本書は以下のことを主張している。日本の地質学界では,プレートテクトニクス説(PT)の受容が欧米より10年以上遅れた。地球物理学界ではすぐに受け入れたのだが,国内でも地質学界ではとくに遅れた。それはなぜかという科学史上の疑問に取り組んだ本。著者によればその理由は,1)日本の地質学が,日本列島の地質発達史の解明に課題を集中して,グローバルな地質現象の解明に関心を示さなかったこと,2)1950-70年代に強い影響力を持った地学団体研究会(地団研)が,PTに批判的態度を取ったこと,3)東京大学の地質学教室の「佐川造山輪廻」説へのこだわりである。
まったく門外漢の私がなぜこの本を読んだかというと,理由は2)にある。地団研のリーダーであった井尻正二氏の名前は私になじみがあったからだ。幼少の頃は自然史のマンガ『先祖をたずねて億万年』の原作者として,学生の頃は,『新版 科学論 上・下』(大月書店<国民文庫>,1977年)の著者として,大阪市立大学に就職してからは,一部の教員や院生の間で人気のあった哲学者見田石介と親しく弁証法を論じる自然科学者として。もう少ししてからは中村禎里『日本のルィセンコ論争』(みすず書房,1997年再版)に登場する,1950年の日本共産党科学技術部長として。
井尻氏がリーダーであった地団研は戦後直後に発足し,一時民主主義科学者協会(民科)と合同していたこともった。つまり,研究団体でもあれば運動団体でもあった。泊氏によれば,地団研は戦後直後に研究体制の民主化のために大いに活躍したが,同時に独特の研究方法や学説を生み出した。その一つが日本列島の形成に関する「地向斜造山説」という学説であった。泊氏が指摘するのは,この「地向斜造山説」へのこだわりをもつ地団研の影響力故に,プレートテクトニクス説の受容が日本の地質学界では遅れたということである。これはまったく初めて知ったことであり,地団研の名前を聞いたことはあるが接触したことはない私は,驚きをもって本書を読んだ。
むろん,私には専門外の学界の学説史について,詳細を評価する力がない。そこは専門家のご教示を賜りたい。ただ,科学史として本書を読むと,気になることがある。それは,地団研の影響力というものが,何によって担保されていたかということだ。学説自体が当初それなりの理論的・実証的説得力を持っていたという側面と,地団研の組織的な影響力によって維持されていたのかということだ。
本書の特徴は,「地向斜造山説」の中に研究戦略や認識論上のこだわりとなるポイントがいくつかあり,そのこだわりが社会的背景と結びついていたことを示している。つまり,地団研に限らずある時期まで地質学界が日本列島形成史へ関心を集中させていたこと,ある時期までの日本社会全体におけるマルクス主義哲学の影響による「自己運動」,「歴史科学」,「機械論批判」への認識論的こだわりが通用しやすかったことなど,井尻氏や地団研の説が歴史的に存在根拠を持っていたことを示している。これらが研究の進展とともに徐々に覆されていく過程を丁寧に描いたのが本書の貢献のように,素人なりに思える。
しかし,本書には,泊氏自身が最後に書かれているように未解決な課題もある。地団研の活動が具体的にはどのような組織運営を行い,学界活動や,大学での人事に影響力を行使していたのかを十分解明したとは言えないことだ。そのため,学説上の問題が研究者運動の論理によって処理されていくような事態がどこまで存在したのかが,もうひとつわからない。
例えば,すぐに思いつくこととして,地団研が左翼的社会観を持っていたために,そのような社会観を持つ研究者を運動団体として結集しやすく,しかしいったん結集すると個人崇拝を含めた強固な組織であるため,会員の学説が一定の見解に固着してしまうようなこと,学問的説得力とは別に社会観擁護のためや組織防衛のために地向斜造山説の普及や擁護に回り,大学人事も賛同者で固めようとすることがどれほどあったのだろうか。学会誌や研究者のブログなどを中心に本書への評価をネットで検索すると,地団研の組織活動と井尻氏への服従はひどいものだったと批判する人もいれば,それほどではなく学問的論争の範囲だったとする人もいる。ここのところが解明されていないために,地質学界に関連する人々にも,本書にやや物足りなさが残るのだと思われる。
