2018年10月18日木曜日

「消費しつくせない」「企業で直接には生産できない」「生産に家族がからむ」特殊な商品としての労働力について (2015/3/15)

 「経済学入門A」。労働力商品について,教科書を補足すべき点。
  
 労働力商品は特殊な商品だ。一方では,労働力が商品になっているからこそ資本主義は成立している。

 資本家や企業は労働力商品を購入して消費する。消費するとは,つまり資本家や企業の指揮・監督下で労働者を働かせることだ。すると新商品に体化された価値が生まれる。労働力は,消費すると価値が生まれるという特殊な商品なのだ。そのため,資本家は,労働力商品に価値通りの賃金を払っても,労働者を一定時間以上働かせることで,労働力価値以上の価値を生産させることができる。その価値は生産物に体化されており,資本家ないし企業の所有物である。こうした,生産された価値のうち,労働力価値を上回る部分が剰余価値として資本家ないし企業のものになる。等価交換を厳密に守りながら労働者は搾取される。労働力が商品にならなければ資本主義は成り立たない。ここまでは,授業で使用する大谷禎之介『図解 社会経済学』を含む,どんなマルクス経済学の教科書にも書いてある常識だ。

 ところが労働力はまた,商品らしくない,完全には商品とならないような性質を持っている。それは,「自由に消費しつくせない」,「企業で直接は生産できない」「生産に家族が絡む」ということだ。

 第1に,労働力の売買は,通常商品のように,代金と引き換えに所有権を移転するものではない。それでは奴隷制だ。通常の生産要素は企業内に抱えたり,分離したりできるが,労働力は完全に企業のものとすることはできない。なぜこのようなことが起こるかというと,労働力は労働者の肉体・精神と結合しており,そこから完全に切り離すことができないからだ。ちなみに,日常生活ではしばしば「会社の持つ人,カネ,モノ」といった表現が使われるが,不正確だ。労働者は会社のものではない。

 資本家や企業が購入しているのは,労働力を時間決めで使用する権利,つまり一定時間の間指揮・監督下において働かせる権利だ。これは機械に例えると,会社がコピー機を買うよりはコピー機をリースすることに近い。労働力は,リースはできても完全所有はできない商品なのだ。そのため,商品として資本家や企業が無制限に消費しようとすると,つまりは無茶な働かせ方をすると,労働者が消耗することによって労働力商品も消耗する。そして,消耗させることは,いかに資本主義だと言っても,たいていの社会では人権という観点から何らかの制約がかかるし,かかって当然だとみなされる。

 つまり労働力商品は,購入したからと言って自由に処分すれば,社会の法的枠組みに触れてしまう可能性をもともと持っている。自由に処分しようとすれば,経済の外から制限がかかるような商品なのだ。

 第2に,労働力商品は,通常商品のように資本が直接生産することができない。労働力商品の生産とは,つまり労働者が消費財やサービスを消費して労働力を回復することであり,必要な教育・訓練を受けることであり,子どもをもち,扶養家族を養うことだ。

 このことの帰結1として,労働力商品は,労働者自身による消費を通さないと生産できない。もちろん,労働者の能力を向上させる教育機関や訓練サービス業を資本主義企業として営むことはできる。しかし,その訓練も,労働者やその子弟が通うという,労働者の自発的な消費行動を通してでなければ行われない。

 帰結2として,労働力商品の価値は,労働力製造企業の生産性の変化によって変動するのではない。そんなものはないからだ。そうではなく,消費財やサービスの価値変動を通して変動する。

 つまり,労働力商品の再生産と価値変動は,間接的にならざるを得ない。そのため,その需給調節も,市場メカニズムを通して行われることは行われるが,間接的になる。

 第3に,労働力再生産はほとんどの場合,家族を単位として行われる。労働力の再生産は,生命の再生産や,労働者による,非労働力の家族の扶養を通して成立するからだ。すると,家族のありかたに応じて労働力価値のあり方も,労働力再生産のあり方も変わってくる。そこには慣行も価値観も入り込む。例えば,ジェンダーをめぐる価値観と慣行によって,誰が誰を養うという扶養のありかたは変わる。家族のうち1人が働いて残り全員を養うのか,成人全員が働くのか,子どもも働くかで労働力価値やその計算方法,労働者1人当たりへの配分が変わる。労働者の価値観によって子どもの出生傾向も変わるので,再生産確保のために必要な価値量が変わる。労働者の価値観自体が,経済的要因と社会的要因によって変わる。

 つまり,労働力価値も労働力再生産のありかたも,資本主義生産と市場メカニズムだけによっては決まらない。家族のありかたをめぐる制度や慣行によって左右されざるを得ないものなのだ。

 以上のように,労働力が商品になることは資本主義を成立させる必要条件であるにもかかわらず,資本主義の下で労働力は決して完全には商品にならないという矛盾が存在している。それゆえ,労働力商品の生産と消費と需給調整は,資本主義的生産と市場経済の働きだけによって完全に調節されることはない。調節は間接的であるし,種々の社会的要因によって補われてはじめて成り立つ。資本主義も市場も,最初から不完全なものなのだ。

 以上のことは,労働力商品の定義と再生産のあり方に関する一番単純なモデルの時点ですでに言えることだ。より具体的な構造を取る,剰余価値生産過程や,資本の蓄積過程のモデルでは,類似の問題がさらに多くあらわれてくるだろう。

※このノートは空で書いた。学部1年時の担任であった平野厚生氏の影響を受けていることは覚えているが,後は誰の影響をどう受けたか覚えていない。きっと宇野弘藏,田中菊次,隅谷三喜男の各氏の著作をかじり読みしながら考えたのだと思う。

2015/3/15 Facebook
2016/1/6 Google+

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