2018年10月31日水曜日

現在の好況と日本経済の将来 (2018/3/13)

現在の好況と日本経済の将来:(産業発展論ゼミナール誌『研究調査シリーズ』2017年度修士論文・卒業論文特集号序文)

 現在,日本経済は2012年末から続く景気上昇の中にあるとされており,学生の就職も史上空前の売り手市場と言われています。景気の拡大は結構なことですが,経済学に携わるものとしては,その性格によく注意を払う必要があります。というのは,現在の好況にはかなり奇妙なところがあるからです。そして,この奇妙さを解明することは,日本経済の将来に向かっての一定の,ただし明るいとは限らない見通しを得ることにつながると思うからです。
 公式統計をもとにして言えば,日本経済はすでに需給ギャップを解消しています。つまり,インフレを引き起こさずに供給できる最大限の供給能力である潜在GDP(内閣府と日本銀行がそれぞれ計算)を実現しており,むしろ実際のGDPがそれをやや超過するほどになっています。そして,昨年の完全失業率は2.8%と1994年以来の最低値に達し,有効求人倍率は1.5倍とバブル期をしのいでいます。これらの典型的指標では確かに好況なのです。しかし,以下のような奇妙な点,あるいは手放しでは喜べないような点があります。
 第1の問題は,賃金と物価が上昇しないことです。残業代を除く現金給与総額は,アベノミクス開始時以後より低い有様です。物価についても,日銀が量的金融緩和の目標とした年2%を達成できていないことはよく知られています。
 賃金が上昇しない原因として考えられるのは,増えた雇用の多くが非正規雇用だったということです。そして,そこに参入したのが女性と高齢者であったということです。ここには,需給バランスだけの問題ではない,二つの構造問題が作用している可能性があります。
 一つは,労働市場における評価基準の問題,すなわち定年付き年功序列とジェンダーバイアスです。これらは,中高年現役・男性・正規労働者の賃金を引き上げる一方で,正規雇用の絞り込みと非正規の相対的拡大,いったん退職した高齢者や女性の低賃金での雇用を招いています。
 もう一つは,縁辺労働力の独自のメカニズムです。つまり,景気の状態に応じて女性と高齢者が労働市場と家庭を行き来するという構造です。家庭に入った女性と高齢者は求職活動をしないので,失業者を計算する分母の労働力に含まれません。そのため,失業率は低く出ます。しかし,専業主婦や無業の高齢者が多数いる状態が労働力の最適配置とは限りません。この構造は,かねてより日本経済史の研究者,また近年では野村正實氏によって,完全雇用と区別される「全部雇用」と呼ばれています。
 現在の人手不足は全部雇用によるものであり,場合によってはまだ女性と高齢者の就労は拡大するのかもしれません。その意味で,潜在成長率が,ある程度過小評価になっていることが考えられますし,総需要には拡大の余地があるのかもしれません。
 第2の問題は,潜在成長率を実現しているのに,投資が盛り上がりを欠いていること,裏返して言えばそもそも潜在成長率が低いことです。潜在成長率は全要素生産性(TFP)が現状やその延長線上にあるものとして計算されます。それがそもそも低迷している。これは,一方ではイノベーションを実現する企業の投資が低迷し,他方ではイノベーティブな労働組織,働き方ができていない,ということを意味します。
 昨年から少し変わってきましたが,大企業が手元流動性を積み上げていることはよく知られています。これは,まず賃金を引き上げずに利潤分配率を大きくしていること,次に株主にすべては配当せず企業内に留保していること,そして得た利潤を設備投資に回していないことを意味しています(ちなみに,この三つがごっちゃになって内部留保問題と呼ばれていますが,このように分けて整理すべきです)。これは,資本の期待利益率が低く投資機会を見いだせていないことを意味します。貨幣形態の資本が,期待収益率が低いために設備・原料・労働力の生産資本に転化できないのであり,好況なのに過剰資本の状態なのです。日銀が「異次元の金融緩和」をしてもマネーストックが増えないというのも,この期待収益率の低下に関わっています。
 また日本の労働生産性の低さ,伸びの弱さは,以前から社会経済生産性本部の国際比較によって指摘されてきましたが,近年あらためて注目されています。成長の供給側からの寄与度分析では,全要素生産性の停滞も指摘されています。
