2018年12月25日火曜日

松竹伸幸「元外交部長が明かす 矛盾に満ちた共産党の安保政策に共感できる理由」を読んで (2016/1/6)

 共産党の元外交部長で,党中央と方針が合わずに辞任したが,いまもリベラル・左翼の立場で論陣を張っている松竹伸幸氏による論稿「元外交部長が明かす 矛盾に満ちた共産党の安保政策に共感できる理由」。共産党の自衛隊政策の変遷についての要約は正確だと思う(ただ,1970年代のスローガンは「中立・自衛」でなく「非同盟・中立」であったと思うが)。まず,左右問わず,共産党というといつでもどこでも護憲派で,自衛隊違憲論で,自衛隊即刻廃止論だと思っている方には,一読をお勧めする。昔も今も意外とそうではないし,結構,主張が変わっているのだ。
 ただ,私は,松竹氏よりも,共産党の自衛隊観は以前は単純だったと見る。つまり,もっとマルクス主義の古典的国家論に影響されていたので,「民族独立・民主主義の権力の下では,これを守る自衛の軍はありうる,対米従属・独占資本の政権の下では悪いことばかりするから不可」という命題が底に座っていたのだ。そのために日本国憲法の規定を活用していたにすぎない。だから,政権をとったら,自衛隊は大幅縮小だが原則廃止ではなく,国民の総意次第で改憲して防衛力整備もありと言っていたのだ。
 これはある意味硬直的な理論なのだが,皮肉にも逆の効果も持っていた。旧社会党が「非武装・中立」という,いくら何でも無理だろうという理想主義を掲げたため,共産党の方が「右」で現実的な対応をしそうに見えるということが起こったのである。外交政策で,旧社会党よりもむしろ共産党の方が民族主義的で,ソ連や中国や北朝鮮の覇権主義的行為を批判することが多かったという事情もあり,これがまた共産党の方を現実的に見せた。このため,官僚などの一部にも共産党と組む人が現れる(元外務官僚の浅井基文氏など)一方,徹底したヒューマニスト,理想主義的平和主義者ほど共産党は日和見だと「左」から批判する現象が,1980年代まではよく見られていた。
 そして,この20年ほどの共産党の動きは,松竹氏が自らその中で悩まれたように大きな転換だ。「自分たちが権力をとらないと自衛隊の行動は認められない」というマルクス主義の図式の単純適用をやめ,簡単に言えば「自衛隊が国民を守る行動をとるならよい,国民を脅かし,侵略に加担する行動ならだめ」というプラグマティズムに転換したのである。自分たちが政権をとっていない時でも,日本が攻撃されたときに,本当に個別的自衛権と専守防衛に徹して行動するならば,否定はしない,ということである。集団的自衛権は,自衛でなくアメリカの世界戦略の手伝いだから悪いという批判だ。
 それは,一方から見れば,政策的にも理論的にも柔軟で現実に即した対応だ。しかし,矛盾もある。やはり松竹氏が紹介しているように,共産党はマルクス主義国家論の単純図式から離れる過程で,もうひとつ,日本国憲法9条の理想を強調し,自衛隊違憲論で徹底することによって平和運動の理念を掲げるという動きも強めているからだ。そうした憲法論から言うと,プラグマティズムへの転換は問題だ。何しろ,自衛隊は違憲だけど即時解散はできないというだけでなく(ここまでは従来も言っていた),時によっては自衛のため活躍してもよい,というわけで,自分たちの考える憲法論と政策との間に矛盾が出てしまう。そして,原理的にプラグマティズムで自衛隊を取り扱ってよいというならば,憲法は時々の政権や世論動向によって変更してはいけないとか,歴代の国会審議を無視するような解釈改憲はいけないとかいう,自らの主張が危うくなる。松竹氏が指摘する共産党の矛盾を敷衍するとこうなる。
 ただ松竹氏は,共産党が抱えるこうした矛盾を,共産党がいい加減だからと非難するのではなく,矛盾せざるを得ないような現実によるものだ言う。「そもそも、立憲主義を守るということと、国民の命を守るということと、その二つともが大事なのである。その二つをともに守ろうとすると、誰もが矛盾に直面するのである」。そして,安倍政権の言う通りにすれば確かに矛盾はなくなるが,その方が国民の生命が脅かされるので,「スッキリしていればいいということではない」という。また,非武装中立にすればやはり矛盾はなくなるが,氏はこれも国民を守れないと批判する。「矛盾のなかで苦しまないような政党、あまりにスッキリとした政党には、ちゃんとした政策をつくれない。その代表格がかつての社会党だった」という。矛盾している方が,矛盾しないよりましなこともありうるというのだ。プラグマティズムの側から見れば松竹氏の言うとおりだろう。しかし,矛盾はやはり矛盾であり,理論的に批判され,それによって運動が動揺したり,弱まったり,不団結が生じたりすることもあり得るだろう。
 法や政治は専門外ではあるが,私は,これが共産党や,これと協力する平和運動や護憲勢力が考えておかねばならない,ひとつの大きな問題だと思う。松竹氏の論稿は,その所在を教えてくれるものだ。

