中国技術史の専門家Donald B. Wagner教授のサイトによせて。中国の伝統的製鉄法に関する論文やエッセイが満載の素晴らしいサイトだ。かつて私が引用したThe Traditional Chinese Iron Industry and its Modern Fate(中国における伝統的製鉄業と近代におけるその運命)(※1)も全文が掲載されている。この機会に,Wagner教授の本を活用して拙著で山西省製鉄技術史に触れたことを回顧しておきたい。この部分はどなたからも論評されることがなく,正直寂しいからだ。
大躍進に関してワーグナー教授が主張しているのは,中国の伝統的製鉄技術が大躍進の背景になっていたということである。
「中国の内部からも外部からも,1958年から60年における大躍進は,「裏庭での大衆製鉄」をめぐるストーリーとして聞かされるのであるが,実はそうではなかった。ほぼ完全に失敗に終わった大衆キャンペーンは,1958年の終わりにわずか数カ月だけ続いたものに過ぎなかった。より重要なことは,個人による,または人民公社による小型工場であり,それらは試されずみの伝統的な炉,あるいは近代的な炉のスケールダウンされたものを使用したのだ。1958年にこれらの小型工場は400万トンの銑鉄を製造した」。
「実際には,大躍進においては四つの別々の技術が機能していた。スケールダウンされた近代的高炉,大規模な伝統的高炉,小規模な伝統的高炉,そして大衆キャンペーンによる「裏庭」高炉だ。不幸にして,大躍進に関するすべての報告は,ジャーナリストによるものであれ学者によるものであれ,このうち最後のものだけが重要だったと仮定している。すぐれた歴史家であるRoderic MacFarquharでさえも,この時期の政治について最良の研究の中で,この誤りを犯している。このウェブサイトにおける私の希望は,中国現代史と中国政治の研究者に対して,大躍進に対するより精細な見方をしてもらえるかもしれないということなのだ」(シェア先)。
私は『東アジア鉄鋼業の構造とダイナミズム』を執筆した際に,1990年代後半から2000年代初頭における山西省における小高炉の爆発的増加について,その背景を調べようとした。その手がかかりは,一方において山西省での技術指導に当たられていた川原業三氏の「これらの高炉は日本が戦時中に持ち込んだものの流れを汲んでいるのではないか」という問題提起(※2),そしてワーグナー教授の研究であった。
言語能力の制約から苦しい調査であったが,限られた回数のフィールドワーク,ワーグナー教授の著作,19世紀末から20世紀初頭においてヨーロッパや日本で山西省に関する情報源とされたフェルディナド・フォン・リヒトホーフェンの著作,東亜同文会や満鉄の調査資料などを集めて読みふけった。幸いだったのは,戦前の山西省に関する書物,雑誌をリストアップすると,たいがいが東北大学附属図書館に所蔵されていたということだ。そして,戦後になるとぱたりと情報が途絶えるのだ。まさに帝国大学の威力であり,帝国の滅亡によって情報も途絶えたのだ。
結局,わかったことは,山西省における大躍進期の鉄鋼増産運動には三つの背景があったということだった。1)伝統的るつぼ製鉄技術,2)民国期山西省における,小型洋式高炉を用いた経済開発,3)戦時期の日本帝国による小型洋式高炉の持ち込みである。これらの基礎上に鉄鋼増産運動が展開される。るつぼ製鉄は硫黄分をコントロールできないために他の伝統的高炉に切り替えられ,さらに洋式小型高炉に切り替えられるが,結局挫折した。そこまでの流れを描くことは,それなりにできたと思う。
しかし,大躍進が挫折した1960年代初頭から,小型高炉が急増する1990年代までの30年間の空白は,埋めることができなかった。以下のように注記して,史的背景の記述は閉じるしかなかったのである。なにしろ,この章の本題は現在の山西省鉄鋼業であり,前段のところでつまずくわけにはいかなかったからである。
拙著227ページ。
「したがって,大躍進が小規模企業による製鉄業に打撃を与えたとしても,同時に技術の連続的変化を起こした可能性がある。すなわち,なお小規模製鉄が合理的である条件が残されている限り,多少の企業は残存したであろう。残存企業にとって見れば,坩堝製鉄が駆逐され,洋式小型高炉技術が導入されたことになったかもしれない。そして,大躍進期には,小型高炉の標準的な設計図も省内に普及したであろう(注34)。」(※3)
拙著253ページ注34.
「Wagner[1997]pp.10-11は,大躍進が,伝統的な銑鉄生産技術が忘れられていなかった地域においては,ある程度においては成功したかもしれないという仮説を述べているが,実証していない。ただし山西省については,坩堝製鉄が大躍進期に採用されなかったので,この仮説の対象外としている。筆者は山西省について,伝統的製鉄技術が成功したのではなく,伝統的技術から小型高炉技術への転換が起こったのではないか,という仮説を立てている。この仮説をいま実証することはできないが,これまでの記述から合理性を持つ仮説提示であると考える。」
※1 Donald B. Wagner, The Traditional Chinese Iron Industry and its Modern Fate, Richmond: CUrzon Press, 1997.
