伊藤亜人『北朝鮮人民の生活 脱北者の手記から読み解く実相』弘文堂,2017年。久々にものすごい本を読んだ。
本書は,タイトルが示す通り脱北者に書いてもらった手記から北朝鮮の生活を再構成し,人類学的に考察しようという本だ。
何よりすごいのは,北朝鮮経済・社会の存立構造が,理論的演繹や統計分析ではなく,人民の生活の多彩な描写を通して理解できるということだ。日本や韓国を対象にしても容易ではない調査方法なのに,北朝鮮についてこれをやる。確かに統計がない,またはあてにならない,そして現地調査ができないという状況下で合理的な手法だが,途方もない労力のかかる話だ。本書に収録されている手記だけで99篇,収集した生活記録は380篇,ある1名から別個に寄せられたものを含めると450篇近くとのこと。調査屋の端くれとして,見習いたいがなかなか見習えないレベルの研究だ。伊藤教授も若手に呼びかけたが誰ひとり手を上げなかったとおっしゃっている。自分なら上げるだろうかと考えてしまう。
本書では,そうした手記を活用しての生き生きとしたというか生死がかかった切羽詰まった描写をもとにした考察により,北朝鮮における計画経済のメカニズムとその不全のあり様や、変質と市場化の程度,および北朝鮮に独自と思われる特徴がくっきりと示されている。以下,断片的だが本書から学んだことだ。
まず,経済学で教科書的に書かれている集権的計画経済の問題が,具体的にはどのような姿で起こるのかがわかる。つまり,集権的計画経済では経済効率を上げる方向への動機付けが働かないので,目標達成のためには指示命令の強化と怠業の悪循環が生じ,全般的不足が生じること,社会構成員の需要を把握しきれないので過不足の不均衡も激しく起こること,不足は価格上昇ではなく品切れ・配給待ちに現れること,いったん不足が予想されると物資の過大請求や隠匿が横行するのでなお不足が加速すること等々。人民の生活過程に関わる部分を中心に,本書はそうしたことの事例に満ちている。
また,これまでの旧社会主義研究が明らかにしたように,集権的計画経済は戦時統制経済でもある。北朝鮮はとくに極端であり,いわゆる先軍政治という軍事優先のロジックが生活の隅々にまで入り込んでいることも,具体的な姿をもって理解することができる。
計画経済の機能不全で追い込まれた人々にとって,事態を突破するための努力が何段階かあることもわかる。例えば,農民の場合,集団農場に附属する家族農地の耕作に全力を注いでそちらで食料を確保する。これは,旧ソ連史をかじった人には常識だが,より苦しくなるとそれでは足りない。何らかの商品をつくって売り,かせいだお金で食料を買う,あわよくばさらに事業を拡大することを迫られる。麺をつくったり,飴をつくったり豆腐をつくったり,食堂を開いたりだ。自然発生的にというか各自が生きるための必死の努力によって,地域内,地域間の交換が発達し,さらに場所としての市場(いちば)が形成されていく。
その際,建前としてこうした行為が禁止されていること,原料も輸送サービスも手に入りにくいことを突破しなければならない。その道具として用いられるのが贈り物とわいろだ。贈り物と賄賂を使うには,その原資を確保しておかねばならないので,そのためにさらにプラスして何かをつくって売る必要がある。一方,機関や企業の幹部は社会主義のタテマエに拘束されているので,自分があまり露骨に商売をすることができない。そのために,贈り物やわいろを受け取り,それとの一種の「交換」で種々の権限(生産許可、原料調達,輸送割当,販売のお目こぼし)を行使する。このロジックも,いやというほど豊富な具体例を持って示されている。
アジア社会主義でよく出てくる「自力更生」の論理の理解も深まる。個人での不足への対処とは別に,工場や村で不足による生産停止や配給停止による労働者の生活苦が生じると,政府と党は「自力更生」とか「自体解決」を求める。つまり,自分で何とかしろということだ。同時に,自分で何とかすることは政府と党が奨励する正当な行為となる。工場や各級の単位は副業を始め,食物を栽培し,物々交換で物資や食料を手に入れる。漁船が日本海に出漁して来るのも,背後にあるのはこの論理なのだろう。
