労働基準法違反のブラック企業がなしたことについて,その経営者や設立発起人は,被害者に謝罪して反省を表明すべきではないだろうか。
ある企業で,物理的暴力が行使されていたかどうかについて議論の余地があるとしても,事実と異なる甘言による採用,説明と異なる過酷な労働条件,外出の制限,退職の自由の制限といった労務管理が行われていたら,それは事実上,ひどい仕事を「強制されていた」とみなされるのではないだろうか。
企業経営を研究する立場から,私は,「従軍慰安婦問題に関する河野談話の当否」とは,こういう問題だと思っている(※)。
いま,「河野談話を検証して見直せ」という意見が盛んだ。その根拠は,「元慰安婦の証言だけを根拠に,慰安婦募集に強制連行などの強制性があったとするのは疑わしい」というものだ。しかし,私にはこれは問題の矮小化と思えてならない。
日本政府は1991年からこの問題について調査を行い,元慰安婦以外にも様々な関係者から聞き取りを行い,複数の省庁や国立公文書館や米国国立公文書館の資料を調査し,国内外の文書や出版物も調査した。まず,内閣官房内閣外政審議室が調査結果を発表し,それを受けて加藤紘一官房長官が談話を出した(1992年7月)。さらに調査が継続されてその結果を内閣官房内閣外政審議室が「いわゆる従軍慰安婦問題について」として発表した(1993年8月)。それを受けて河野洋平官房長官が談話を出した(1993年8月)。いわゆる「河野談話」だ(末尾に全文へのリンクあり)。
河野談話は,調査によって以下のことが判明したと述べている。
*慰安所設置には軍が関与したこと。
「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」(河野談話より)。
*本人の意思に反して慰安婦にされた人がいたこと。
「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」。「戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」(同上)。
*慰安所の生活に自由がなかったこと。
「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」(同上)。
河野談話は,以上のことが「本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」として「いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対しお詫びと反省の気持ちを申し上げる」としている。
河野談話は,物理的暴力という意味での強制性についてのみ問題視しているのではないし,元慰安婦の証言だけを根拠にしているのでもない。
・各種資料と証言も活用して証明している。これは河野談話のもとになった内閣官房外政審議室の文書にちゃんと書いてある(末尾に全文へのリンクあり)。
・慰安所設置に軍が関わってことを述べている。
・軍が関わった慰安所で,甘言,つまり騙されて慰安婦にされた人がいることや,慰安所の生活に自由がなかった事例があること,つまり外出の自由や退職の自由がなかった事例があることを問題にしている。
騙されて慰安婦にされたことや外出の自由や退職の自由がなかったことは,吉見善明『従軍慰安婦』(岩波新書,1995年)などでも示されているし,そこでも元慰安婦の証言の他に,元軍人の証言や各種資料・著作による証言・調査結果も用いられている。
ここで思考実験のために,「見直し」を主張する人が言うように,強制連行などの物理的暴力による募集だけはなかった,あるいはほとんどなかったと,仮定してみよう。私は吉見,前掲書を読むとそうした募集もあったのではないかと思うのだが,あえて,「物理的暴力がなかったらお詫びや反省は要らないのか」と問うてみたい。そこに「見直し」論のものの見方の特徴を見出すからだ。
もし仮に物理的暴力による募集がなかったとしても,だまされて慰安婦にされた人がいて,退職の自由や外出の自由がなく,過酷な労務管理が行われていたら,それは要するに,軍の関与の下でつくられた事業所が,セクハラあり,パワハラありの過酷な労務管理を行うところだったということではないか。それは今日の言葉で「強制」というのではないか。そんな事業所の設置に旧軍が関与したことについては,政府が「お詫びと反省」を表明するのももっともではないか。
物理的暴力による募集がなければ「お詫びと反省」を述べる必要がないと考えている人が少なくないとすれば,たいへんおそろしいことだ。強制連行による社員募集がなければ,物理的暴力がなければ,それで強制はなく,パワハラもセクハラもいじめも認定されないという考えが人事管理でまかり通ったらどうなるのだろう。
私は企業を研究する経済・経営学者として以上のように思う。河野談話に書かれていることは,物理的暴力のところに議論の余地があろうとなかろうと全体として妥当であり,見直す必要はないと考える。
※このノートは,河野談話の当否に絞って考えている。従軍慰安婦問題全般を扱っているのではない。ジェンダーについての見方によって意見が分かれる問題,歴史叙述における事実への見方によって意見が分かれる問題があることは一応知っているが,私は,そこに踏み込まなくても河野談話の当否は論じられると考えた。
河野談話全文(1993年8月4日)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html
内閣官房内閣外政審議室「いわゆる従軍慰安婦問題について」(同上)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/pdfs/im_050804.pdf
2014年3月3日:初稿。ただちに語句修正。
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