 松竹伸幸「元外交部長が明かす 矛盾に満ちた共産党の安保政策に共感できる理由」 『iRONNA』2016年1月5日。

2018年12月20日木曜日

松井和夫先生のこと (2014/10/19)

 1988年,日本証券経済研究所大阪研究所の松井和夫主任研究員が連続講義のため東北大学に来られ,前期課程院生だった私に研究指導をしてくださった。その時にいただいた,論文原稿のコピーが出てきた。この論文は後日,『季刊経済研究』11巻2号に掲載された。肉筆とはいかないが,貴重なものである。この時の指導まで,私は「M&Aはマネーゲームになっていて,産業再編としては無意味化している」という先入観に固まっていた。松井氏は,そうではなく,産業再編の論理から生じたM&A&Dは現に行われていること,投機化するに際しては,産業再編の論理が投機に逆転していくメカニズムが繰り返し作用しているのであり,その逆転のメカニズムをつかむべきことを説いてくださった。その原理的な根拠としては楊枝嗣朗『貨幣・信用・中央銀行』を参照することを勧めてくださった(※)。この指導で私の修論の視角は大きく変わった。そして,M&Aにせよ為替にせよ株式にせよ,「投機だ,マネーゲームだ。市場の機能は無意味化している。だから通常の経済学はもう意味がない」式の批判はやめることにした。

 松井氏は,研究所の『証研レポート』に毎週(毎月ではない)アメリカの金融・証券情勢に関するレポートを書きまくり,さらに論文誌『証券経済』にもたびたび執筆する看板研究員で,実務の世界に大いに貢献されていた。しかし,実は大学院では名和統一ゼミ出身で(※),この写真の論文のタイトルに見られるようにマルクス経済学に造詣が深く,ヒルファーディングやレーニンが述べた金融資本とは,つまり産業と銀行のどういう関係のことなのかを,多様な諸現象のうちに探求されていた。同じマルクス経済学の中でも,現代の金融の諸現象をただ「マネーゲームだ」と非難して終わる研究もあれば,松井氏のように,産業再編の媒介,恐慌の価値破壊機能の代替,決済システムを通した情報集中を基礎とする銀行の産業政策の表現,など,分析的にとらえようとする研究もあったのだ。

 松井氏は1991年に大阪経済大学の教授になられ、2004年に逝去された。私にとって,価値観の転換につながるほどの影響を与えた,忘れがたい先生の一人である。

松井和夫氏略歴・業績目録(『大阪経大論集』55巻5号)
http://www.osaka-ue.ac.jp/file/general/5125

※(マニアックな注)ということは,大阪市大の院生ではあったが,貨幣・信用理論では同大学で絶大な影響を持っていた川合一郎理論を採用されなかったということだ。どちらかと言えば九州大学の岡橋保理論に近かったようである。そのせいか,東北大学での懇親会では村岡俊三先生と話が合っていたことを覚えている。

2019/12/20 表現を修正。

続稿。「続・松井和夫先生のこと」Ka-Bataブログ,2018年12月27日。


2018年12月14日金曜日

アニメの労働環境おそるべし+ミッキーマウスのストライキ (2015/3/14)

 濱口桂一郎さんのブログ。アニメ産業の労働問題を取り上げている。トム・シート『ミッキーマウスのストライキ アメリカアニメ労働運動100年史』の訳者久美薫さんの投稿に濱口さんが応えての紹介だ。

 何が重要かというと,久美さんはこの本の訳者解説「アニメーションという原罪」をネットに全文公開していて,このブログからリンクが貼られている。この訳者解説が,実は「戦後アニメ産業労働問題史」になっているのだ。見つけたら,あまりの迫力に思わず読みふけってしまった。

 『鉄腕アトム』の製作費が安すぎたことは有名だが,『オバケのQ太郎』,『アルプスの少女ハイジ』,『ミラクル少女リミットちゃん』『うる星やつら 乙女バジカの恐怖』などの作品製作過程で何が起こっていたか,高畑勲,宮崎駿,大塚康生らの大家たちは労働問題にどう関わってきたかが掘り下げられている。こういう話題では必ず出てくる「アニメーターは本質的にミュージシャンなどと同じ自営業です」「ラーメン屋がスープ仕込むのに何時間と営業時間外も働いてて『残業代』と言う奴いるか」などの言説もとりあげて論じている。しかも,ただの告発ではなく,業界の構造にどういう問題があるのか,アメリカのように労働組合が強くならないのはなぜなのか,下請けとフリーランス化はどのようなロジックで進められているのかなど,問題を考えさせる叙述になっている。

