2018年10月12日金曜日

ボー・グエン・ザップ将軍の死に寄せて General Vo Nguyen Giap passed away (2013/10/6)

4月30日はベトナム戦争終結の40周年であった。アメリカの理不尽な爆撃に耐え,ようやく平和と統一を達成したベトナムに,世界は称賛の声を送った。しかし,その後の歩みは紆余曲折をたどった。2013年10月に,ボー・グエン・ザップ将軍の死に寄せてFacebookに書いたノートを再録する。

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ボー・グエン・ザップ将軍の死に寄せて General Vo Nguyen Giap passed away

ベトナムのボー・グエン・ザップ将軍が10月4日に亡くなった。New York Timesは102歳と書いているが,ベトナムの英文紙Viet Nam News(VNS)では103歳になっている。しかしどちらも誕生日は同じなので,VNSが数え年で計算しているのだろう。
 
ザップ将軍はホー・チ・ミンとともに日本,フランス,アメリカのベトナム支配とたたかい,軍事作戦を指導した。日本でも私より上の世代には,ディエン・ビエン・フーのたたかいでの作戦指導が知られている。しかし,1964年に生まれ,2000年にJICAの市場経済化支援プロジェクトの一員として初めてベトナムの大地を踏んだ私の関心は,統一後の経済建設にあった。ザップ将軍が存命であることを知った時も,戦争指導よりも,統一後のベトナムで将軍がどう生きてきたかに興味を持った。
 
そうするとどうしても考えねばならないのは,統一を達成したベトナムが,なぜドイ・モイ開始まで計画経済,ベトナムで言うバオカップ制度による停滞に迷い込んでしまったか,その後,どのようにしてドイ・モイ路線に切り替えることができたかであった。これは重要なことだ。ザップ将軍がかつて述べたように,ベトナムは「海外からの侵略」とのたたかいを終わらせた後には「貧困と経済的な立ち遅れ」とのたたかいに挑まねばならなかった。統一をほめたたえるだけでは,その後の停滞が理解できないし,停滞を批判するだけでは,その後の経済成長が理解できない。歴史は曲り道だらけなのだ。
 
ベトナムの解放運動は,もともと民族独立運動の性格が強く,かならずしも社会主義一辺倒というわけではなかった。だからこそ世界から広範な支持を得た。ベトナム人がベトナムを治めたいというだけの運動を共産主義者の世界制覇の陰謀とみなすアメリカの言い分はスジが通っていないと,おおぜいの人が思っていた。私も幼いころ,両親にアメリカの空爆に反対するデモに連れていかれたことを覚えている。
 
ところが1968年のテト攻勢が軍事的に失敗した後(もっとも政治的にはアメリカ国内に反戦運動を呼び起こすという成功をおさめたが),南ベトナムの解放民族戦線が弱体化した。1975年のサイゴン入城,1976年の南北統一の時には解放運動の政治的・軍事的イニシアチブはほとんど北ベトナムの社会主義的な指導者に移っていた。
 
ザップ将軍を含むベトナムの指導者たちは,確かに独立を達成し,外国支配を終わらせた。それは偉大な貢献だった。しかし,彼らは軍事的・政治的・外交的勝利に酔いすぎて,慎重さを失った。また戦争と経済建設では異なる能力が必要とされることを認めようとしなかった。ソ連・東欧・中国の計画経済が20世紀にたどった紆余曲折についてもほとんど検討しなかった。古い計画経済と軍事優先のスタイルが彼らをとらえていた。
 
幅広い勢力を結集するためのベトナム労働党という名前はベトナム共産党に変わった。旧北ベトナムの名称はベトナム民主共和国だったのに,統一国家はベトナム社会主義共和国になった。サイゴン市はホーチミン市に改名された(ホー・チ・ミンは個人崇拝を嫌っていたのに)。まもなく中国が改革・開放に転じようという時に,ベトナム政府はソ連の経験を引き写した計画経済と農業集団化を導入した。南部の中小商工業や個人商店まで無理やり接収した。これは1930年代スターリン時代レベルの,非常に遅れた計画化思想だった。南部で商工業を営んでいた人の中には華僑・華人が多かったので,強硬な計画化は中国との関係を悪化させる一因にもなった。ベトナム経済の発展段階から見れば消費財から工業化を進めるべきだったが,重工業優先策が追及された。これらすべてが失敗し,経済停滞と食糧不足がベトナムを襲った。
 
