2019年4月5日金曜日

戦争経験者と接した経験について (2014/8/15)

 アジア・太平洋戦争の直接経験者が生命の定めによりいなくなっていく以上、直接経験者と接した経験の保存はそれ自体大事なことと思います。しかし,その大事さの中身については,よく考える必要があります。

 私のように親類が戦争経験者という位置にあるものは,戦争経験を、他人の経験の伝達ではなく、「経験者と接したという自らの経験」としてアーカイブすることが独自の役割のように思います。これは非常に難しい。前の投稿でも,私は親類の戦争経験をどのような場面で聞かされ,それをどう受け止め,それが今の自分にどうつながったかを書けていません。事実の叙述としてよりも伝聞調で書いて,それを1969年なり,1980年なりの私がどう受け止めたかを書くことが望ましい。でも,整理できていないから書けないのです。

 しかし,そうであってもこの経験の伝達には重要性があること自体は主張したい。「戦争経験者と接した経験」は,書物やネット情報から学ぶ戦争よりは,いくらか「自分のこと」であるから,忘却せずにとっておく価値があると思うからです。

 以下,やたらと理屈っぽくなりますので,しちめんどくさい方は無視してくださって構いません。

 経験に価値があるというのは,経験イコール真実ということではありません。経験にも経験談にも,経験者との接触経験にも偏りや欠落や思い違いがあります(例えば、よく言われますが加害経験よりも被害経験の方が伝わりやすい。私の親類の経験談も被害の方が多い)。しかし、偏りや欠落がある経験もまた経験です。絶対視してもいけないですが,無視するのはもっとまずく,そこから出発して考え直していくべきものです。

 また「戦争経験者と接した経験」は、特定の主張のために役立つから大事なのではありません(役立ってももちろんいいのですが)。戦争防止に役立つから大事で、役立たなければ無価値なのではない。経験から何を汲み取るべきかは、幅のあることで、後世の人間の置かれた状況と問題意識に応じて多様であってよいのです。私は,アジア・太平洋戦争について一定の主張を持っていますが,前の投稿では「覚えておくべきだ」というところでいったん話を区切るべきだと思いました。それは,私の「戦争経験者と接した経験」は,私と主張の異なる人にも意味があると思ったからです。

 では,経験はなぜ大事なのか。偏りや欠落があってもなぜ大事なのか。それは,アジア・太平洋戦争の直接経験者がやがていなくなるという現実の中で,戦争に関する議論が空理空論にならないようにするためではないでしょうか。戦争は理論でも把握できます。文章でも把握できます。写真でも把握できます。しかし,それらで把握できないこともあります。経験者と対面で会話し,声を聞き,傷跡の有様を見,表情をうかがい,息遣いを感じてでなければ把握できない側面もあります。そうした側面を欠落させた空理空論を決してせず,今から将来に向かい,戦争について地に足をつけた捉え方をするために,「戦争経験者と接した経験」は必要なのではないでしょうか。

 社会学や心理学などの用語では,このようなことをもっと適切な用語で把握するのでしょうが,私なりには,以上のように思います。

光瀬龍氏と阿修羅王のこと (2014/9/21)

