2018年11月10日土曜日

食品の放射能汚染の訴え方について思うこと (2013/10/16)

 食品の放射能汚染について様々な個人・団体が主張をされている。そこに書かれていることが正確かどうかが一番の問題であることは言うまでもない。だが,この頃,私が気になっているのは,情報の発信のされ方である。

 食品の放射能汚染に関するサイトを閲覧する住民の関心は「この食べ物は食べても大丈夫だろうか」「身近な食品が汚染されていないだろうか」「この地域に安心して住めるのだろうか」ということにある。その不安にこたえるかどうかが肝心なはずである。当たり前のことなのだが、まず確認してほしい。

 とすれば,「この食品は危険であり,このように食べ続けるとこのようなリスクがあるから,こうやって避けた方が良い。その根拠はかくかくしかじか」と提案しているサイトは,正しいかどうかは別として、住民のことを思って話を組み立てていることはわかる。あわせて「だから原発はなくすべきだ」という話になることもありうるだろう。また逆に,「この程度の放射能であれば気にするには及ばないので,食べても大丈夫である。その理由はかくかくしかじか」というサイトも,正しいかどうかは別として住民の安全を目的とした話であることはわかる。ついでに「原発廃止の必要はない」と書く人がいてもおかしくない。どちらの立場であっても,理由を説明して,汚染されているといわれる食品をどうするのがよいかを,閲覧者に提案しているからだ。

 いまここで問題にしたいのは、どちらが正しいかではない(このどちらかが正しいか以外に大切なことはないという方は、どうぞ閲覧をおやめください)。この二つと異なるメッセージを発信する個人・団体があるからだ。

 それは、ただ単に「これだけ汚染されているから危険だ!」「これだけ汚染されているのだから,それを過小評価する政府は嘘つきだ!」「だから原発をなくせ!」と「だけ」発信し、眼前の食品の汚染に対してどうしたらよいかを発信しないメッセージである。私は、コミュニケーションの仕方としては,こういうメッセージに強い懸念を持つ。系統的・意図的に発信しているメッセージ(団体のサイトなど)はもちろん、facebookでコメントしたりシェアしたりすることによって、無意識に集合的にこういうメッセージが形成されてしまうことについても、好感を持てない。

 なぜか。これが他の話題であれば,「これこれの理由で政府は嘘つきだ!」と主張するだけでも有意義なことはある。それによって,住民の政治行動に影響を与え,社会を変えようという,ごく通常の社会的行為として成り立つからだ。住民はメッセージを受けて冷静に考えた上で、行政への働きかけをしたり、選挙での投票行動を変えたり、自分の言動を変えたりすれば良い。

 しかし,繰り返しになるが,福島第一原発事故以来の食品の放射能汚染問題は,当該地域に住む多くの人にとってただちに「それでは食べない方が良いだろうか」「身近な食べ物が危険な状態でどうしたらよいだろう。ここに住んでいてよいのか」という,強い不安を伴った選択の問題に直結してくる。サイトを見たり、テレビを見たりする人は、こういう不安を何とかしてほしいのだ。

 この不安を持っているところに,「政府は嘘つきだ!」「原発に反対しよう」という主張だけをたたきつけられても,問題の答えにはならない。むしろ,政府の虚偽と原発の危険を強調されればされるほど,自らの食生活や居住についての不安が増幅するおそれすらある。「いま店で売っている牛乳やきのこを食べてよいかどうかわからないと不安でしょうがない」という人に「政府はうそつきだ!怪しからん!」と「だけ」たたきこんだら、ますます不安になるだろう。

 一般に、政府に対して批判的な運動は,社会に普及している支配的な見解を疑い,その虚構を覆すというスタイルに慣れている。ときによってはそれでよい。主観的には、各自が落ち着いて判断し、次の社会行動に移れるような状態ならば。客観的には、目の前のことから緊急避難することができないので、機会を見て社会的に行動するのが適切な事項ならば。たとえば、有権者が、TPPや消費税についての主張に触れて、賛成なり反対なりしている政治家を選挙で当選ないし落選させようと行動する、というような場合はこれでいい。

 しかし,大震災以来の放射能汚染に不安を持つ人に対して働きかけをする場合、こういうスタイルでは不十分ないし場合によっては不適切ではないのではないか。主観に即して言えば、不安を持っている人には,相談に乗る,不安を和らげる,落ち着いて考える力を呼び戻す,という姿勢で臨まないと,コミュニケーションは成立しないのではないか。また客観的にいうと、消費税やTPPと異なり、「いま目の前にある牛乳やキノコをどうしようか」というように非常に短期の、目前の問題であるから、それに即したメッセージでなければ意味がないのではないか。

 私は,自分が震災発生後に感じた不安とのたたかいの記憶からも,こういう思いを禁じ得ない。私はもともと反原発派であり、いまもそうである(安全かつ安価という見解に納得すればいつでも転向するが)。しかし、震災発生後1カ月に必要だったことは、現時点でとりあえず放射線被ばくがどのくらいに達していて、自分や、家族や、学生が、ここで生活を営み続けられるかどうかであった。もちろん、それに関する情報がいい加減であったり、隠されていたり(SPEEDIのように)すれば怒ったが、政府に対して怒ることが主眼ではなかったし、学生に発信すべき主要な点は「授業を再開してもよいかどうか」であり、「政府の見解には問題がある」ということではなかった(授業再開の判断材料について政府がおかしなことを言えば、それはもちろん指摘した)。

 反原発派だからこそ、訴え方には注意すべきだと思うのだ。この問題は,安全を主張する側には生じにくく,危険を主張する側の方に生じやすいからだ。

 食品の放射能汚染の危険性を訴える方々には、よく考えてほしい。住民の健康維持・改善が目的であれば、「政府は本当のことを言っているか」「この食べ物は危険かどうか」だけを論じるのでは不十分か,ときと場合によっては逆効果になりかねないのではないか。「食べない方が良いだろうか。どうしよう」という疑問と不安に応えるような,客観的根拠を持ち、また当事者が心を落ち着けて受け取れるようなアドバイスをするようにしてほしいと思うのだ。

 もしも,「そんなことは関係ない。自分はただ安全に関する間違いと嘘を暴くことに集中するのだ」とおっしゃる個人・団体がいるとしたら,私は信頼できない。また,そういう訴え方は,仮に事実を言ったとしても,副作用が非常に強い、つまり住民の安全な生活とは別の、予期せぬ方向に人を動かすのではないかと、懸念せざるを得ないのである。

 非常にデリケートな問題への試論なので,思い込みや誤りもあるかもしれません。コメントをいただきながら考え直していきたいと思います。

2013/10/16 Facebook
2016/1/5 Google+

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