2018年10月15日月曜日

マルクス経済学からピケティはどう見えるのか:米田貢教授の書評をヒントにした試論 (2015/1/23)

Ⅰ マルクス経済学者はピケティをどう評価するのかと思っていたら,中央大学の米田貢教授が『赤旗』1月21日付に書評を載せていた。私はすでにマルクス経済学一本やりではないが,マルクスの19世紀の『資本論』の世界からピケティの『21世紀の資本』を見ることは,ピケティの歴史的存在意義を考える上で有意義だと考えている。『資本論』解釈学が世界一,極端なまでに発達している日本のマルクス経済学は,マルクスに即したピケティの読み方をぜひ考えるべきだ。それを応援するために,米田教授の書評を手がかりに考えてみたい。

 米田教授は,「ピケティも含めた近代経済学の系譜に属する経済学者から次々と,国民所得の法外な部分が不労所得=金融所得として略奪されていく現代資本主義に対する批判が提起されざるを得なくなっていることは,資本主義の限界を物語るものであろう」と言われる。教授は小見出しで「『搾取』の認識が欠けている限界」とも言っている。すがすがしいほど古典的マルクス経済学を主張しているようである。ただ,ちょっと不徹底だ。労働価値説ベースでマルクスとともに搾取を認めるならば,そもそも資本家の所得は,管理者として労働した報酬を除く部分がすべて不労所得なのであって,不労所得=金融所得ではないはずだろう。

  しかし,それはともかく,米田教授の主張のマルクス経済学らしいところに注目するならば,ピケティは「正当化されない格差の拡大」を述べているが,それは要するに不労所得の増大なのだぞ,と言いたいのだろう。格差の背後に不労所得拡大を見る。これは,もっともマルクス経済学らしいものいいだ。この観点からマルクス経済学者がもっと発言することを私は期待したい。これが,米田教授の書評のもっとも積極的なポイントだと思う。

  ただ,だからといって米田教授が「ピケティの現代資本主義における社会的格差の拡大傾向についての以上の批判は,資本主義に内在する搾取関係の認識のうえになされたものではない」などと,近代経済学だから限界がある,といった方式の批判を加えるのは,いささかイデオロギー的で,しかもピケティのせっかくの理論構成を理解しない批判であり,残念だ。

 ピケティの「正当化されない」というのは,つまり「労働の能力主義的な報酬とはとても言えない」という意味だ。実はピケティには,資本所得を論じるときに,資本の運用者としてのマネジメント労働報酬を差し引いて,純粋な資本収益率を計算している箇所がある。そして,それが経済成長率より高い(例のr>g)ことが格差を広げると言っている。またスーパー経営者の報酬を論じるときも,それを国民所得の形式上では労働所得とみなしながら,実質的に能力主義で正当化できないほどの高報酬だとしている。米田教授はピケティを「経営者が受け取る経営者報酬(カッコ内は略:川端)を,労働所得として賃金と同一視」していると批判しているが,これは正確ではない。ピケティは,スーパー経営者の高額報酬は国民所得の形式上は労働所得だが,実質的に大部分が労働の成果とは言えないと言っているのだ。

  つまりピケティは,資本所得についてもスーパー経営者の労働所得についても,実はある種の「不労所得」とみなさざるをえないと指摘しているのである。マルクス経済学を使わなくても,データを現実的に見ていくことでその結論にたどり着いているのだ。私は,マルクス経済学者は,価値論の違いでいきなり他学派をダメだと決めつける古臭い論法を振り回すのではなく,せっかく,異なる理論に立っているピケティが「不労所得による格差拡大」にたどりついたのだから,そのことを肯定的に正面から受け止めて対話すべきだと思う。ピケティがどのようにして不労所得にたどり着いているのか,マルクス経済学ならばどうするのか,どこがどう違うのかを突き合せてみればよい。これは,米田教授の書評の問題点から得られる教訓だ。

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Ⅱ 以下は,かつて『資本論』(19世紀の方)解釈を学んだものとしての蛇足的なノートだ。米田教授の経営者報酬論には賛成できない。それはマルクス経済学が間違っていると言いたいのではなく,マルクス経済学の前提に立ったとしても,米田教授の『資本論』理解は私とは違うという意味だ。

  米田教授は先に引用した,経営者報酬という言葉に括弧を付けたところで,「利子生み資本論では,資本所有の果実である利子を利潤から控除した残りの企業者利得」と書いている。私の記憶では,他にもこうおっしゃるマルクス経済学者は少なくなかったはずだ(マルクス経済学者自体が少なくなったということは脇に置くとすれば)。しかし,私はこの『資本論』理解はおかしいと思う。

  自分で経営もする個人資本家のオーナー企業ならば,利潤から利子を控除した企業者利得とは,すなわち,日常用語でいうところの企業の利潤と資本家の所得が混合したものだ。しかし,所有と経営が分離した会社について,企業者利得はマネージャー報酬と分離する。これは私が言っているのではなく,マルクスはそういうことがあるとちゃんと書いている(ほとんど知られていないが,マルクスの『資本論』にはマネージャー報酬論がそれなりにあるのだ)。マネージャー報酬はマネージャー報酬であって,企業者利得ではない。この二つを同一視する米田教授の理解には,『資本論』解釈として賛成できない。

 では,マルクス経済学の基盤上で,雇われ経営者のマネージャー報酬とは何か。それは,一部はマネジメント労働の報酬であり,賃金だ。ただし,労働者から効率的に搾取するという仕事における賃金だ。そして,その他の大きな部分は利潤からの控除だ。なぜそんな控除ができるかというと,マネージャー(これは今でいうトップマネージャーの意)は往々にして自分の報酬を自分で決定できるし,所有者(株主や,個人企業で経営者を雇ったオーナー)の監視を逃れて高額の報酬を受け取ることができるからだ。これも私が勝手に言っていることではなく,監督賃金論として『資本論』に書いてあることだ。

 そして,マネージャー報酬を控除されて残った企業者利得とは何か。それは,つまり今の日常用語でいう留保利益のことなのだ。留保利益は,今話題になっている内部留保の中核部分をなしている。米田教授のように経営者報酬=企業者利得と理解していては,内部留保はマルクス経済学的に見て何なのかがわからなくなってしまうだろう。

2015年1月23日初稿。
2015年1月24日わずかに加筆。

2015/1/23 Facebook
2016/1/6 Google+

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