 光瀬龍氏の最後の単行本『異本西遊記』(角川春樹事務所、1999年)をアマゾンマーケットプレイスで購入。理由は、この作品に阿修羅王が登場するらしいと知ったからだ。
 『百億の昼と千億の夜』に登場するあしゅら王は、同書を1970年代に角川文庫で読んだ中学生の私、続いて萩尾望都氏のマンガで読んだ高校生の私に強烈な印象を残した。しかし、その強烈さの正体はいまなおつかめない。表現しようとすると文才のなさを露呈するので書くことができない。
 空前のSFブームが到来し、ファンがそれぞれ勝手なことを(ネットがない時代としてはたいへんな労力をかけて)言い合い、「そんなものはSFと認めない」「それは人それぞれだから」という身もふたもない宣告を乱発しては罵倒しあっていた1980年代、光瀬龍氏は過去の作家扱いであり、論じられることがなかった。実は、1985年か86年の大学の春のフェステバルで光瀬氏がおいでになり宮城県民会館で講演されたことがあったが、客はまばらであった。光瀬氏自身もSFのことはおっしゃらず、地方と中央の関係みたいな話をされていて、切れ味は今一つのように思えた。共催団体の一員だった私は、萩尾氏のマンガをコラージュして宣伝ビラをまいたりしていたのだが、まるで効果がなかったことを知った。講演終了後、廊下でお見かけした光瀬氏に何か話しかけたかったのに何も思い浮かばず、黙礼しただけであったことを覚えている。
 1999年に光瀬氏が亡くなったときは、それほど話題にならなかった。2009年に写真の本『光瀬龍 SF作家の曳航』が刊行された。SFから遠ざかっていた私はそのことを知らず、3年ほど前にようやく読んだ。私は本書のおかげで、あしゅら王が登場する別の短編小説「ある日の阿修羅王」「説法」「廃墟の旅人」を読むことができた。また、『SFマガジン』2008年5月号に宮野由梨香「阿修羅王は、なぜ少女か」が掲載されていたことを知り、そちらも入手して読むことができた。今回購入した『異本西遊記』のことも、ネットに掲載されていた宮野氏のエッセイで知った。
 この本で光瀬氏の生涯についてある程度のことがわかり、また宮野氏の評論や光瀬氏とのやりとりの記録によって、『百億の夜と千億の夜』がどのように少女マンガとして読まれたのかということと、それが光瀬龍の実存とはおそらく異なっていたのであろうことは理解できた。
 それでは、私はどう読んだのか。あいかわらず、よくわからない。未読の材料も、今日買った『異本西遊記』と、昨年までSFマガジンに連載されたという光瀬氏の評伝くらいだろう。それを読み終えてももやもやしたままであったらどうしようか。



2019年3月30日土曜日

事例研究のスペクトラムについて (2018/5/16)

 ここ数年,自分が行う査読と,自分やゼミの院生が受ける査読を比べてみると,事例研究に対する私の考え方が少数派なのではないかと,つくづく思う。

 画像は昨年度のゼミで院生向けに話した時に使ったもので,事例研究のスペクトラムを表そうとしたものだ。

 私の理解では,事例研究とは,表の一行目のものであってよい。つまり,
1)事例の重要性は理論的に重要なことにかかわるからであってもよいが,社会・経済情勢から見て重要であるということでもよい。
2)事例研究とは,事例に関する事実に基づくものであり,したがって事実の解明がきちんとできているかどうかが何より重要だ。
3)事例研究とは,事例を学問的に解釈することだ。ここで学問的とは,経済学と経営学の論理で100%説明するということではない。経営や産業とは経済的・経営的側面だけでなく,技術的側面や政治的・社会的側面を持っており,また普遍性だけでなく個別性をも持っている。したがって,それらの諸側面の総合としての事例を合理性的に理解するのが研究だ。誤解なきように追加すると,合理的であることも矛盾していることを含めて理解することだ。

 したがって,理論的解釈以前に事実がきちんと明らかにされていることが必要条件だ。逆に,一切を理論の説明材料に落とすかのような分析の仕方,結論の出し方は,好まないし,本来適切でないとさえ考えている。

 だが,私の受け止めでは,単行書や分担執筆に対して,近年の雑誌論文の査読は,事例研究に対して,理論的枠組み,理論的解釈,理論的インプリケーションを求める傾向が強過ぎる。これは,私のスペクトラムの3段目,つまり理論の例証としての事実を求めているからではないかと思う。

 繰り返すが,私はそこに行き過ぎを感じるし,もっと言えば,間違いだとさえ思う。理由は上記のように,産業や経営に関する事実そのものが,純経済学的・純経営学的存在なものではないからだ。経済学と経営学の論理に解消できない諸側面と個別的諸事実があるから事例なのだ。事例から無理くりな一般化を行ったり,事例の諸側面を切り捨てて経済法則の一例としてのみ扱う論文は,序論と結論がいかにきれいに(エレガントとやらに)書かれているように見えても,低く評価されるべきなのだ。

 しかし,このような考えは,国際的にも国内的にも,学会の主流とはなりえないだろう。正直,このことを考えると非常に憂鬱になる。

 ともあれ,私は,断固として,スペクトラムの第一行のような事例研究を高く評価する見地で研究も査読を行うし,それは私なりに認識論的根拠を持ってやっていることなのだと表明しておきたい。やがて,査読を依頼されなくなるかもしれないし,拙稿は雑誌に載らなくなるかもしれないが,それはそれでしかたがないだろう。

 ただし,院生には,私と同じ認識論や学問観を持たせて苦労させるわけにはいかないので,そこが頭痛の種だ。したがって,せめて1行目と3行目の中間を狙うように支援するしかないかと思っている。