 これは要するに,イノベーションに向かう投資の欠如です。イノベーションに向けた投資と働き方の欠如によって,一方では潜在成長率が低迷したままであって成長の天井となっており,他方ではその低い天井に勢いよくぶつかるほどには投資が盛り上がらず,そして賃金もあがらず,結果として物価に上昇圧力がかからないのだと考えられます。供給側から見ても需要側から見てもイノベーションが重要であることは,かねてより吉川洋氏によって主張されていましたが,需給ギャップがなくなったように見える今,そのことの重要性がいっそうクローズアップされるべきです。
 ただし,重要なことはイノベーションが成長の天井である供給能力だけでなく,需要をも引き上げねばならないということです。供給能力だけ引き上げても作ったものが売れなければ何にもなりません。ですから,どういうタイプのイノベーションかに注意する必要があります。クレイトン・クリステンセンが近年強調している新しい分類によれば,イノベーションには精巧で高価な製品をシンプルで安価なものに変えるエンパワリング・イノベーション,古い製品を新しい製品に置き換える持続的イノベーション,既に製造している製品を効率よく作るエフィシェンシー・イノベーションがあります。彼は,スマートフォンやクラウドコンピューティングは第1のタイプ,ガソリン車をプリウスに置き換えるのは第2のタイプ,鉄筋を高炉メーカーでなくミニミルでつくるのは第3のタイプだと言っています。このうち,第2と第3のものは市場を創造しません。ただし第3のものは資本を生み出します。そして,第1のタイプ,エンパワリング・イノベーションが市場を生み出すのです。この第1の,市場を創造するイノベーションこそ,いま求められているものです。供給能力を増やし,投資を増やし,消費を増やすのです。
 第3の問題は,財政赤字はどこまで持続可能かということです。アベノミクスの最大の売りは量的金融緩和でしたが,それは投資誘発に失敗し,株高と円安の誘導にとどまったと言わねばなりません。そして株高と円安は企業利益はもたらしましたが,賃上げや投資につながっていません。結局のところ,内需引き上げのかなりの部分は,昔ながらの財政赤字の拡大に依存したのだと思います。確かに,それには必要なところもありました。もし安倍政権が財政再建を優先する,ヨーロッパの保守政党のような路線をとっていたら,もっと景気は悪くなっていたでしょう。緊縮政策をとらなかったことの妥当性は認めねばなりません。しかし,そうすると財政赤字はいつまで,どのくらい持続可能かという,安倍政権以前からの問題は,より深刻になって残っています。これは,一つには,日銀の国債買い入れが財政規律を損ない,返済不可能なほどの債務を累積させていないかという問題,もう一つは,やがて国債の信用を損ない,ある時点で国際価格の下落と長期金利の急騰,果ては円の暴落を招かないかという問題です。
 今後,どうしても税収増が必要でしょうが,需給ギャップがない現状でも,政府はプライマリーバランス黒字化をいつ達成できるか,見通せていません。ということは増税するしかありません。中長期的にマクロの税負担率は高めて増収を計りながら,それが投資・消費にダメージを与えないようにする工夫が必要です。どこからどのように増税するかが問われるでしょう。
 最後の問題は,以上の諸問題が高齢社会の持続性にどう関わるかということです。今後,生産性の向上がなければ,生産年齢人口の減少により,日本経済の成長率は下がります。生産年齢一人当たり成長率を引き上げるか,65歳以上の高齢者の労働力率を引き上げるかしなければ,高齢者と子どもの生活を全体として支えられないかもしれません。いわゆる成長の問題です。また賃金の引き上げや社会保障が格差を緩和し,とくに高齢者の貧困をなくするように作用しないと,高齢者の貧困,高齢者,あるいは高齢者と子どものダブルケアを抱える家庭の貧困を深刻化するかもしれません。いわゆる分配の問題です。二者択一でなく,両方やらねばならないことだと思います。そして,制度としても価値観としても女性が働きやすくならなければ,所得増の必要性と介護の必要性の板挟みに追い込まれてしまうでしょう。労働市場の構造の問題です。
 以上,長々と論じましたが,現在の好況の奇妙さを掘り下げていった場合,日本経済の前途はアベノミクスで明るくなったわけではないこと,解決すべき課題が山積していることがおわかりいただけると思います。それらに正面から取り組むのは,これまでは私のような世代の仕事でした。しかし,これからは,若い皆さんの仕事になるのです。明るい未来は,決して自動的に訪れません。皆さんの知恵と努力と選択によってのみ,切り開くことができるのです。


2018年3月
東北大学大学院経済学研究科・経済学部
産業発展論ゼミナール
担当教員 川端 望

2018/3/13 Facebook
2018/3/25 Google+


0 件のコメント:

コメントを投稿