2018年10月11日木曜日

マイケル・ポーターの競争戦略論における競争の位置づけについて(2013/1/3)

 マイケル・ポーターの戦略論における競争の位置づけについて。最近、ポーターの「5つの競争要因」とポジショニングによる競争戦略論を、競争を回避し、「戦わずして勝つ」戦略だとする論評がある。藤本隆宏氏のものが日本では著名であるが、最近出た入山章栄氏の『世界の経営学者は今何を考えているのか』でも同様の指摘がなされている。私は、ポーターが『国の競争優位』やクラスター論で競争が激しいことの効用を説き、同一産業に複数企業があった方が国や地域は発展すると述べていることを考えると、本当に競争回避論と論評してよいものかどうか、ずっと疑問に思っていた。最近、学部ゼミで「[新版]競争の戦略」と「共通価値の戦略」を読んでポーター自身の主張を前よりも理解したように思い、また大学院ゼミでたまたま石原武政『マーケティング競争の構造』を読んだところ、昔勉強した寡占論の応用でこの問題を整理できると思ったのでノートにしておきたい。

 この問題を理解する鍵は、ポーターにおいて競争は二層に捉えられているということだと思う。これは「戦わずして勝つ」という表現から入るとわかりやすい。藤本氏がよく使う例えでは、1980-90年代のアメリカ自動車メーカーがSUVに集中特化し、日本メーカーが得意とする小型乗用車との競合を回避したケースがある。この場合、戦い=競争は既に二層でとらえられている。ある次元では「戦わず」、つまりSUVと小型乗用車は競合しないのであるから競争しないことになる。しかし、根本的には自動車産業において「勝つ」のであるから、戦い=競争を行っていることになる。SUV・小型乗用車の違いも完全かつ永遠のものではなく、顧客の嗜好がSUVから小型車に大きくシフトすればSUV特化戦略はピンチに陥ることもある。2000年代には実際にそうなったのである。これは、SUVと小型乗用車の差別化が完全ではなく、ともに自動車市場という緩やかな同一性のもとにあるから生じることである。

 このように、ポジショニングによって「戦わずして勝つ」という場合、戦っているのに戦っていないのである。自家撞着に陥らないように階層性でとらえれば、競争は第1層に存在しており、第2層において存在しないと言ってもいいだろう(基層と表層と言いたいところだが、藤本氏の競争力論とごっちゃになりそうなのでやめておく)。

 第1層とは、産業内において決して完全にはなくならない競争一般である。市場経済と資本主義においては、企業のいかなる競争優位も、また産業組織における独占や寡占も永遠ではなく、常に掘り崩される可能性をもっている。第1層の競争は、すべての産業組織に対して常にそれを掘り崩し、市場均衡に引き戻そうというベクトルとして存在している。この意味で、地層の比喩によって、より深い方にあり、それより上層のものの前提となっているという意味で第1層と呼ぶのである。

 これに対して、第2層とは、競争一般に対立するような産業組織のあり方である。これは様々な形態の独占や寡占を含む。その特徴は、競争に対立しながら、同時に第1層での競争一般を前提していることである。別の言い方をすれば、競争一般を部分的・一時的に抑止しながら、根本的には決してそれをなくすことができず、潜在化した競争の再開の可能性に脅かされているということである。よってこちらの方が表面的な次元ととらえられる。

 ポーターは同一産業内の競争がめったなことではなくならないことを認めていた。また、少なくとも国の競争優位論やクラスター論では、第1層レベルの競争は国や地域の生産性を高め、また生産性が高い産業を生み出す可能性を高めるという意味で望ましいとした。この次元ではポーターは競争推奨論者であるし、競争で企業を鍛えることの重要性も軽視していない。

 同時にポーターは、その上でコスト・リーダーシップや差別化によってそれなりに有意な期間、競争優位を固定できる可能性も認めている。そして、個々の企業に対しては、そうした地位を獲得するための資源配分や価値連鎖形成を勧めている。つまり第2層においては、ポーターは、利潤が縮小するような結果を招く競争は、個々の企業にとっては望ましくないとしているのである。

 さて、この二つの層を分けた上で、後者をさらに二つのケースに分けたい。ポーター自身は意識していないように見えるが、第2層における企業行動について、ポーターは性質の異なる企業行動をひとまとめにしていると私は思う。