2019年3月26日火曜日

宮城県仙台向山高校の旧校舎 (2014年12月7日)

 宮城県仙台向山高校父母教師会発行『向陵だより』第80号に寄稿した文章。

壮絶なる旧校舎

川端望
6回生(1980年入学,1983年卒業)

 私たち6回生が学んだ旧校舎は,壮絶なボロであった。木造モルタル2階建て,夏は冷房はおろか扇風機すらなく,冬は石油ストーブで暖を取った。どちらかというと冬がきつかった。窓がアルミサッシでないのと長年の風雪で窓枠がゆがんでいるために,すきま風が吹きこんだからだ。私は入学試験の時,座席がストーブの真ん前で,その暑さと周囲の寒さのギャップで風邪をひいた。教室の大きさがまちまちで,広々としていて寒いか,すし詰めで暑いかのどちらかであった。トイレは何か出そうな雰囲気であったことは言うまでもない。
 体育館は二つあったが,少子化以前のことでそれでも足りず,私の入部した卓球部は「講堂」というところで活動していた。低い位置に窓がたくさんあり,太陽光が卓球台に反射してボールが見えなくなる。そこでわざわざベニヤ板で遮光板をつくり,すべての窓を覆い隠して部活を行った。1980年代には卓球はオシャレでもなんでもなく,もっとも暗いスポーツの一つとされていたが,実際物理的に暗かった。
 設立6年目なのになぜボロかったのか。それは,旧校舎が宮城県女子専門学校(女専)の流用だったからだ。1934年に建てられて戦争を生き残り,国立仙台電波高等学校,さらに向山高校に流用された。
 ボロ校舎であったが,それでも何とかしてそれをみんなで使いこなそうとしていた(せざるを得なかった)。それは楽しくもあった。帰らざる日々である。



2019年3月24日日曜日

NHKスペシャル「メルトダウン File.5 知られざる大量放出」の衝撃(2014/12/23)

 12月21日に放映されたNHKスペシャル「メルトダウン File.5 知られざる大量放出」を録画で見た。衝撃だった。2011年3月11日の東日本大震災後に福島第一原発事故によって放出された放射性物質のうち,75%は3月15日午後以降に放出されていたというのだ。
 これまで私は,大量放出はメルトダウンと1,3号機の建屋爆発,および2号機の圧力調整プール破損時に生じたし,とくに2号機の破損時の放出がもっとも多かったと,公表情報から思っていた。当時のゼミ生にもそう伝えてきた。しかし,これらは,15日午前までの放出に限れば正しかったが,放出の全体を視野に入れるならば,正確ではなかった。
 今回報道されたことを要約すれば,以下のようになると思われる。 
*3月15日の夜に全体の10%を占める大量放出が起こっていた。その原因は3号機5回目のベントであった。ベントの際に放射性物質は希釈されるはずが,1)圧力調整プールの温度が高いためにプールで希釈されず,2)それまでのベントで配管内に付着していた放射性物質が押し出されたために,かえって大量の放出を招いた。
*電源喪失時期に緊急措置として消防車による1-3号機への注水が行われたが,建物内の多数の箇所でポンプが動かず,水は別方向に漏水し,ほんの一部しか圧力容器内に届いていなかった(これはこの番組の以前の回で知っていた)。そして,少量の水を注水したことは,核燃料を覆うジルコニウム合金管を化学反応で加熱させ,核燃料の損傷を加速していた。そのため,放射性物質の放出を止められず,むしろかえって増加させてしまい,また長引かせることになった。
*4号機の使用済み燃料プールに水があるのか,ないのかの判断により,復旧作業の優先度を決めねばならなかった。水がないならばプールへの注水を優先しなければならないが,水があって,干上がるまで時間があるならば電源回復によって1-3号機への注水量を増大させ,冷やし,かつ放射性物質の放出を止めることを優先しなければならなかった。3月16日,福島第1原発の現場では自衛隊機が撮影した写真により水があると認識し,よって電源回復を優先と判断した。しかし,15日に発足した政府と東電による統合本部に決定権が移っており,統合本部は注水優先と判断した。それは,アメリカ原子力規制委員会などが,プールに水がなく,より大規模な汚染が起こるという最悪のシナリオを想定して対処すべきであるという見解を示したことに影響されたものであった(ただ,この意思決定プロセスは番組内でよく検証されたとは言えない)。結果として4号機プールに水は入ったが,電源回復が遅れた分だけ放射性物質の放出期間は長引いた。
 緊急の判断で最善ないし次善の策と思ってやったことが裏目に出るということが重なっていた。しかも,私の素人判断だが,どれも,その場で問題がわかっていれば回避できたとも言えないように思う。第5回ベントの時に装置の問題点に気が付いていたら,ベントを中止した方がベターと意思決定されただろうか。あるいは,大量放出のリスクを軽減させる補足措置がとれただろうか。また,漏水に気が付いたとしても,対処ができただろうか。3月16日時点の判断として,プール注水を優先したことは間違いと言えるだろうか。専門家の意見は必要だが,わかっていてもできることは限られていたのではないか。
 今回の報道内容が示唆するのは,その場の状況における判断がまちがいだったから,ただしい判断をすべきだったということではないと思う。実際,番組もそう言う方向に編集されていたのではない。むしろ問題は,これほどに困難な判断を必要とする状況をつくり出してしまったことであり,また,その判断の帰結が3年たってようやく明らかになったということであり,さらに,まだ明らかになっていない事実もあるだろうということだ。

