を検出」と報告してきたのに対して,作戦室のフルハシ隊員が「放射能か。ついこの間まで,地球もその放射能で大騒ぎをしたもんだ」といい,アマギ隊員が「うん。原水爆の実験でな」,キリヤマ隊長が「しかし,地球上ではもうその心配はなくなった。地球の平和が第一だ」,そしてダンが「まったくですね」とつなぐ。もちろん,1967年の地球はそんな状態ではなかった(2017年の地球もそうだ)。「遊星より愛をこめて」は,戦争の危機を人類が克服した時代の話なのだ。
 そう。これは「狙われた街」のラストのナレーションと同じだ。実相寺監督は,「遊星より愛をこめて」を「遠い遠い未来の物語」として設定したのだ。ようやく地球では戦争の危機を克服し,個々の国の都合よりも地球の平和を第一とするようになった。そんな時代でさえも,宇宙戦争の危機はまだ去っていない。けれど,それを乗り越える努力も始まっている。実相寺監督は,そのような世界を描いて,まだそこまでも行っていない,この私たちの世界のありかたを照らし出そうとしたのだ。

 ここまでが「遊星より愛をこめて」の達成に関する私の解釈だ。

 さて,その上での問題。まず,気を付けてほしいことが二つある。一つは,上記のストーリーは,核兵器と放射能による健康被害という契機を用いなくても,人類あるいは別の知的生命体をを滅ぼす全面戦争をイメージさえすれば,十分成り立っているということだ。放射能の話をしなくてもよかったはずなのだ。

 もう一つは,このエピソードではスペル星人は単なる倒すべき侵略者として位置づけられていることだ。戦争の悲劇を描いてはいるが,基本的に地球人が被害者,宇宙人が加害者という二項対立の中にある。そのため,抜き差しならない深刻な利害対立や,不幸なすれ違いから戦争を招くことが,深くとらえられていない。これは第6話「ダーク・ゾーン」のペガッサ星人や第11話「魔の山へ飛べ」のワイルド星人の置かれた状況や,彼らの姿勢と比べると明らかだろう。ペガッサ星人は自らの宇宙空間都市が地球に衝突するのを回避するために地球爆破を計画し,ワイルド星人は肉体の衰弱によって滅びるのを避けたいために地球人の生命を生命カメラで持ち去ろうとする。もちろん,それも手前勝手だ。だがペガッサ星人は衝突を回避できる可能性に賭けてアース・ボムを地球に打ち込む時間を遅らせ,ワイルド星人は非難されると「わかっている」と認め,そして「だが,地球人に頼んでも,われわれの気持ちはわかってもらえないだろう」と訴えた。しかし,スペル星人は自らの都合のためには地球人の生命を何とも思わない。

 より具体的に,スペル星人の扱い方が問題になるのは,おそらく3点だろう。まず,スぺリウム爆弾実験で放射線を浴び,血液が著しく侵されたスペル星人を単なる悪者として設定し,その立場,論理,地球人との間での葛藤をまったく描かなかったことだ。第二に,そのデザインを,いかにもケロイド状の皮膚を持つものにしたことだ。このデザインは,当初のカブトムシのような姿という構想を実相寺監督が変更したものであり,美術の成田亨氏は「真っ白い服にケロイドをつけてくれないかというのが、演出の実相寺昭雄氏からの注文でした。これは、ウルトラ怪獣に対する私の姿勢に反するのでやりたくありませんでした」と述べている(『成田亨画集ウルトラ怪獣デザイン編』(朝日ソノラマ,1983年)を,Wikipedia「スペル星人」より孫引き)。第三に,スペル星人の別名に「ひばく星人」とつけたことであり,この名称が書かれた怪獣カードが『小学二年生』1970年11月号の付録として発行されたことが欠番に至る批判の直接の起点となった。「ひばく星人」は番組内では文字,音声として述べられないが,円谷プロ公式設定であった(Wikipedia「スペル星人」による)。