 アニメ産業に関心ある方,まずこの訳者解説を読んで損はないと思います。

濱口桂一郎「日本のアニメ産業環境は厳しいのではない。”違法な劣悪環境”である。」hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳),2015年3月。


2015年3月15日追加。トム・シート(久美薫訳)『ミッキーマウスのストライキ! アメリカアニメ労働運動の100年史』合同出版、2014年。買ってみたら、ピケティとほぼ同じ厚さ。

出版社のページ。
http://www.godo-shuppan.co.jp/products/detail.php?product_id=438





2018年12月5日水曜日

「利用可能な最善の技術(Best available technology=BAT)を途上国に移転する」という日本鉄鋼業の地球温暖化対策について(2012/12/5)

 この投稿は6年前にFacebookに書いたものだが,日本鉄鋼業の地球温暖化対策を検討する上でほとんど古くなっていないので,アーカイブする。

--
 利用可能な最善の技術(Best available technology=BAT)を途上国に移転する手法について。この手法は有効だが、以下のような限界を踏まえて用いる必要がある。とくに、相手がアセアン諸国やインドならまだよいのだが、世界最大の鉄鋼生産国である中国に対して効果が薄いことに気をつける必要がある。
 第1に、この手法は日本と対象国の鉄鋼業において、エネルギー効率に差があればあるほど有効であり、差が縮まってくると当然だが有効でなくなる。ざっくり言えば、ロシア、ウクライナ、この記事で取り上げられているインドあたりにはかなり効き目があるだろう。しかし、たいていの日本人には意外なことだろうが、中国への効き目は以上の諸国よりも小さい。鉄鋼業に関する限り、中国のエネルギー効率は向上傾向にあり、政府が指定した「重点大中型企業」と日本企業との差は6.6パーセントに縮まっているからである。
 第2に、たとえ効率に大きな差があっても、対象国において改善の対象となる工場に移転しなければ効果がない。アジアの鉄鋼業は設備能力が需要を大きく上回っており、その中には汚染とエネルギー浪費において問題が大きすぎ、各国政府によって淘汰政策の対象とされているものが含まれている。中国では「重点企業」以外のところに多い小型高炉、インドでは誘導炉がこれにあたる。こうした企業は閉鎖政策の対象であり、技術移転の対象になりにくい。ごくまれに、小型高炉から始めて日本人技術者に操業を学び、立派な大企業に成長した例もあるが。
 第3に、同じく効率に大きな差があっても、自国で環境設備への投資や改善ができるならば、技術移転には及ばない。ここでもインドは技術移転の対象となりやすいが、中国は必ずしもそうでもない。設備国産化比率が上昇して、大型高炉の自主設計にまで至っているからである。もっとも、環境設備の先端部分や管理面での改善については、まだ日本から移転の余地はある。
 第4に、BATの移転は同じ技術体系の中で行うものである。つまり、高炉・転炉法の製鉄所には高炉・転炉法のBATを、電炉法の製鉄所には電炉法のBATを移転するのである。すると、高炉・転炉法と電炉法の選択に問題があって汚染やCO2排出が増えている場合には事態はさほど改善されない。この点も中国相手だと問題になる。中国は高炉・転炉法が粗鋼生産の90%を占める国であり、世界平均の70%を大きく上回っている。ところが高炉・転炉法は、たとえBATを備えた立派な設備であっても電炉法の2.4-6倍程度のCO2を排出する(数字の開きは、電気の発電方法の違いによる)。
 第5に、鉄鋼生産量が急拡大すると、エネルギー効率の改善効果を打ち消してエネルギー消費とCO2排出が拡大してしまう。これは個々の企業の経営効率にとっては問題にはならないが、地球全体でCO2排出総量を規制しなければならない現状では、やはり問題としなければならない。この点では、やはり中国が筆頭であるが、世界の巨大製鉄国はみな問題を抱えている。技術の出し手である日本でさえ、世界第2の鉄鋼生産国である以上、CO2排出総量削減への貢献を迫られざるを得ないのである。
 BATの国際移転という手法の限界は以上のとおりである。この限界を乗り越える方法は、製鉄技術のブレークスルーで温室効果ガス排出を画期的に削減するか、トン当たりCO2排出が小さい電炉法の比率を上げて、それに伴う問題(屑鉄から高級鋼が作りにくいなど)にもとりくむかの、どちらかだというのが、私の意見である。

※2018年12月5日追記。この考察を学術論文内に組み入れたものは以下にある。
川端望・趙洋[2014]「中国鉄鋼業における省エネルギーとCO2排出削減対策」『アジア経済』第55巻第1号,日本貿易振興機構アジア経済研究所,2014年3月,97-127頁。

2018年11月30日金曜日

川端純四郎『教会と戦争』新教出版社,2016年の個人的編集後記 (2016/4/27-20165/7)