2019年2月24日日曜日

伊東光晴『アベノミクス批判 四本の矢を折る』岩波書店,2014年について(2014/8/23)

 私は伊東光晴氏から一度だけ電話を頂いたことがある。ウォルター・アダムス&ジェームス・ブロック『アダム・スミス,モスクワへ行く』の拙訳をお送りした時である。「アメリカの産業組織論の中でもアダムスはまともですよ」という趣旨のことをおっしゃっていた。これは伝統的産業組織論(SCPパラダイム)をとるアダムス教授の反独占と分権化の論理を指してのことである。

 伊東氏は,歴代日本政府の経済政策を論じるときに,目新しい理論を使っているわけではない。逆である。いまでは古臭いとされている理論,たとえばケインズ当人による資本の限界効率の不確実性論,ハロッドの人口成長率を組み込んだ経済成長論,SCPパラダイムの独占批判(ただしガルブレイスの拮抗力の理論も使う),政策論では完全雇用余剰を利用した反循環政策論,クロヨン是正論,より広く混合経済論などを駆使するのである。

 私は伊東氏の主張すべてを支持するわけではない。たとえば,福島第一原発事故に関する全額国家補償論は納得できない。広く社会的行動についても,たとえば,鹿児島国際大学教授懲戒解雇事件での理事としての伊東氏の行動は受け容れられない。

 しかし,私は,伊東氏による「古い」理論を駆使してのアベノミクス批判は,まことに理に適っていると思えるのだ。むろん,私が新しい理論と経済学の数理的な理解に疎い「古い」学者だからそう思うのかもしれない。伊東氏の主張を批判する経済学者が少ないのは,「古い」理論だから相手にしないということなのかもしれない。しかし,古くても,間違っているとは限らない。後になってみると「古い」理論の方が正しかったのかもしれない。そこが,ときどきの支配的な価値観,流行り廃りに流される経済学や経営学のやっかいなところだと,私は思う。

「安倍首相は自らの政策を三本の矢と称した。
 第一の矢--量的・質的緩和は,株価の上昇にも為替の変化にも何の関係もない。株価が大きく上昇したのは外国ファンドの買いのためであり,リーマン・ショック以後落ちた欧米の株価が低金利政策もあって上昇し,元に復し,残る市場である日本に向かったのである。第二章『安倍・黒田氏は何もしていない(続・第一の矢を折る)』がこれである。」
「 第二の矢--国土強靭化政策は,予算化されていない。2014年度予算案の検討でこれを明らかにした。
  第三の矢--経済成長政策は,具体化の姿が見えない。何よりも,その時代ではないのは,第四章『人口減少下の経済』で明らかにした。」(本書108ページ)。

伊東光晴(2014)『アベノミクス批判 四本の矢を折る』岩波書店。

ついで。すみません,たぶんまだ売れ残ってますので。
W. アダムス&J. ブロック(川端望訳)『アダム・スミス,モスクワへ行く』創風社,2000年。

2019年2月20日水曜日

東日本大震災後1か月の仙台での被曝量を求めて(2013/9/10)

 2011年4月。私は「本震後も仙台に住んでいて、おおよそどれくらい被曝したと考えればよいのか」という疑問を持っていた。当然、周囲の同僚や学生も持っていた。しかし、毎日これでもかというくらいに放射線について報道されている割に、この単純な質問に対する答えはどこにもなかった。「使えない」報道だと腹が立った。しかし、素人に計算できるわけもないと思っていた。

