2018年10月29日月曜日

核兵器禁止条約の国際政治における役割に関する考察 (2017/10/07)

 祝・核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)ノーベル平和賞受賞。
 オバマ大統領の時もそうだが,最近のノーベル平和賞選考委員会は,実績に対して授賞するのではなく,期待できる動きが芽吹き始めたら授賞してそれを後押しする,あるいは逆戻りを防ごうとするという,ある意味では政治的な動きをしている。しかし,平和問題は国際政治にかかわらざるを得ないから,それも一つのありかただろう。平和賞は「よくがんばって平和に貢献してくれたね」賞というより,「この勢いで平和に向かってがんばってね」賞なのだ。
 さて,その趣旨を汲むならば,核兵器禁止条約を現実的でない理想として棚上げせず,現実に活かさないと意味がない。いまの北朝鮮とアメリカの軍事的緊張の下で,それは可能だろうか。私は,この軍事的緊張の中にこそ,つかまねばならない手掛かりがあると思う。
 従来,核保有国は「核兵器を使えば相手を破壊できるという確証が相互にあるからこそ世界戦争を起こさないように相互に注意し,平和が維持できる」という,核抑止力論に立脚してきた。ところが,北朝鮮がまさにこの核抑止力論を信奉し,アメリカ本土への核攻撃力が完備するまで一切の交渉に応じようとしないという態度に出ているのである。
 つまり,一般論としては,核抑止力論は,軍事攻撃の恐怖におびえる国がいまから核兵器を持とうとしてこれを振り回す時には,きわめて深刻な軍事的緊張を引き起こすということだ。そして具体論としては,北朝鮮とアメリカの相互脅迫がもたらす危機に対しては,核抑止力論では解決できないのだ。なにしろ双方が核抑止力論に基づいて緊張を高めているからだ。
 私はここで,一見,理想論に見える核兵器禁止条約こそ,この危機への現実的対応に活用できると主張したい。
 核保有国やその同盟国の中には,まだ他の国が保有している,あるいは開発中である時に自分だけ禁止条約に加わることはできないと主張する国もあるだろう。それは確かに現実だ。だから,この条約を主張する国や平和運動が特定国,例えばアメリカや北朝鮮に「締結しろ」と言っても「うちだけが署名できるわけねーだろ」と言われて押し問答にしかならない。日本に要求しても「北朝鮮のように核兵器で他国を威嚇する国際政治の現実があるときに,日本の安全に貢献しているアメリカの核抑止力を放棄せよというのはいかがなものかと思うのであります」とか何とかいわれるのは目に見えている(もうそうなっている)。
 そうではなく,この条約を活かす外交と運動とは,すべての核保有国(認められなくても事実として保有する北朝鮮を含む)に対して,「いっせいに締結しよう」と呼びかけることだと思う。そして,ここが工夫のしどころなのだが,たとえ自国だけが先に締結できないという国にも,「核兵器禁止条約に,少なくともすべての核保有国,そしてすべて諸国が加わることを呼びかける」という「いっせい締結希望声明」を何らかの形で表明してもらうのだ。
 もちろん,いっせい締結はすぐには実現しないだろう。しかし,粘り強い運動と外交があれば,核兵器保有国であっても,「いっせい締結希望声明」を出す国と,拒絶する国に割れることはあり得るだろう。そうすると,前者は核保有国であっても核抑止力による平和を否定し,核兵器禁止を現実的に目指す勢力である。核抑止力論に立たない勢力が大きく増えるのである。対して,後者は,自分だけが核兵器による一方的威嚇を行うことに固執する勢力である。ここで,国際平和をめぐる正当性はくっきりと線引きされる。多くの国が核保有と核抑止力論を当然として行動してきた状況が変わる。それでも核兵器に固執する国は,それが北朝鮮であれロシアであれ中国であれアメリカであれ,国際政治の上で孤立を深めるだろう。当然,日本も立場を問われるだろう。
 このように核兵器禁止条約は,活用の仕方次第では国際政治の構図を変える現実的な力になると,私は考える。

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2017/10/8 Google+

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