※2 川原業三「山西の高炉たち」『鉄鋼界』1996年4月号。
※3 なお,Wagner教授に一言だけ反論するならば,大躍進の時期においても,土法高炉製の銑鉄があまりに品質が悪いために,洋式小型高炉への転換が起こったことは,石川滋教授によって把握されていた(石川滋「資本蓄積と技術選択」〔石川編『中国経済発展の統計的研究III』アジア経済研究所,1962年〕)。私は,石川教授の記述をヒントにして,この仮説を思い立ったのである。
钢铁生产大跃进的背景:中国传统制铁业及其现代命运
http://donwagner.dk/MS-Zhongwen/MS-Zhongwen.html
Publications by Don Wagner
http://donwagner.dk/index.html
Background to the Great Leap Forward in Iron and Steel: The traditional Chinese iron industry and its modern fate, August 2011.
http://donwagner.dk/MS-English/MS-English.html
大躍進に関してワーグナー教授が主張しているのは,中国の伝統的製鉄技術が大躍進の背景になっていたということである。
「中国の内部からも外部からも,1958年から60年における大躍進は,「裏庭での大衆製鉄」をめぐるストーリーとして聞かされるのであるが,実はそうではなかった。ほぼ完全に失敗に終わった大衆キャンペーンは,1958年の終わりにわずか数カ月だけ続いたものに過ぎなかった。より重要なことは,個人による,または人民公社による小型工場であり,それらは試されずみの伝統的な炉,あるいは近代的な炉のスケールダウンされたものを使用したのだ。1958年にこれらの小型工場は400万トンの銑鉄を製造した」。
「実際には,大躍進においては四つの別々の技術が機能していた。スケールダウンされた近代的高炉,大規模な伝統的高炉,小規模な伝統的高炉,そして大衆キャンペーンによる「裏庭」高炉だ。不幸にして,大躍進に関するすべての報告は,ジャーナリストによるものであれ学者によるものであれ,このうち最後のものだけが重要だったと仮定している。すぐれた歴史家であるRoderic MacFarquharでさえも,この時期の政治について最良の研究の中で,この誤りを犯している。このウェブサイトにおける私の希望は,中国現代史と中国政治の研究者に対して,大躍進に対するより精細な見方をしてもらえるかもしれないということなのだ」(シェア先)。
私は『東アジア鉄鋼業の構造とダイナミズム』を執筆した際に,1990年代後半から2000年代初頭における山西省における小高炉の爆発的増加について,その背景を調べようとした。その手がかかりは,一方において山西省での技術指導に当たられていた川原業三氏の「これらの高炉は日本が戦時中に持ち込んだものの流れを汲んでいるのではないか」という問題提起(※2),そしてワーグナー教授の研究であった。
言語能力の制約から苦しい調査であったが,限られた回数のフィールドワーク,ワーグナー教授の著作,19世紀末から20世紀初頭においてヨーロッパや日本で山西省に関する情報源とされたフェルディナド・フォン・リヒトホーフェンの著作,東亜同文会や満鉄の調査資料などを集めて読みふけった。幸いだったのは,戦前の山西省に関する書物,雑誌をリストアップすると,たいがいが東北大学附属図書館に所蔵されていたということだ。そして,戦後になるとぱたりと情報が途絶えるのだ。まさに帝国大学の威力であり,帝国の滅亡によって情報も途絶えたのだ。
結局,わかったことは,山西省における大躍進期の鉄鋼増産運動には三つの背景があったということだった。1)伝統的るつぼ製鉄技術,2)民国期山西省における,小型洋式高炉を用いた経済開発,3)戦時期の日本帝国による小型洋式高炉の持ち込みである。これらの基礎上に鉄鋼増産運動が展開される。るつぼ製鉄は硫黄分をコントロールできないために他の伝統的高炉に切り替えられ,さらに洋式小型高炉に切り替えられるが,結局挫折した。そこまでの流れを描くことは,それなりにできたと思う。
しかし,大躍進が挫折した1960年代初頭から,小型高炉が急増する1990年代までの30年間の空白は,埋めることができなかった。以下のように注記して,史的背景の記述は閉じるしかなかったのである。なにしろ,この章の本題は現在の山西省鉄鋼業であり,前段のところでつまずくわけにはいかなかったからである。
拙著227ページ。
「したがって,大躍進が小規模企業による製鉄業に打撃を与えたとしても,同時に技術の連続的変化を起こした可能性がある。すなわち,なお小規模製鉄が合理的である条件が残されている限り,多少の企業は残存したであろう。残存企業にとって見れば,坩堝製鉄が駆逐され,洋式小型高炉技術が導入されたことになったかもしれない。そして,大躍進期には,小型高炉の標準的な設計図も省内に普及したであろう(注34)。」(※3)
拙著253ページ注34.
「Wagner[1997]pp.10-11は,大躍進が,伝統的な銑鉄生産技術が忘れられていなかった地域においては,ある程度においては成功したかもしれないという仮説を述べているが,実証していない。ただし山西省については,坩堝製鉄が大躍進期に採用されなかったので,この仮説の対象外としている。筆者は山西省について,伝統的製鉄技術が成功したのではなく,伝統的技術から小型高炉技術への転換が起こったのではないか,という仮説を立てている。この仮説をいま実証することはできないが,これまでの記述から合理性を持つ仮説提示であると考える。」
※1 Donald B. Wagner, The Traditional Chinese Iron Industry and its Modern Fate, Richmond: CUrzon Press, 1997.
※2 川原業三「山西の高炉たち」『鉄鋼界』1996年4月号。
※3 なお,Wagner教授に一言だけ反論するならば,大躍進の時期においても,土法高炉製の銑鉄があまりに品質が悪いために,洋式小型高炉への転換が起こったことは,石川滋教授によって把握されていた(石川滋「資本蓄積と技術選択」〔石川編『中国経済発展の統計的研究III』アジア経済研究所,1962年〕)。私は,石川教授の記述をヒントにして,この仮説を思い立ったのである。
钢铁生产大跃进的背景:中国传统制铁业及其现代命运
http://donwagner.dk/MS-Zhongwen/MS-Zhongwen.html
Publications by Don Wagner
http://donwagner.dk/index.html
Background to the Great Leap Forward in Iron and Steel: The traditional Chinese iron industry and its modern fate, August 2011.
http://donwagner.dk/MS-English/MS-English.html
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