 ところが、ある日、放射線医学総合研究所のサイトに、東京に1か月暮らした場合の簡便な被曝量計算方法が掲載されたことに気が付いた(※)。まったく同じ方式と、対応する地元のデータを使えば、それほどまちがわずに仙台についても計算できるのではないかと考えた。そこで何度か放医研に電話して、大きなまちがいがないように気をつけながら試算した結果がこうである。

3/13-4/12の仙台市における、福島第一原発事故による総追加被曝量(放医研に相談しながらの素人計算)

注意:自然放射線に対するプラスアルファの被曝分に限って計算。

1.空間放射線からの外部被曝 0.066ミリシーベルト
・データ出所:理学研究科田村教授が仙台市青葉区で測定。

2.水・食べ物からの内部被曝 0.255ミリシーベルト
・データ出所:水と野菜は宮城県のサンプル調査のうち、放射能が最大のもの。魚は県内データなく、放医研のもの。

3.放射性物質吸引からの内部被曝 0.0363ミリシーベルト
・データ出所:残念ながら地元データがなく、放医研の東京の大気のデータを流用。

*合計(1+2+3)
 0.358ミリシーベルト(四捨五入の関係で上記合計と0.001の差)

 これは、胸のX線集団検診(0.05)より多く、胃のX線精密検査(0.6)より少ない程度、または東京・ニューヨークを 2 往復した場合に宇宙線を余分に浴びる最大値(0.38)より少し少ない程度である。私は「今後、原発事故が徐々にであっても収束に向かうのであれば、仙台に住むことは放
射線防護の観点からはまったく心配ない」と判断してゼミ生にそう伝えた。

 何の根拠もなく「安全だ」「危険だ」とは言いたくなかった。だからこの試算をしてゼミ生に送ったことは今でも正しいと思う。しかし、素人計算が間違っていたらどうするのかと思うと、とても恐ろしかったことも事実である。いまでも恐ろしさがなくなったわけではない。いまさら私の試算値で不安に駆られる人もいないだろうと思うので公表するが、まちがいがあると思う方は、遠慮なくご指摘いただきたい。計算方法を教えろと言う方には無論お教えする。

 後日、原発問題のシンポジウムの後、放射線を仕事で扱っている理系の先生方にうかがうと、「だいたいはそれでよい。しかし、自分たちは、たいへん低い確率で特定の人が深刻な健康被害を受ける可能性があることを知っているので、危険はないと断定できないのだ」と言われた。またそのシンポジウムで原子力工学の先生は、原子炉の状態については明快に説明してくれたが、被曝の話になると「私、放射線については弱いので……」と困った顔になり、新聞報道と同様の解説だけを紹介された。これらは、いずれも科学的には正しく、学問に誠実な態度なのであろう。専門的に厳密に話したい、専門外のことに口を出さないという姿勢である。

 しかし、正確さが保証されなければ何も断言しないということは、いつでもどこでも正しいのだろうか。ある状況で、ある責任を負っている場合には、誤差がかなりあり、専門的にはまちがいを含むかもしれないとしても、その危険性を認め、さらに手元でできる限りの正確さを期したうえであれば「○○の理由で、だいたいこうです」と言わねばならないとき、言わねばならないこともあるのではないだろうか。

 この経験以来、私は原発にかかわる事柄について、いつでもどこでも同じことを言う態度はとれなくなり、また短い一言で「危険だ!」「安全だ!」ということもできなくなり、さりとて「科学的に確かめられていないことを主張したり、専門知識のない分野で主張したりするな」という自然科学者の意見にも、直ちにはうなずけなくなったのである。

※放射線医学総合研究所「放射線被ばくに関する基礎知識第6報」2011年4月14日(現在公開のバージョンは8月24日更新)。

2019年2月19日火曜日

山崎豊子さんのご逝去に際して(2013/10/1)

 作家の山崎豊子さんが亡くなられた。私は小説は『大地の子』と『華麗なる一族』しか読んでおらず,ドラマは『大地の子』の途中からしか見ていない。『大地の子』を偶然テレビで見て,その後,鉄鋼業研究者となったため,宝山製鉄所建設とそれに対する新日鉄の技術協力が舞台の一部となる原作を精読,数年前に『華麗なる一族』もいわば鉄鋼業ものだよなと思って読んだ。

