昨年,私は池田嘉郎『ロシア革命』を読んで,本書が臨時政府に焦点をあてて,その直面したジレンマに注目したことから学んだと書いた(※)。しかし,この『現代思想』2017年10月号に掲載された和田春樹教授と池田教授の対談「討議 革命はいかに語りえるか」を読んで,これまでのロシア革命論と池田教授が打ち出した新しいものの区別は,もっと別な,史観レベルのところにあるのではないかと思い始めた。さらに,両者の区別にもかかわらず解決しない深い所でのジレンマがあるのではないかと感じ始めた。以下,ロシア革命史についてまったくの素人の単なる感想であり,思い込みや誤りがあれば正していただきたい。
和田教授のような研究者も,また社会運動家も含めて,ロシア革命に触れた時に,人類の進歩と解放ではないかという仮説や願望をまずは抱くことから入った人が多い世代においては(また本来はもっと後の世代なのに時代遅れでそうした入り方をした私にとって),ロシア革命,とくに10月革命への見方には一つの特徴がある。それは,民衆の視線からロシア革命を理解しようとする視点だと思う。ロシア革命に際して民衆にとって最も大事なことは戦争への過酷な動員を終わらせることだった。2月革命で成立した臨時政府は,それを実現しようとせずに戦争を続行した。平和を実現しようとするかに見えたのがボリシェヴィキによる10月革命だった。
昔なら,そこからさき憲法制定議会の解散や内戦期の弾圧まで革命防衛のために肯定する議論もあったろう(かつて私もそういう本や論文を読んだ)。もちろん,いまではそういう無邪気な肯定は,ほとんど見られない。ボリシェヴィキは革命防衛の名のもとに憲法制定議会を解散し,反対党を抑圧し,過酷な軍事統制を復活させて多くの命を,当のプロレタリアートや兵士の命を奪い,農民から穀物を取り上げた。抑圧はネップ期には緩んだが,スターリン体制の確立によって再び過酷となる。しかし,批判的な見方を獲得したにしても,民衆を主体にして,その願いの実現がボリシェヴィキに託されながら,それが裏切られていく過程と見るのが,これまでの研究ではないか。トロツキーと同じ主張ではないにしても,史観のレベルで「裏切られた革命」というものだ。
池田教授の『ロシア革命』がこれと異なるのは,統治するエリートの視線からロシア革命を理解していることだ。つまり臨時政府の人々だ。池田教授は特にカデットについて造詣が深いらしい。エリートは一方では民衆に依拠する。経済格差にあえぎ戦場に駆り出されて怒りを蓄積させている労働者・農民・兵士に依拠しなければ,専制を倒し革命を遂行することはできなかった。他方,エリートは民衆を抑えようとする。大衆の憤激をただひたすら推し進めて「街頭の政治」をエスカレートさせるだけでは,専制にかえて確立しようとしていた自由と民主主義と経済運営自体が崩壊しかねなかった。臨時政府はこの矛盾のただなかに立って苦悩し,崩壊していった。ボリシェヴィキはその隙を突き,平和を掲げ「街頭の政治」に依拠して臨時政府を打倒した。その後のボリシェヴィキが臨時政府と違ったのは,パンと平和が実現できない事の責任を反革命勢力と諸外国になすりつける正当化にある程度成功し,かつ正当化し切れない場合には民衆を暴力的に弾圧することに成功したことだ。
和田氏と池田氏の違いをこのように理解すると,これは確かに視線の違いとなる。私はここで左翼的に「民衆史観こそ正しくエリート史観はけしからん」というつもりもなければ,いま流行りの議論のように「民衆の感情に依拠したポピュリズムはけしからん,冷静な判断ができるエリートこそ重要だ」という議論に与するつもりもない。このそれぞれの視線によって,確かに新たに見えるものもあるだろう。しかし,いま言いたいのはそこではない。不安で仕方がないのは,視線は違っても,ロシア革命のジレンマはこの両者に共有され,そして解決困難なままに残されているのではないかということだ。
戦争に兵士を駆り立てるな!という声に依拠しなければ革命はできなかった。しかし,戦争に兵士を駆り立てないようにすることが極端に難しい現実もまたあった。現にソビエト政権が戦争からの離脱を計っても,列強はそれを許さなかった。すると防衛戦争は回避できないし,軍隊は再建しなければならない。しかし,そこでプロレタリア独裁の名のもとに過酷な軍事統制や食糧徴発を行えば,約束された軍隊民主化も「土地を農民へ」も水の泡だ。
この問題は,民衆視線から見ようとエリート視線から見ようとまったく変わらずに存在するように私には見える。だから臨時政府には解決できなかったし,ボリシェヴィキには抑圧的にしか解決できなかったのだ。民衆の勢いにエリートが押し流されれば外交も経済も運営できない。そうかもしれない。しかし,エリートが民衆を従わせようとすれば,エリートを押し上げた民衆の願いを裏切ってしまう。それでは本末転倒だ。私は,ロシア革命とはこうしたジレンマが極端に深かった状況下での出来事なのだと思う。このジレンマから抜け出す道はあったのだろうか?私は,古いロシア革命論を学び,また池田氏の新しいロシア革命論に出会っても,そこがまだわからない。次に学ぶとすれば,このジレンマにとらわれない可能性を示す研究だろう。
2018年1月5日 Facebook似て限定公開。
2018年1月5日 Facebook似て限定公開。
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