2018年10月31日水曜日

「内田樹が語る貧困問題」へのコメント (2018/5/8)

「内田樹が語る貧困問題」へのコメント(内田教授の語りへのコメント2)

2.フェアなら貧困に耐えろ論。
 内田教授は,「分配がフェアであれば、貧困にも耐えられる。分配がアンフェアだと、わずかな格差でも気に病むし、それによって傷つけられもする。そういうものです。僕たちの子どもの頃の日本の貧しさは、いまの若い世代には想像もつかないと思います」(記事2)と言い放つ。俺たちが貧乏に耐えたんだからお前たちも耐えられるはずだというのはどうなのか。内田教授は,再分配前33%,再分配後も16%の相対的貧困率(2012年)を「わずかな格差でも気に病む」程度だと思っているのか。いまでも1億総中流がちょっと変わっただけだとでも思っているのか。

 内田教授は触れていないが,格差や貧困には,それが自己責任や,低成長によるやむを得ないことなのか,そうではなく不適切な政策や制度疲労によるものではないのかという問題がある。内田教授は,フェアを必要とおっしゃるから自己責任論はとらないのだろう。しかし,フェアなら貧困はやむを得ないというのはおかしい。フェアな成長の仕方,高成長は無理としても,持続可能なできる限りの成長を追求することが必要ではないのか。

3.持ち出しで共同体を作れ論。
 「少子化のペースを少しでも緩和したいと思うなら、まず地域共同体の再構築と育児支援から始めればいい」(記事2)。それは賛成だ。しかし,育児支援には大いに金がかかるのであって,貧困な中でどうやって育児支援をするのか。

 それは持ち出しでやるのだそうだ。「相互支援の中間共同体を立ち上げるというのは、基本的には行政の支援を当てにするのではなくて、私人が身銭を切って、自分で手作りする事業だと僕は思っています。「持ち出し」なんです」という。自己犠牲の勧めである。なるほど,行政依存ではコミュニティは作れないだろう。それは正しい。また,誰かが自己犠牲を払わなければ共同体づくりなどできないであろう。残念ながら,そういうものだろう。しかし,これを一般化して,おおぜいの人に説教するのは無理筋である。非正規労働者比率が37.5%に達し(2016年),しかも家計補助でなく非正規の賃金を主要収入にして食っている人が増えている今日,フェアなら貧困に耐えろと言い,あげく「持ち出し」で共同体を作れというのだろうか。

 それは,フェアを強調する点ではリベラルに見えるが,事実上,貧困をがまんしろという新自由主義の自己責任論と同じ政策勧告であり,共同体のために個人に犠牲を強いる古い保守思想ではないか。

 内田教授の記事1と記事2を合わせて読むと唖然とさせられるのは,1950年生まれで団塊の世代の「はじっこ」と自称する割には,あまりにも「自己批判」がなく,自らを全肯定していることだ。団塊の世代の貧困に比べればいまは大したことがない,団塊の世代の男性のわがままは否定するな,だけどこれからの世代は自己犠牲しろ。これは,あまりにも身勝手ではないだろうか。

記事1「内田樹が語る高齢者問題――「いい年してガキ」なぜ日本の老人は幼稚なのか?:「人口減少社会」を内田樹と考える#1」文春オンライン,2018年4月30日。
http://bunshun.jp/articles/-/7155

内田教授の語りへのコメント1
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/201858_31.html

内田教授の語りへのコメント3
https://riversidehopearchive.blogspot.com/2018/10/201858_29.html

記事2「内田樹が語る貧困問題――貧困解決には「持ちだし覚悟」の中間共同体が必要だ:「人口減少社会」を内田樹と考える#2」文春オンライン,2018年5月2日。
http://bunshun.jp/articles/-/7166

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2018/5/10 Google+

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