 『大地の子』で感銘を受けたのは,日本と中国の双方の社会の複雑な闇と,それを乗り越えて生きようとする人間の強さを描いたことであった。山崎さんは執筆構想を立てた当時の胡耀邦総書記に「中国のよいところも悪いところも,遠慮なく書いてください」と言われ,その通りにしたという。中国の現代化を目指す懸命な努力も描けば,国民党軍・八路軍双方による長春市包囲による飢餓も描き,文化大革命による弾圧も描いた。中国残留孤児である主人公を,中国人の育ての親たちが命がけで文革の弾圧から守ろうとする姿も描けば,その妹を別の中国人夫妻が労働力として死に至るまで酷使する姿も描いた。

 このドラマが日本で放映されて日中関係が緊張しただろうか。当時の日本で,最近のようにことあれば中国の悪口を言う人間が増えただろうか。それはなかったと記憶する。このドラマから,日本も中国も光と影がある社会であること,だからこそ双方とも人間の強さを信じて生きねばならないこと,愛情が国境を超えるのは難しいが不可能ではないこと,少なくとも二度と戦争を起こしてはならないことを感じ取った人が多かったからではないかと思う。

 自分の国の影の部分は見せないことで評判をとろうとする態度も、隣国の達成はくさし欠陥はあげつらうという態度も浅はかだ。このドラマが作成されたときには、中国政府も日本の視聴者もそのような態度はとらなかった。

※『大地の子』には,戦前から1950年代まで中国に住んで,長春市包囲で死線をさまよった遠藤誉さんから,自らの著作を引き写したのではないかという批判があり(裁判では遠藤さんが敗訴),いささかの警戒感も私は持っている。また,遠藤さんの著作からも私は多くを学んでいる。しかし,『大地の子』から私が受けたインパクトが大きかったことも事実である。

NHKオンデマンド ドラマスペシャル『大地の子』
山崎豊子(1994)『大地の子(一)』文藝春秋,Kindle版。





2019年2月11日月曜日

劉江永先生と東日本大震災のこと (2013/10/15)

 清華大学の劉江永先生は,中国における日本問題専門家の政治学者である。多くの問題で中国政府に近い見地からこれを補強し,日本政府を批判する論陣を張っている。日本政府から見れば論敵の中の論敵といってよい。ふだん数々のことで日本政府に批判的な私であっても,尖閣諸島などについては劉先生の主張に賛成できないところが多い。

 しかし,私はここで,劉先生が東日本大震災に際して,日本と中国の人々にとって重要な発言をしていたことを紹介したい。

 2011年3月11日,大地震発生のニュースはただちに中国にも伝わった。北京で夕方からテレビに出演した劉先生は,以下のように発言した。

「日本にいる中国人が中国に避難できるように政府は支援すべきだ。中国人の安全を守らねばならないし,これから食料や物資も足りなくなるから,中国人を退避させることが日本の被災者のためにもなる。ただ,リビアの場合と異なり(当時,中国はリビア在住の中国人を全員帰国させようとしていた),日本にいる中国人は数が多いし,日本で働いている人や日本人と結婚している人など,生活基盤が日本にあって帰国できない人もいる。だから帰国を強制するのではなく,帰国するかしないかは当人の自由に任せ,帰国したい人を支援するのがよい」

 中国政府が,この意見を直接に聞いたのかどうかは,私は知らないし,劉先生本人もわからないそうだ。しかし,実際に中国政府がとった措置はこの提案のとおりであった。東北大学に通う留学生の間では,3月13日ころから政府が帰国を支援するという噂が流れ始めた。私たち教員は,それが本当かデマか判別することができず,中国大使館に電話をかけても常に話し中で通じないために苦慮していた。15日になって,ついに大使館と総領事館のウェブサイトに公告が中国語で掲載された。私はゼミの留学生の助けを借りてこれを解読し,「帰国したいものは支援するから,○日○時に××に集合せよ」という意味であり,帰国を命じるものではないことを確認した。