 川端純四郎『教会と戦争』新教出版社,2016年。カルト対策で著名な浅見定雄先生,東北学院大学の北博先生らとともに,2年半ほど編集し続けてようやく完成しました。キリスト教の視点,社会運動の視点,いずれからも読むことができます。

 本書は,著者の歩み(1-4),著者のキリスト者としての信仰(5-11),キリスト者としての社会的実践(12-22),礼拝における奏楽とオルガン(23-28)に関わる文章を選択して収録したものです。これまで出版されたバッハ研究,賛美歌研究とは極力重複しないようにしました。また,宗教学に関する学術論文は専門家向きなので対象から外し,日本基督教団の問題に密接にかかわる2編(9と10)だけを収録しました。このため,全28編のうち2編だけがやや難解ですが,それ以外は平易な文章になっています。著者との接点がキリスト教と社会運動のいずれか一方だけであった方でも,他方について知っていただくことができます。

 著者は,文字に残してよいものとそうでないものを厳格に区分していました。例えば,教会で行ったお説教などは後者であり,ほとんど文字に残されていません。他方,講演は,場合によっては前者と扱い,記録を配布することも認めていました。このため,本書には,公表出版物には初めて収録される講演記録も含まれています。たとえば,冒頭の「現代における矛盾と差別」は,著者の1945年8月15日経験を扱っていますが,学生向けの講演であり,ガリ版刷りの,ぼろぼろになったわら半紙の冊子から編集しました。




 以下の写真は,本書に収録された文章のうち,書物としては初めて一般公開される講演記録の冊子です。講演記録の一部は著者ホームページhttp://www.jade.dti.ne.jp/~jak2000/ 
でもご覧いただけますので,試し読みにご利用ください。




「現代における矛盾と差別」。1978年1月14日(土)に,日本キリスト教団学生センターで行われた講演内容に加筆修正したもの。著者の1945年8月15日経験のところを抜粋・編集しました。誤字・脱字や文脈の乱れたところに最小限の編集をかけ,事実関係を編注で補いました。読者の皆様には申し訳ないのですが,実は,それでも間違いは残っています。著者は陸軍造兵厰を海軍工廠ととりちがえていたようなのですが,編集過程でこれに気づかなかったのです。



「靖国神社と日本人の宗教心」。2006年3月6日,図書館九条の会学習会での講演。これは宗教学者である上に,前世紀より靖国神社国家護持反対運動などに従事してきた著者が,相当力を入れて学問的にも裏をとったうえで話しています。本人も自信があったらしく,テキストはウェブでも公開していました。個人的には,「靖国神社は日本の歴史で初めて味方だけ祀りました」という指摘が衝撃的でした。つまり,敵も味方も弔うとか,「死ねばみんな仏になる」といった日本の伝統とは正反対なのが靖国神社だというのです。





「礼拝と賛美」。1993年5月6日,日本キリスト教団松山教会にて。これもかなり力を入れた気配があります。講演記録冊子が2種類あって,この写真に写っているのは改めて打ち直したもののようです。



「『合同のとらえなおし』と日本基督教団の歩み」。1994年5月3日,日本キリスト教団九州教区総会における講演。日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同に関わる問題がテーマ。



「オルガニストの心構え」。1985年8月22日,日本キリスト教団東北教区教会音楽研究会講義。本書では,著者の従来の音楽研究の本に収められていなかった,礼拝における奏楽とオルガンに関する論稿も収録しましたた。著者はこのテーマで論文(本書収録の「礼拝における奏楽の位置」)も書いていますが,講演の端々からすると,バッハ研究や讃美歌研究ほど自分はプロではないと考えていたのだと,私は推測します。しかし,むしろ信仰がない私がこの講演記録と別の「礼拝と音楽」を読んで面白かったのは,非常に実際的に,礼拝の運営,教会の運営に役立つ話をしようとしていることでした。著者は一方では倫理と論理を突き詰める人でしたが,他方ではたいへん実務的な人でした。二つの講演には後者の側面が出ていると思います。