もう一つ気になるのは,同じ井尻正二氏がもっと以前の1940-50年代に関与したルィセンコ論争との違いである。似ているというより,違っている点が気になる。
ルィセンコ論争は,単純化してよいとすれば科学の政治勢力への従属問題であった。ルィセンコ論争においては,スターリン時代のソ連の権威が背景にあり,分裂状態でありながらともにその権威に従っていた日本共産党の存在があることで,ルィセンコの「獲得形質の遺伝」説の宣伝,遺伝子説への非難,ミチューリン農法の農民運動への持ち込みが正当化されていた。とくに1951年綱領の社会認識は,ミチューリン運動と結びつきやすかった。当時,日本共産党の科学技術部長であった井尻氏には,ルィセンコ論争への一定の責任があると言わねばならない。
一方,本書を読む限り,1950-70年代の地団研の研究者の「地向斜造山説」へのこだわりは,政治勢力と結びついていたわけではない。確かに地団研は,井尻氏を初めとして左翼的な社会運動も行っていたし,井尻氏当人においては,その学説や研究スタイルは彼なりのマルクス主義解釈から導き出された部分があった。しかし,1950年ごろについてはわからないが,1960-70年代について言うならば,日本共産党が介入して地団研の学説を押し立てるというようなことはなかったように見える。むしろ,本書末尾の脚注において指摘されているように,日本共産党は1970年代に入るとプレートテクトニクス説を拒絶しなくなったという。私が記憶している1980年代以降になると,プレートテクトニクス説の著名な研究者である上田誠也氏は共産党と友好関係にあり,共産党の出版物でもプレートテクトニクス説が紹介されたりしていたと思う。この辺りの事情は分からない。ともあれ,地団研の「地向斜造山説」へのこだわりやその組織的影響力は,共産党の政治介入によるものではなく,地団研の研究者自身のものであった。
だから大したことではないと言いたいのではない。結局,私が本書からくみ取った示唆はこうだ。普通,科学への政治介入というのは,国家権力であれ共産党であれ別の党派であれ,政治勢力が,政治的利害や政治思想に基づいて学説を捻じ曲げ,科学者や学界を従属させようとすることだと考えられる。それはそのとおりだし,実際にルィセンコ論争はそのようなものだった。しかし,実は,政治勢力が介入していないのに,学者の行動自体が政治化してしまうことがある。その行動は,国家権力や政治党派の虎の威を借りるが,主体は学者自身である。この場合,国家権力や政治党派を責めて,排除しても改まることはない。学者自身の学術活動のあり方が問われるのだ。
井尻氏本人は,ある時期以後はおそらく共産党の権威を振りかざすことはやめたか,少なくともできなくなったのだろう。しかし,自らの学説を見直すことはなかったのではないか。今回,井尻氏の『科学論 上・下』を本棚から引っ張り出してみた。本書は学生時代の友人との思い出を呼び起こすこともあり,心を全く揺らさずに読み返すことは難しい。それでもめくってみると,今の私に影響を与えている点もある。分類的方法の意義と限界について,本書で初めて学んだのだった。私が企業の類型分析にこだわることの遠い背景は,この本にあるのかもしれない。しかし,さらにめくってみると,やはりネガティブな驚きも感じる。一つは,1977年に出された新版であるのに,ルィセンコの名前こそないものの,同時にワトソンとクリックの名前もなく,井尻氏がなお獲得形質の遺伝説を信奉していることだ。もう一つは,地向斜造山説を弁証法の例証とする旧稿が収録されていることだ。もちろん,プレートテクトニクスは出てこない。これを出版しつづけた大月書店もどうかと思うが,私が持っているのが1985年の6刷りであるから,それなりに売れ続けていたのであろう。そして,私も買って読み,一度は確かに感銘を受けたのだ。しかし,その頃,学界では地団研も拒絶を脱してプレートテクトニクスを受け入れつつあった。時代とのギャップは著者の井尻氏においてだけでなく,読者としての私においてもはなはだしかった。
泊次郎『プレートテクトニクスの拒絶と受容 戦後日本の地球科学史』東京大学出版会,2008年。
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