 この確認はきわめて重要であった。まず,帰国支援が本物であったことにより情報の混乱が収拾された。また,大学の政策を,留学生を保護することから,帰国する留学生に必要なメッセージを出し,今後の連絡経路を確保することにシフトさせることができた。さらに重要なことは,帰国した大半の留学生だけでなく,種々の事情があって帰国しないことを選んだ留学生の立場も守られたことであった。彼/彼女らが政府の帰国命令に反しているわけではないことが確認できたので,本人は中国政府との関係を心配する必要はなくなり(他方で日本に残ったために,この後,心配する親類を説得したり,放射線の恐怖とたたかうという困難に直面した),大学も,留学生と大使館の間に挟まってしまうという事態を避けることができた。中国政府はともすれば一方的な命令を出しがちであるが,この時の「帰国したい者は支援する。帰国するかどうかは本人の選択」という方針は,絶妙なものだったのである。実際,帰国を選んだ学生たちは,大使館の支援の下で,日本人との摩擦をまったく起こさず,秩序を守って帰って行った。また日本に残った学生たちも,大使館から何らとがめられることはなかった。

 私は,2012年3月末に東北大学で開催された「東日本大震災1周年 日本再興東北フォーラム」の会場で劉先生と出会った。劉先生は,仙台市に寄贈するための「絆は力」という書を持参されていたが,どうすれば市に届くかわからず,スケジュールの都合で会議終了直後に帰国しなければなかったので,事務局を訪ねてこられたのだ。私は,このときに,劉先生の震災当日の提案のことをうかがった。書は,会議終了後,劉先生に代わり,経済学研究科長から仙台市に届けられた。

 劉先生は日本政府と鋭く対立している。それは確かなことだ。私は劉先生の政治・外交に関する主張を肯じ得ない。それも確かなことだ。しかし,劉先生は日本人を憎んでいるのでもないし,日中関係を破滅的対決に追い込もうとしているのでもない。彼自身の立場から日本人を思い,日中関係を発展させようとしているのである。それもまったく確かなことだと,私は信じている。そして私は,あの不安と混乱の中で,日本人と中国人の双方にとって適切な提案をされた劉先生に心から敬意を払う。

2019年2月10日日曜日

手塚治虫先生が亡くなられた日 (2018/2/9)

 1989年2月9日。私は大学から帰って築30年(推定)のボロアパートで「ニュースステーション」を視ていた。突然,画面が白黒になって「空を超えて~」という歌をバックに「鉄腕アトム」のアニメ画面が。ギクリとしたが,案の定,小宮悦子さんが手塚治虫先生が亡くなられたことを告げた。
 
 子どものころ,私にとって「先生」とは手塚治虫先生と藤子不二雄先生だった。家にあったカッパコミクス版『鉄腕アトム』が私にとっての未来であり,虫コミックス版『オバケのQ太郎』が私にとっての今だった。この世界と続いているすぐそばの世界。ロボットやオバケと友達になれる世界にわくわくした。それだけに,『アトム』でロボットと人間のシビアな対立が描かれ,アトムが破壊される「青騎士の巻」は衝撃で,おそろしくてめったに読み返せなかった。とくにカッパコミクス版は青騎士の巻で終わっており,壊れたアトムを抱えてお茶の水博士が科学省に向かうところで終わっていた。私は『アトム』はこの悲劇で幕を閉じたのだと思っていたのだ。その後にアトムが復活するのだと知ったのは,何年か後にサンコミックス版に触れてからだった。

 『アトム』で最も印象的なセリフは,「人工太陽球の巻」に搭乗する英国諜報部員ホームスパンのものだ(ホームズと007が混じっている?)。彼は事件調査大けがをして頭脳以外はすべて機械になっているが,自分は人間だということに誇りを持ち,その反面ロボットをひどく嫌っている。アトムとの交流で考えを変えていくが,事件の最後に負傷して頭を打たれ,頭脳も機械化してロボットになってしまうのだ。彼は回復して新聞記者に語りかける。

「私をロボットと呼ぶなら呼ぶがいいよ。しかし私は…」
「ロボットになれたことを誇りに思うくらいだ」
「それはロボットがどんなにりっぱなものかということを知ったからだ」
「それは手術をうけるずっと前,アトムくんによって教えられた……」
「人間のように欲ばらずいばらず,ただ正しいことのためにつくすロボットたち」
「諸君,私はよろこんでロボットの仲間に……」

カッパコミクス版とはこんな感じのものです。
「光文社カッパコミックス版『鉄腕アトム』全32巻表紙集」『昭和otaku画報』ウェブサイト。
http://www.gahoh.net/enta/atom/index03.html

「手塚治虫について:プロフィール」手塚治虫オフィシャルサイト。
http://tezukaosamu.net/jp/about/