 1998年4月16日,日本共産党北海道宗教者後援会が開催した「信仰と科学の共同をめぐる講演会」の記録。本書では他の文章との重複を考慮して一部を削除し,抄録しました。
 この講演は,著者が三つのことを,他の文章よりもはっきり語っているために,収録しなければなりませんでした。一つ目は,著者が信仰と自然・社会科学の関係をどう考えていたか,自然科学が正しいならば物理的には神様はいないことになるわけで,そこをどう考えていたかを,はっきり語っていることです。二つ目は,当初は社会党(当時)支持だったのにやがて共産党を強力に支持するようになった理由,学生運動を支援しながら新左翼は支持しなかった理由を,経過を含めて紹介していることです。三つ目は,マルクス主義・科学的社会主義にほぼ賛成した上で,人間理解でなじめない部分があるとも述べていることです(これは『3・11後を生きるキリスト教』でも書かれていますが)。
 しかし,問題もありました。まず,いつ講演したかわからないのがネックでした。月日は書いてあるのに年が書いていないからです。しかし,講演と「全国宗教人・日本共産党を支持する会」の結成が同年であることが冊子の記述からわかるので,この「支持する会」の結成についての報道を探し出して解決しました。
 次に,講演タイトルがないことが問題で,収録するために何かつけなければなりませんでした。「信仰と科学」とすればあたりさわりがないのですが,おそらく著者の本意ではないものになります。本意をあらわすのは「なぜ日本共産党か」でしょうが,そうするとその背後にある著者の信仰や社会観がにじみ出ないで政治一辺倒の文書に見えてしまいます。そこで組み合わせればよいと考えて「なぜ日本共産党か -信仰と科学-」としました。いささかためらいもありましたが,著者を知っている人は,賛否はともあれ川端純四郎は「聖書とバッハとマルクス」の人であり「教会と共産党」の人であったとわかっているから,まあこれでいいだろうと割り切りました。著者を知らずに書店で見たキリスト教信者の方がぎょっとするかもしれませんが,こればかりは勘弁願うしかありません。賛否を問わずご覧になって,著者と対話していただければと思います。

川端純四郎[2016]『教会と戦争』新教出版社。

2016/4/27および20165/7にFacebookに投稿した記事を再構成。文体を編集。






















2018年11月28日水曜日

中国の必修科目としての「政治経済学=マルクス経済学」に隠された深遠な陰謀 (2013/10/12)

 中国ではマルクス主義は国定思想なので、大学でも関係するいくつかの科目が必修科目になっている。そこにはマルクス経済学の基礎に相当する「政治経済学」も含まれる。

 この授業について、私の知る限り、中国の大学生から「つまらない。忘れました」という以外の感想を聞いたことがない。「ほんっとーに、つまらないです!!」「I hate it!」という表現さえ聞かれる。私自身が学生・院生時代に、当時すでに少数派となっていたマルクス経済学ベースの勉強をしていて、その問題点も多少はわかっているつもりなのだが、そういう学問的な問題ではないようだし、思想を押し付けられるのが嫌いというだけでもないらしい。

 ヒアリングと、北京や上海の書店で「政治経済学」の教科書らしきものもめくってみた限りでの情報をまとめると、以下のような事情らしい。

 政治経済学の授業のスタイルは、マルクス経済学の超要約版の教科書を使い、図式化して、丸暗記を強要するものである。内容のどこが現実の社会とどう関わっているのかといったことは一切やらない丸暗記らしい。つまり、「寿限無寿限無五劫の擦り切れ」を暗記するのとほぼ同じ要領で「社会的存在が社会的意識を規定する」と覚えるのだ。学生は試験のために暗記して試験終了とともに忘却し、ただ「つまらなかった」という感覚だけを心に残す。日本でも科目を問わずこういう授業は存在するが、教科書も教え方もそのもっとも悪いバージョンになっているようだ。

 もう少し詳しく言うと、資本主義経済については『資本論』の超要約版教科書を叩き込むのだが、社会主義計画経済の原理とそれが行き詰まった理由、中国の「改革・開放」を含む市場経済化の経済学的根拠については、ほとんど教えない。中国の経済学の授業なのに「改革・開放とはどういう原理でなされているのか」は語られないという不思議なことになる。よってますます現実と関係なくなり、学生が関心を持つべくもない。

 なぜ、こういうことになるのか。もちろん、国定思想は干からびた暗記物になるものだという一般傾向に過ぎないのかもしれない。だが私は、次のように邪推する。

 いま、マルクス経済学が正しいか、まちがっているかはは脇に置こう。とにかく中国の各大学が、丁寧に、現実の社会とのかかわりを解きほぐしながら国定思想たるマルクス経済学の授業をして、ある割合の学生がそれも一理あるなと思ったとしよう。マルクス経済学が一理あると思うというのは、つまり

「資本主義って、一見対等平等に取引しているようで、必然的に格差を生むしくみになっているんだな」とか、

「技術進歩の果実はほとんど資本家のものになってしまうんだな」とか、

「資本主義発展とともに農村から都市に移動した人口が過剰扱いされて、失業者と都市問題を生むんだな」とか、

「貧困って自己責任じゃなくても社会の問題なんだ」とか、

「信用機構や株式会社ってひとつまちがえると詐欺の温床になるんだな」とかいう風に思うことである。

 さらにすすむと、

「これはみんなわが国で起こっている問題だよね」とか、

「考えてみると中国の社会主義市場経済って、ほぼ資本主義だよね」とか思うだろう。

場合によっては、

「なるほど、労働者が立ち上がって資本主義に反抗するのは歴史の必然なのか」と思いかねない。

 そう、国定思想を丁寧に教えると、現在の体制に対する疑問を惹起してしまうのである。中国政府はこの矛盾に気づいているがために、わざと極端につまらない「政治経済学」を必修化し、学生をマルクス経済学嫌いにしているのではないだろうか。

