「経済学入門A」で,資本主義社会の社会システムとしての特徴を教科書に付け加えて述べねばならない。ある程度は「商品の物神性」のところで述べて,そこでは未出のタームやロジックについては,貨幣論や,資本の成立論のところで述べればよいだろう。この話は,そもそも私自身の理解が足りない上に,わかっていてもわかりやすく言うのは難しい。しかし,がんばろう。
資本主義社会は1つの社会システムだ。しかし,それは,分裂しながら統一している3つのサブシステムによって存立している。本来1つのシステムである人間社会が,3つに分裂しながら統一されているというのが特徴だ(表)。
*労働システム
第1に労働のシステム。疎外された労働の社会としての資本主義だ。その主体は労働するもろもろの個人だ。社会システムは,誰も何もしなくても存在できるものではない。究極的には諸個人が労働して,自然に働きかけて自然をわがものとしていることによって発生し,再生産されている。それは社会存立の究極の根拠だ。資本主義社会においては,労働する諸個人は協業とその発展形態(分業,大工業等々)によって互いに関係を取り結んでいる。だが,生産関係の核心,おおざっぱに言えば価値に関わる部分が商品・貨幣・資本システムに移っているため,労働システムにはその素材的な部分,不正確を承知で言えば使用価値的な部分だけが残される。そして,ともに働いているにもかかわらず,そのあり方は階級的であり,具体的には疎外されている。労働者は生産手段と生産物を自分のものとすることができず,生産のありかたを自己決定できないからだ。
労働システムは運動する実在だ。自己意識を持った人間の労働が疎外されるというのは社会的な現象だから,物理的実在そのものではない。しかし,手を触れることができる肉体と,脳や神経の働きとしての意識に基づいているという意味で,物理的実在に近い相にある。そして,運動する実在であるにもかかわらず,労働システムの在り方が経済法則をなすのではないことが資本主義の特徴だ。経済法則を直接形作るのは商品・貨幣・資本のシステムだ。
*商品・貨幣・資本システム
そこで,第2に商品・貨幣・資本のシステム。資本の原理で動く社会としての資本主義だ。その主体は商品であり,商品でもある貨幣であり,貨幣でもある資本だ。商品は,後述するように3層システムを発生させる上では決定的要因だが,生産過程を包む原理を持たない。商品と貨幣があるだけでは,生産がどのように行われているかはわからない。ここに不完全性がある。資本システムは生産過程を包括することで資本主義社会を編成しうる。
商品・貨幣・資本システムは,資本主義の経済法則を司る原理であり,等価交換原理も価値形態も剰余価値生産法則も取得法則の転変も再生産の条件もここに属する。それは本質的には人間と人間がとりむすぶ生産関係であって「もの」ではないにもかかわらず,資本主義社会ではものとして,ものであるかのように存在している。つまり,商品・貨幣・資本は物象化された生産関係だ。その編成原理は等価交換を通した自己増殖=蓄積であり,マルクスの示す資本の範式が示すとおりだ。そして,その階級的あり方は,剰余価値法則にのっとった労働者からの搾取である。
商品・貨幣・資本システムは,労働システムよりもはるかに物理的実在から遠い。商品が他の商品や貨幣と交換されることや,交換を通していけば何がしかの利潤を生むような資本の性質は,自然物のものではない。しかし,商品も貨幣も資本も,価値を持った「もの」であるかのように存在している。 生産関係が「もの」になってしまうと,所有が取り残される。人間が主体となって,自然をわがものとするのが労働だ。ところが,疎外された労働が労働システムに付着し,生産関係は「もの」と化すと,「わがものとする」ところ,つまり所有だけが取り残されて一つのシステムになる。
*所有システム