クメール・ルージュの自国民抑圧がどんなにひどかったにせよ,カンボジアの政権交代に軍事介入し,軍隊を駐留させたことは,ベトナムの対外関係にとってマイナスとなった。それまでベトナムを民族解放の希望の星とみなしていた世界の多くの人々を失望させたからだ。中国がクメール・ルージュを支持していたために,カンボジアへの介入は中国との関係をさらに悪化させることにつながり,短期で終わったものの中越戦争を招いた。切羽詰まったベトナムはコメコンに加入し,ソ連からの援助に頼って経済を運営するようになった。しかし,ソ連が消滅すると,援助漬けの経済はまったく立ち行かなくなった。
 
戦争と経済運営の違いを学ばず,同じように指導しようとしたことはベトナムの指導者たちの過ちだった。偉業と失敗は紙一重で結びついていたのである。こうした歴史の複雑さや冷厳さから目を背けてはならないと,私は思う。
 
しかし,経済危機に直面したベトナムの指導者たちは,かつてゲリラ戦で発揮したのと同じ,柔軟性とリアリズムを取り戻した。1986年,グエン・ヴァン・リン書記長の時代にドイ・モイ政策が始まった。「市場経済化」の始まりだった。1991年,ソ連消滅による援助の消滅に対処するには,「対外開放」も必要だった。幸い,1989年のカンボジアからの撤退により国際社会はベトナムを再び受け入れようとしていた。ド・ムオイ書記長とボー・ヴァン・キェット首相はドイ・モイ政策を深化させた。失敗から学んだベトナムは,再び成功への道に転じた。市場経済化と対外開放に舵をとり,工業化と経済成長の波に乗ることに成功した。
 
この転換過程で,ザップ将軍がドイ・モイの推進者となったことは注目される。高齢の軍事的指導者が,戦争から平和へ,軍隊的指令から市場取引へと,物事の重点に関する考えを切り替えるのはたいへんなことだが,ザップ将軍にはそれができた。1979年に,行き詰まった戦時体制から平時体制への転換を主張したのはザップ将軍であった。将軍は,その後も改革の推進者となった。1990年代以後は政治や軍事の一線からは退いたが,内外の訪問客を応対し,時にはインタビューに答え,かつて敵であったロバート・マクナマラ元アメリカ国防長官とも握手を交わしたという。これらの様子は世界に報道された。ザップ将軍は,ベトナムが,独立の精神を失うことなく,多様な人々と交流する開かれた社会になったことを象徴的に示す人物となった。
 
時々は,将軍がもっと個別的な問題に関わることもあったらしい。私の元同僚の先生は,ザップ将軍に助けられたことがある。この先生は以前は民間企業に勤めており,野村・ハイフォン工業団地の開発に携わっていた。土地収用の補償手続きが停滞し困り果てていたある日,ザップ将軍が現れ,関係者と住民の前で演説した。「これからは貧困との戦いだ!どうか協力してほしい!」。ザップ将軍は日本人スタッフ一人一人と握手し,彼らが警戒すべき者たちではなく,ベトナムの友人であることを示した。翌日からすべては円滑に進行した。住民には補償金は払われ,建設が始まった。野村・ハイフォン工業団地は大成功をおさめた。
 
多くの人はザップ将軍の軍事的業績に関心を持つ。それは当然のことだ。だが私は,将軍がその人生の後半において,時代の変化を受け止め,信念を保ちながら過去にとらわれず,別の戦いには別の戦い方で挑もうとしたことに興味を持つ。ザップ将軍は,平和な時代の改革者としてその生涯を終えたのだ。
 
Gen. Vo Nguyen Giap, Who Ousted U.S. From Vietnam, Is Dead, New York Times, October 4, 2013.
http://www.nytimes.com/2013/10/05/world/asia/gen-vo-nguyen-giap-dies.html?_r=0  
General Giap passes away at age 103, Viet Nam News, October 6, 2013.
http://vietnamnews.vn/politics-laws/245857/general-giap-passes-away-at-age-103.html
 
参考
木村哲三郎『ベトナム:党官僚国家の新たな挑戦』アジア経済研究所,1996年。
桜井由躬雄『ハノイの憂鬱』めこん,1989年。
松岡完『ベトナム戦争』中公新書,2001年。
坪井善明『ベトナム 「豊かさ」への夜明け』岩波新書,1994年。
中臣久『ベトナム経済の基本構造』日本評論社,2002年。
石川滋・原洋之介編『ヴィエトナムの市場経済化』東洋経済新報社,1999年。
ヴィエトナム社会主義共和国計画投資省・日本国際協力事業団『ヴィエトナム国市場経済化支援計画策定調査第3フェーズ最終報告書』2001年3月。
大野健一・川端望編著『ベトナムの工業化戦略:グローバル化時代の途上国産業支援』日本評論社,2003年。
 
初稿・字句追加など部分修正:2013年10月6日
1文追加:2013年10月7日
大幅加筆・修正:2013年10月9日
字句修正:2013年10月10日

2013/10/6 Facebook
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