※念のための注。中国にも学問的なマルクス主義研究は存在する(哲学が強くて経済学が弱い傾向はある)。また改革・開放に関する経済学的研究は時とともに盛んになっている。そういう研究と必修科目の授業がまったく分離していることが特徴なのである。

2018年11月26日月曜日

與那覇潤『中国化する日本』文藝春秋,2011年と池田信夫・與那覇潤『「日本史」の終わり』PHP研究所,2012年を読んで (2013/10/1)

 近世から現代にいたる歴史を見るときに、「西洋化しているかどうか」だけでなく「中国化しているかどうか」を軸にすると、いままで見えなかったものが見えてくるのではないかというのが、與那覇潤『中国化する日本』の主要な論点である。実は、ふだんから中国人留学生と接し、さわり程度とはいえ中国産業を観察していると腑に落ちるところが多く、この考えに注目している。「中国社会の方がグローバリゼーションに適合しやすいのでは?」という疑問に正面から一つの試論を提示してくれる本であったことは確かである。

 読んでない人が誤解するといけないので注意書きすると、與那覇さんは「中国化が良いことだ」と言っているのではない。歴史を考えるものさしとして「中国化」を打ち出しているのだ。これまで、「西洋化」が良いことだと思う人もそうでないと思う人も、「日本が西洋化したかどうか」という基準で歴史を見てきた。同じように、ものさしとして「中国化したかどうか」をあてようという提案だ。

 與那覇さんの考える「中国化」とは,一極専制であること、法の支配より徳治を期待すること、立法に対する行政の優位、秩序への合意を調達する原理を「法の下の平等」でなく「独占的地位が固定化せず流動的であること」に置く(例:科挙に挑戦する機会は誰にも開かれていた)、身分制否定と私的利益追求の自由、といった特徴を社会が帯びることだ。確かにこれなら「西洋化」とも違うし,日本社会の特徴としてよく言われることとも違う。そしてこういう軸で考えると,政治的自由主義・個人主義には向かわないが,経済的自由主義・個人主義に向っていく中国社会の傾向などが理解可能になる。国家資本主義にも見えるし,大衆資本主義にも見えることの歴史的背景としても重視すべきかもしれない。

 もしかすると以前から中国化論に似たことを述べた研究はあったのかもしれないが、何しろ中国史はまったく不勉強なのでわからない。また、歴史学者のイメージを一変させる與那覇さんの超軽い文体(だが私の同僚にも一人いる)と話を単純化してわかりやすすぎるたとえ話にする話法に立腹する読者もいるかもしれない(私の周りにもいる)。しかし、というかそれ故にというか、『中国化する日本』は大ウケしたようだ。

 その與那覇さんと池田信夫さんの対談を読んだ。私は池田さんの「メンバーシップ雇用」論などは賛成だが、他人に対する批判のすさまじさについていけなくて,ブログはあまり読んでいない。しかしこの本では池田さんは冷静で面白い議論をしているし,與那覇さんは池田さんの主張に流されていない。池田さんの話が一面的になりそうになると輿那覇さんが「ただ、実はこういう面もあるわけで」「そうするとこういうことになると思うのですが」「それをもう少し考えてみますと」という形で話を深めたり,押し広げて広い角度から見直したりしているように見える。やはり,ただのほら吹きではなく,たいへんな討論能力の持ち主なのだなあと感心した。

2018年11月23日金曜日

トマ・ピケティ『21世紀の資本』第6・7章ゼミ記録 (2015/5/8)

 学部ゼミ議論メモ。『21世紀の資本』6章。「昔の資本主義は資本が利益を生んだが,いまは人的資本(知識,技能)が利益を生む」といった経済学や経営学に広くみられるワンパターンを実証データを持って批判し,資本が収益を生み出す力はいまなお侮れないことを示している。具体的には、資本蓄積の増進(βの上昇)が,それに伴う資本収益率低下(rの低下)を上回って,資本分配率を高める(αの上昇)傾向は起こり得るし,現に1980年代以後のフランスやイギリスでは起こっているとする(α=r×β)。より専門的に言えば,これはコブ=ダグラス型生産関数の想定への批判となる。ただし,狭隘な想定を批判しているのであり,生産関数を全否定しているのではない(だからこそソローがピケティをabsolutely rightというようなことも起こる)。
 7章。完全に能力主義によって所得が決定される社会を想定して思考実験。1)最大のネックは家族内での養育と贈与(相続)。能力主義的観点から言えば,前者は能力獲得機会の格差を生む可能性があり,後者は不労所得だ。では,市場経済と資本主義がもしも能力主義の徹底であるというならば,家族内にもそれを徹底させるのが本来のあり方なのか。裏返すと,資本主義を能力主義だという人は,暗黙のうちに家族は例外としていないか。2)それから,能力の基準がどうであるかによって,つけられる序列は変わってくるし,求められる訓練や努力も変わってしまう。加えて3)マクロ的制約。ケインズ的世界では,各人の能力差が小さくても,あるところで非連続的に雇用されるか非自発的に失業するかで所得が大きく違ってしまう。4)究極の問いは,資本収益とは何か。6章で説明されたように,資本運用労働の対価を控除してもまた純粋資本収益が残るならば,それはただ資本を所有しているがゆえの報酬であり,能力とは関係ないのではないかと言う問題が残る。