 ある企業がコスト・リーダーシップ・差別化・集中戦略に成功すると、当面は、あるいはあるセグメントでは直接競合する相手がいなくなるため、超過利潤を獲得できるようになる。独占、または寡占におけるリーダー企業が存在する状態である。しかし、それは第1層における競争はなくならない、つまり同業種の企業との競争が何らかの形で再開される可能性が残されているという前提の上でのものである。よって、リーダー企業も競争優位を持続する努力ははらいつづけなければならない。では、いったいどのような努力を払うのか。

 一つは、継続的なイノベーションであろう。リーダー企業の基本的行動は、コスト・リーダーシップを維持するためにはコストを下げ続け、差別化優位を維持するためには製品・サービスを開発しつづけることである。そのためにはイノベーションを生み出す能力が必要であろう。そして、このイノベーション能力の必要性が、リーダー企業に挑戦するアウトサイダーにとっての参入障壁を形成する。「5つの競争要因」論においてポーターがこうしたイノベーティブな要因を強調しているのは当然である。そして、国の競争優位論やクラスター論における競争の奨励と合わせて読むならば、ポーターが主要に強調したかったのはこちらのタイプの努力と読むことが妥当であろう。また、この側面においては、ポーター理論は確かに能力構築についての具体的な理論を備えてはいないものの、企業の組織能力構築を重視する戦略論と本質的に矛盾するものではないと、私は思う。

 しかし、参入障壁は、別の方法でも築くことができる。原料や販路の独占、生産における必要投下資本量の大きさ、大規模投資を必要とする広告・宣伝の必要性、先行投資によるネットワーク外部性の活用などである。これらの要因による参入困難が存在する場合、リーダー企業はイノベーションを継続的に起こさずとも超過利潤を一定期間得ることができる。場合によっては、もっともすぐれた技術を採用していなくてもリーダー企業であることができるし、しばらくの間超過利潤を獲得しながら、その地位に甘えて技術進歩の速度を停滞させることさえある。そして、「5つの競争要因」論の論文だけを読む限り、ポーターは、こうしたタイプの参入障壁と、イノベーションを生み出す能力による参入障壁とを区別していないのである。この側面をとらえる限り、ポーターは競争回避を推奨しているし、組織能力構築と相いれないことを述べているとも言えるのである。

 イノベーションの継続と独占への安住とでは、市場の成果は全く異なる。つまり、当面の消費者の便益や、技術進歩の社会的効果は、明らかに前者の方が上である。産業の市場成果がまったく異なるものを同一に扱うことは問題と言わねばならない。少なくとも、社会全体の望ましさを基準とする経済学の視線から見る限りはそうである。もっとも、ポーター競争戦略論は、もとより個別企業のマネジメントの視線から見た経営学であるから、区別がないのだということは一応できる。しかし、ポーター理論は産業組織論を基礎にしたものであるし、ポーター自身が国の競争優位論やクラスター論、さらに近年では共通価値論によって、企業の利益と社会の利益が両立する可能性を理論的に探っているのである。その彼にして、両者の区別を抹消するような理論装置を組み立てていることは、やはり注意を払うべき点だと思われる。

 まとめよう。ポーターは、競争を二つの次元で階層的にとらえている。産業内競争の根本的な次元において競争は当然に存在するものとされる上に、推奨もされている。差別化やコスト・リーダーシップなどの競争戦略が発動されるより表面的・一時的な次元では、継続的イノベーションで競争優位を維持する企業行動と、競争を回避して寡占的地位を保とうとする企業行動を論じている。この二つは、彼の著作全体の中では区別されているものの、「5つの競争要因」とポジショニング論では区別されていない。よって、競争回避論という性格付けは、ポーター競争戦略論のごく一部分においてのみ妥当である。これが現段階でも私の整理である。

 より広い文脈におくならば、ポーターの論理を経済学的に深めようとすると、一方では寡占体制の下での超過利潤の形成と消滅の論理と、そのプロセスがもたらす市場成果という古くて新しい問題に突き当たり、他方ではまた、経済学の論理と経営学の論理を接合することの難しさにつきあたる、ということなのだろう。

2013/1/3Facebook
2016/1/5Google+

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