 スペル星人が地球人の血液を欲する状況と彼ら自身の考え方,ポリシーを肉付けし,佐竹と早苗の関係を一方的にだましだまされるものでなく,もう少し書き込んでいれば(「君の血液を奪うために近づいたのに,君を愛してしまった,ああ,どうしよう」というようなありきたりなものにしろということではないが)良かったと思う。しかし,制作されたエピソードは,早苗にとっての悲劇であったが,そこで,スぺリウム爆弾で被爆し,血液を侵され,ケロイドを負ったスペル星人は単なる悪者として描かれた。これではスペル星人の悲劇としては成り立っていない。そして,被爆者と,その被った放射能被害に対して無神経な取り上げ方と言わざるを得ない。

 この問題について,当時の批判者が「遊星より愛をこめて」を視ずに「ひばく星人」という名称に反応して抗議したと言われ,そのことについて現在のファンからの反発は非常に強い。だが私は,「遊星より愛をこめて」を見た上でこう言いたい。このエピソードは知的生命間の対立と戦争,共存というテーマを真摯に扱ったものの,その契機としての核兵器による健康被害については,取り上げ方が不用意だったと思う。「遊星より愛をこめて」には,傑作と呼べる側面もあれば,確かに被爆者と被爆に対して乱暴な扱いもある。むろん,脚本の佐々木守氏や監督の実相寺昭雄氏の意図したところではないだろうが,作品の構造は,そのように解釈される余地を大いに持っているのだ。

 ここでようやく「欠番」問題にふれる。私は「遊星より愛をこめて」を欠番にすべき理由はないと思う。基本的にどんな作品も公表されたうえで自由に評価されるべきだからだ。確かにそれも無条件ではない。放送は一種の社会的パワーを持っているから,放送の権利を行使することが、自由な評価と交流の前提である他者の基本的人権に破壊的に作用するような場合は放送が許されないという放送倫理はあってしかるべきだ。その上で言えば,このエピソードがそのような意味での放送倫理に触れているとは思えない。問題を含めて自由に論評し合うべきであり,またそのようにした方が問題の存在やその性質も明らかになるだろう。平和と共存というテーマを掘り下げた時に,こういう不用意な扱いが紛れ込んでしまうのはどうしてなのかを考えるには,作品が公開されていなければならない。だから,私は「遊星より愛をこめて」が公開されて自由な論評がされるべきと思う。その前提の上で,私はここまで書いてきたように,この作品を一面肯定的に,一面批判的に解釈したい。

※「遊星より愛をこめて」は2017年12月17日現在,「ウルトラセブン 12」とGoogle検索すると,検索結果トップのニコニコ動画にアップされたものへのリンクが現れる。なお,このニコ動で視聴するとタイトルバックには「特殊技術 高野宏一」と出てくる。これは,アップロードした人物が,本編のフィルムは入手したもののオープニングを入手できず,素材からビデオ合成で自作するか他のエピソードのオープニングを流用したものと思われる。その証拠に,出演者に肝心の「桜井浩子」の名がない。

橿原書蔵「12話欠番問題経緯」1/49計画サポートページ,12話会。
https://sites.google.com/site/proj149/12wa-ketsuban-mondai/keii

安藤健二「『ウルトラセブン』第12話は、封印すべき作品だったのか? “アンヌ隊員”に聞いた ひし美ゆり子さん「私の目の黒いうちに絶対復活を」Huffington Post, 2017年10月1日。
http://www.huffingtonpost.jp/kenji-ando/ultra-seven_a_23221891/

Wikipedia「スペル星人」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AB%E6%98%9F%E4%BA%BA

安藤健二「ウルトラセブン第12話「遊星より愛をこめて」が放送50年、アンヌ隊員の女優が解禁を祈るメッセージ 「実相寺昭雄・佐々木守さんを偲んで解禁をお祈りしましょう」と、ひし美ゆり子さん」Huffington Post, 2017年12月17日。
http://www.huffingtonpost.jp/2017/12/17/ultraseven_a_23309749/

2020/12/02追記
「「狙われた街」ラストシーンの起源は「遊星より愛をこめて」にあるのではないか? (2018/1/18)」Ka-Bataアーカイブ。 https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/2018118.html

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