稲葉振一郎『不平等との闘い ルソーからピケティまで』文春新書,2016年5月に関するノート (2016/9/4)

  稲葉振一郎『不平等との闘い ルソーからピケティまで』文春新書,2016年5月。経済理論史となると,半端者経済学者の私では歯が立たない。『ライブ・経済学の歴史』とかいう本を書いた同僚もそうであるが,頭の回転が速すぎて,たいていの理論をすらすら解説してしまう同世代というのは,実に劣等感を刺激する存在で困る。しかし,まあ嘆いても仕方がないので感想を記す。
 資本主義がマルクス的な階級間格差が構造化される世界でなく,誰にでも等しい機会が与えられる状態がいつも存在する新古典派的世界になるためにはどんな理論的条件が必要か。稲葉氏は,効率的な資本市場を重視する。効率的資本市場があれば,労働者が資本蓄積することも可能になり,社会は流動化するということだ。
 しかし,話はそこで終わらない。稲葉氏は,そこに技術革新の有無,人的資本,人的資本がヒトに体化されているが故の資本市場の不完全性という条件を加えていく。そうすると,今度は不平等の維持・拡大や,不平等ゆえに成長が阻害される可能性が生じてくるのだ。これが,経済学における不平等ルネサンスと言われるものだ。といっては省略しすぎだが,まちがってはいないだろう。実際の緻密な議論の組み立ては本書を参照いただきたい。 しかし,稲葉氏のこうしたストーリーが,本書の末尾でピケティ『21世紀の資本』にたどりつくとき,どうもうまくかみ合っていないような気がする。『21世紀の資本』だけは私も精読したつもりなので,ここは必ずしも不勉強のせいではないと思う。
 ピケティは歴史統計からその蓄積ぶりが把握できる物的資本(実際には資産だが)だけに対象を絞り,それだけで,歴史的な資本蓄積のあり方とその不平等への影響は十分把握できると実証的に主張している。人的資本は思いっきり無視されているし,技術革新もほとんど組み込まれていない。資本市場が効率的かどうかも論じられていない。理論史的文脈から理論史に整合した理論的説明の問題を立てるのではなく,歴史的対象の性質から,歴史の理論的説明の問題を立てているのだ。 私は,ピケティの論点のうち,稲葉氏が重視していない以下の二つの点が重要ではないかと思う。
 一つは,資本所得(と,一部,とくにアメリカの最高経営層の労働所得)は,結局能力の発揮の結果ではなく,不労所得なのではないかという提起だ。これは,経済理論的には,資本運用には収穫逓減が働いていないということを含意する。が,それだけではない。多くの労働所得と異なり,資本運用の成否は能力の有無に関係なく,ただ,資本を持っているかどうかに依存する,そして,資本を持つ機会も能力で決まらないものが多いというのだ。その最たるものは相続だ。これはマルクスに極めて近い視点だ。
 この視点に対しては,批判はありうる。シュムペーターが述べたように,あるいはビル・ゲイツが実際に『21世紀の資本』に対するコメントで述べたように(※1),企業者の革新的行動に対する報酬としての起業所得が考慮されるべきという批判だ(※2)。
 しかし,ピケティはよく読むと資本所有者自身の資本運用労働による起業所得も考慮している。その上で,それでは説明がつかないほど歴史的に資本所得は大きく,不労所得の疑いが強いと主張しているのだ。 もう一つは,第二次大戦後の先進資本主義国において,ある程度所得や資産の分配が平等で,能力主義が成り立っているように見える部分があるとすれば,それは資本主義がもともとそういうものだからではない,ということだ。大恐慌における経済崩壊,第二次大戦における物理的破壊と,資本の総力戦への動員,そして戦中と戦後処理の過程でのインフレーションによって,資本が破壊されたことによると見ないと,説明がつかないということだ。
 歴史統計が示唆するこの2点を,経済理論はどう説明するのか,とピケティは迫っている。ピケティの重視したこの二つの問題を,稲葉氏はそれほど重視しているようには見えない。むしろ,ピケティが「現代の経済学の理論的な流れに対して,かみ合った理論はまだ構築できていない」という風にとらえているように見える。それは,理論史から見ればそうなのかもしれない。しかし,ピケティ自身の問題意識に即して,「歴史統計が示す現実を理論は説明していない」,ととらえるならば,話は違ってくるのではないだろうか。どう違ってくるのかはわからないのだが。
シェア先
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166610785
※1 ビル・ゲイツの『21世紀の資本』へのコメントについて(2014年10月16日Facebook投稿)。
https://www.facebook.com/nozomu.kawabata.5/posts/376926135806688
※2 私も純理論的に考えた場合には,プロセス・イノベーション以外のイノベーションが考慮されず,平均を超える企業者所得の根拠が解明されていないのが,シュムペーターに対するマルクスの弱点だと思っている。

ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか:権力・繁栄・貧困の起源』に関するノート (2017/1/20)

 ようやく読み終わったダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか:権力・繁栄・貧困の起源』。経済発展を左右するのは地理や文化ではなく制度であるという考えで首尾一貫して世界史を説明する壮大な試み。その枠組みはたいへんシンプルで,政治と経済が包括的制度であるか,収奪的制度であるかによって経済発展が左右されるというものだ。
 包括的制度とは,多元的に,様々な集団や階層が参加して,創造的破壊を行なえるような制度のことだ。過去においては色々な制度があったが,現代の経済においては,ある種の市場経済,つまり財産権が守られていて,過剰な参入規制や,国家的・私的独占がなく,教育によって創造的経済活動ができる人々が多数存在しているような市場経済だ。政治においてはやや複雑で,まずある程度の中央集権が前提になる。中央集権がないと,財産権を守り,恣意的な収奪や抑圧を防ぐことができないからだ。しかし,その中央集権化された国家権力を一握りのエリートが独占しているのではなく,様々な集団,階層による多元的な参加が可能になっていなければならない。過去においては色々な制度があったが,現代で言えば民主主義がこれに近い。ただ,名目は民主主義や議会制や複数選挙があっても,実質的に一握りのエリート支配になっていれば収奪的制度だ。
 包括的政治制度と包括的経済制度が両立していればいちばんうまくいく。収奪的政治制度と収奪的経済制度では最悪だ。複雑なのは,収奪的政治制度と包括的経済制度の場合で,これは現在の中国を含めて,ある程度までは経済発展できる。しかし,長期的に見ると,投入をただ増やすだけ,あるいは技術を海外から借りるだけによる発展になりやすく,種々のアイディアの出現と創造的破壊を妨げるので,発展が限界に達するだろう。
 以上の枠組みでほぼすべてが説明されている。実は,読んでいて妙な既視感を覚えた。これは要するに,以前より経済史で色々な人が言ってきた「下からの資本主義発展」であり,大塚久雄(あまり読んでないが)であり,「政治と経済両方の近代化」論と似た話ではなかろうか。私はこれらの議論をあまり疑っておらず,アセモグル&ロビンソン両教授にもおおむね同意する。しかし,もっとラディカルな人からは色々批判もあると思う。
 一応,私でさえもマルクス経済学崩れなので,(戦後直後の大塚久雄批判みたいな古いことを言って申し訳ないが)「市場経済と資本主義自体に収奪的性格は内在していないのか」という疑問も持たないではない。もちろん,社会主義計画経済は大いに収奪的だと判明している現在,市場経済と資本主義よりましな経済制度はないだろうなあということくらいは,わかっている。そして,市場経済のもとでは,財産権をきちんと保証した方が経済が発展するというのも,まず間違いなくその通りだと思う。しかし,財産権を完ぺきに保障することが,課税を通した所得再分配の困難,土地の計画的利用の困難,その社会の家族観にもよるが相続を通した非能力主義的分配による格差の拡大に結び付くと,それは結局収奪的制度に近寄ることになるだろう。所得再分配や都市計画や,相続税をもちいるような福祉国家路線の方が,長い目で見れば多くの集団,階層の経済的行為への参加を促し,創造的破壊を促進する包括的制度だということになる。しかし新自由主義論から見れば,それは官僚支配であり,市場経済の活力を殺す行為だ等々となるだろう。この辺りを著者がどう考えているのかには興味がある。あまりにも単純で古い疑問なので,大声で言うのが恥ずかしくないでもないのだが。
 ついでだが,Why Nations Failという原題を『国家はなぜ衰退するのか』と訳していいのだろうか。Nationは「国」「くに」ではあっても「国家」ではないだろう。『国はなぜ衰退するのか』などとすべきではないのか。『諸国民の富』ではあっても『諸国家の富』ではないし,『国の競争優位』ではあっても『国家の競争優位』ではないだろう。これも戦後直後の学者のような発言で気が引けるのだが。

ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン(鬼塚忍訳)[2013]『国家はなぜ衰退するのか:権力・繁栄・貧困の起源』早川書房。