そこで第3に所有のシステム。私有財産社会としての資本主義だ。その主体は商品の私的所有者だ。私的所有者は商品を排他的に所有している。商品の所有という単純な形態から債権や抵当など複雑な私的所有のありかたが説明される(しかし,私的所有がさまざまに発展した状態から見れば,商品を所有しているのはその一形態に過ぎない。だから法律では,私的所有の権能全体が財産権と呼ばれ,所有権の方が狭い範囲を包括する言葉とされる)。私的所有の独特の原理は,社会システムを正当化することだ。私的所有は不可侵とされ,労働システムや商品・貨幣・資本システムが作動する前提的枠組みとされる。正当化の際に持ち出される原理はおおむね二つある。ひとつは,私的所有者として向かい合うことで,人間は自由で平等な個人になるということだ。労働システム内で疎外があっても,資本システム内で搾取があっても,所有システムからは,労働者と資本家が私的所有者として向かい合っているようにしか見えない。それは,正しく正常なこと,問題のない,不当ではないこととされる。もうひとつは,私的所有は自ら労働した結果であるに違いないというストーリーだ。これは種々に発展して,「自らリスクをとった」,「自らの持つ生産要素を差し出して生産に貢献した」などというバラエティを生み出す。資本システム内において資本主義的取得法則の作用により,より多く資本を持つものがより多く蓄積するようになっても,つまりは資本家と労働者の間に所得と資産の格差があっても,それは資本家が自ら働いた(リスクをとった等々)という想定により正当化され,問題のない,不当でないこととされる。
しかし,所有システムは正当化するだけで,生産をどのようにおこなうかという原理を自らの中に持っていない。その編成原理は等価交換であるが,それ以上のことは所有システム内では行われない。だから所有システムは階級のありかたの実態を指し示さない。むしろ,孤立した正当化原理として,ひたすら私的所有者間には自由・平等が存在すると主張する。
所有システムは,労働システムや商品・貨幣・資本システムのように,「もの」として手を触れることもできなければ,「もの」であるかのような対象性も持っていない。それは,実体がないのに正当化原理だけが存在する抽象の世界だ。
*商品というしくみによる3分裂
資本主義社会は何によって,このような3つのシステムに分裂しながら統一されるのか。その根源は商品というしくみだ。人間は,みな色々な働き方をしていても,とにかくそれはみな同じ労働だということによって社会を構成する。ところが商品というしくみをとおすと,人間の諸々のはたらきがみな商品の価値をつくるから同じ労働だということになる。人間の労働は肌に触れることができる,運動する実在であるが,そのことは,商品が価値を持つという形にすり替わる。人間が労働をどれだけ行っているかという問題は,商品価値が大きいか小さいかという問題に置き換わる。人間が生産のために取り結んでいる関係は,商品が互いに交換可能であるという関係に置き換わる。そして,商品の側からものを見ると,労働のありかたはわからない。商品は商品同士交換されるという原理からは,その背後で人間同士がどういう関係を結んで働いたかはわからない。こうして,商品というしくみを通すと,人間と人間の関係が背景に退き,商品と商品というものとものとの関係に置き換わる。人間には,商品が価値を持ち,他の商品と一定割合で交換されことが自然な属性,その背景を問わなくてよい当たり前のことのように見えてくる。これが物神性だ。そして商品と商品の関係が経済法則として観察可能になる。所有は労働から切り離されて,商品を私的所有する孤立した正当化原理となる。
このように,商品における生産関係の物象化と物神性が,社会を3層に分裂させる。この分裂は,商品原理を基礎として貨幣が生成し,貨幣原理を基礎として資本が生成し,生産過程を包摂することで一層激しくなる。しかし,商品のところですでに起こっていることだ。
*矛盾している現実を解明するものとしてのマルクス経済学
このような3つのシステムへの分裂とそれらの統一によって資本主義社会は存立している。自由・平等な交換であって同時に搾取であり,また労働が疎外されているということは,矛盾しているがいずれも事実だ。マルクス経済学は,自由・平等は嘘っぱちで搾取が事実だと言っているのではない。自由・平等も,搾取も,疎外も,どれも同時に事実なのだ。マルクス経済学は,矛盾しているものとしての現実を解明しようとする学問なのだ。
※このノートはそらで書いたが,筆者の意識としては有井行夫『株式会社の正当性と所有理論』青木書店,1991年の影響を受けている。ただし,その理解はおそらく不正確だろう。
2015年3月10日:初稿
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