ところが,一方で政府と党は,市場での交換も,それによる蓄財も正当化することに踏み切れない。これらは根本的に非合法,あるいは反社会主義的行為のままである。だから,副業の生産それ自体はいいのだが,原料調達と製品販売,さらに市場(いちば)の発達も,伸びては叩かれ,たたかれては伸びてのいたちごっことなる。これは要するに本書で言う非公式の領域,つまりはヤミ経済がないとおもての経済が回らないということで,計画経済では話としてはよく知られていることだが,言い換えると,再生産を可能にするために行われざるを得ない行為の範囲と,正当化される範囲は違っているのだ。どこかに境目がある。副業での生産は英雄的行為と正当化されるが,そのための原料横流しは違法であり,市場での交換はグレーなのだ。別分野では,食べ物やお金を仲間同士でタノモシ,つまり定期的に参加者各人から一定の拠出をさせ,それを入札や抽選など一定のルールにより参加者に給付するのは合法で,広く行われているのが面白かった。しかし,貨幣による金貸しで利子をとったら非合法だろう。本書で個別の借金の事例はあっても,金融業の事例が出てこないのは,そこは厳しく禁圧されているからではないか。
それにしても,北朝鮮における計画経済の機能不全や不足の程度は,とくに手記の執筆者たちを苦しめた1990年代後半の「苦難の行軍」期にはすさまじい。消費財の配給制度をいまどきやっているというのは,私の浅学による記憶で言っても,たぶん1960年代の東欧以前の改革水準である(ベトナムも80年代後半にやめた)。そして,「苦難の行軍」期には生産財の配分も消費財の配給も,食品を含めて行われなくなり,餓死する人がおおぜい出る。それを何とかするのは,盗みである。計画経済のダメさ加減の話には慣れている私でも「盗み」が逸脱現象としてでなく,経済の機能不全を補完するメカニズムに達しており,各級組織では「調節」という名で半ば公式に正当化さえされており,軍隊が強奪を働くことも日常化しているというのには驚いた。
もう一つ,意外性を持って学んだのは労働者家族のあり方だ。社会主義の建前と関係なく専業主婦の家族が多く,かつ専業主婦が自営業者化するという実態だ。つまり,夫が働く工場は原料不足で止まっているのだが,とにもかくにも出勤しないと配給を受け取ることができない。だから夫は出勤するがぶらぶらする。そして,家に残った主婦が,何とか食料を調達するしかない。したがって,麺や服をつくって売りに行くのは主婦の仕事となるわけだ。本書は,計画経済が不全になるほど,この形の性別分業が促進されるという事例に満ちている。
本書は,集権的計画経済かつ戦時計画経済の理論と実証を深めるためにも,北朝鮮の人々の実相をできるだけ感覚レベルで理解するためにも,必読の書だと思う。
本書の到達点の上に立って現状を考えると,「苦難の行軍」の後,現在に至るまでどの程度経済改革をおこなったのかが気になる。消費財を配給するレベルの強い統制は続いているのか,それとも給与を貨幣で払い,消費財は自由市場で購入する形になっているのだろうか。あるいは,企業から見た場合,生産物の一部は市場で販売する二重価格制に入っているのだろうか。生産財の過不足調整に市場は取り入れられているのだろうか。その中での生活はどう変容しているか。興味は尽きないが,これらを解明しようとすると,また伊藤教授のように困難を乗り越える研究が必要になるのだろう。しかし,そうした研究こそ,結局は日本でも世界でも役に立つ。北朝鮮経済が平和裏に開放されようと,その統治体制とともに崩壊しようと,世界、そして日本との関わりは深まっていくのだから。
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