ようやく読み終わったダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか:権力・繁栄・貧困の起源』。経済発展を左右するのは地理や文化ではなく制度であるという考えで首尾一貫して世界史を説明する壮大な試み。その枠組みはたいへんシンプルで,政治と経済が包括的制度であるか,収奪的制度であるかによって経済発展が左右されるというものだ。
包括的制度とは,多元的に,様々な集団や階層が参加して,創造的破壊を行なえるような制度のことだ。過去においては色々な制度があったが,現代の経済においては,ある種の市場経済,つまり財産権が守られていて,過剰な参入規制や,国家的・私的独占がなく,教育によって創造的経済活動ができる人々が多数存在しているような市場経済だ。政治においてはやや複雑で,まずある程度の中央集権が前提になる。中央集権がないと,財産権を守り,恣意的な収奪や抑圧を防ぐことができないからだ。しかし,その中央集権化された国家権力を一握りのエリートが独占しているのではなく,様々な集団,階層による多元的な参加が可能になっていなければならない。過去においては色々な制度があったが,現代で言えば民主主義がこれに近い。ただ,名目は民主主義や議会制や複数選挙があっても,実質的に一握りのエリート支配になっていれば収奪的制度だ。
包括的政治制度と包括的経済制度が両立していればいちばんうまくいく。収奪的政治制度と収奪的経済制度では最悪だ。複雑なのは,収奪的政治制度と包括的経済制度の場合で,これは現在の中国を含めて,ある程度までは経済発展できる。しかし,長期的に見ると,投入をただ増やすだけ,あるいは技術を海外から借りるだけによる発展になりやすく,種々のアイディアの出現と創造的破壊を妨げるので,発展が限界に達するだろう。
以上の枠組みでほぼすべてが説明されている。実は,読んでいて妙な既視感を覚えた。これは要するに,以前より経済史で色々な人が言ってきた「下からの資本主義発展」であり,大塚久雄(あまり読んでないが)であり,「政治と経済両方の近代化」論と似た話ではなかろうか。私はこれらの議論をあまり疑っておらず,アセモグル&ロビンソン両教授にもおおむね同意する。しかし,もっとラディカルな人からは色々批判もあると思う。
一応,私でさえもマルクス経済学崩れなので,(戦後直後の大塚久雄批判みたいな古いことを言って申し訳ないが)「市場経済と資本主義自体に収奪的性格は内在していないのか」という疑問も持たないではない。もちろん,社会主義計画経済は大いに収奪的だと判明している現在,市場経済と資本主義よりましな経済制度はないだろうなあということくらいは,わかっている。そして,市場経済のもとでは,財産権をきちんと保証した方が経済が発展するというのも,まず間違いなくその通りだと思う。しかし,財産権を完ぺきに保障することが,課税を通した所得再分配の困難,土地の計画的利用の困難,その社会の家族観にもよるが相続を通した非能力主義的分配による格差の拡大に結び付くと,それは結局収奪的制度に近寄ることになるだろう。所得再分配や都市計画や,相続税をもちいるような福祉国家路線の方が,長い目で見れば多くの集団,階層の経済的行為への参加を促し,創造的破壊を促進する包括的制度だということになる。しかし新自由主義論から見れば,それは官僚支配であり,市場経済の活力を殺す行為だ等々となるだろう。この辺りを著者がどう考えているのかには興味がある。あまりにも単純で古い疑問なので,大声で言うのが恥ずかしくないでもないのだが。
ついでだが,Why Nations Failという原題を『国家はなぜ衰退するのか』と訳していいのだろうか。Nationは「国」「くに」ではあっても「国家」ではないだろう。『国はなぜ衰退するのか』などとすべきではないのか。『諸国民の富』ではあっても『諸国家の富』ではないし,『国の競争優位』ではあっても『国家の競争優位』ではないだろう。これも戦後直後の学者のような発言で気が引けるのだが。
ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン(鬼塚忍訳)[2013]『国家はなぜ衰退するのか:権力・繁栄・貧困の起源』早川書房。
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