マルクス経済学入門の授業で,労賃論(『資本論』第1巻第6篇)については,以下のようなことを話さねばならないと思っている。これは,実証的な労働問題研究者にとっては言う必要がないほど当たり前のことなのであるが,経済原論の世界ではあまり言われないことのように思う。
『資本論』における労賃論の課題は,本質的には「労働者は資本家に搾取されており,賃金は労働力の価値分しか支払われず,労働の一部は不払い労働である」にもかかわらず,なぜ現象としては「すべての労働に対して賃金が支払われている」ように見えるのかを説明することにある。マルクスはそれを時間賃金と出来高賃金を例にして説明している。
問題は,マルクス主義の歴史において,このことがどう解釈されてきたかだ。もっとも単純な解釈はこうだ。「どんな賃金形態であっても,その本質は搾取を隠ぺいするものだ。だから,理想の賃金形態というのはない。賃金形態を改良することにこだわるのは改良主義であり,労働者の真の利益にならない。全体としての賃上げを要求しながら,賃金制度自体が搾取の隠ぺいであることを暴露し,資本主義そのものを批判する運動を高揚させることが重要だ」。つまり,賃金形態の改良よりも搾取の暴露が重要だという重みづけだ。私は,労働者向けの『資本論』学習書や,マルクス主義の影響が強い労働運動の実践書で,この種の賃金論を何度も読んだ。
もしも,労働運動が,遠くないうちに資本主義を廃止して,それより優れた社会システムを構築する見通しを持っているならばそれでもよいかもしれない。しかし,そんな局面はめったにあるものではない。今の日本がそうであるように,相当長い間,資本主義社会のままで暮らし,資本主義社会の範囲内で,より労働者によってすみやすい社会への改革を進めなければならない場合は,どうするのだろうか。この賃金論は,こうした当たり前の問いに対して無力である。なぜこのような賃金論が長い間,それなりの影響力を持っていたのか,私には理解できない。
相当長い間,資本主義をなくせない以上,たとえ労働者が搾取されることが避けられなくても,その範囲でも,よりましな賃金形態を追求しなければならないのは当たり前のことだ。マルクス経済学を是とする人も,そう考えるべきだ。
その観点からマルクス労賃論を再解釈すると,実は重要なことがわかる。時間賃金と出来高賃金という二つの例が出されていること自体が重要なのだ。つまり,資本・賃労働関係は,賃金形態という具体的な形を介して現象する。しかも,その現象の仕方は一つに決まってはいないということだ。「時間」に対して支払うのか,「出来高」に対して支払うのかは自動的には決まらない(もちろん,労働様式によってどっちがなじみやすいということはある。現在よく言われるように,成果を測定しにくい労働に出来高賃金(=成果主義)はなじまない)。物理的に同じ行為をしていても,時間賃金と出来高賃金では受け取る額は異なるだろう。もちろん,社会的には,全体として「労働力の価値」を大きく下回る賃金が払われていては労働力が再生産されない。その制約は逃れられない。しかし,具体的な賃金は,賃金形態で異なっている。市場は自動的に賃金を決めないのだ。
またマルクスが出来高賃金について述べているように,賃金形態は,労働の全体に対して支払われているという意識を労働者にも持たせるだけでなく,その労働意欲を左右する。公平と思えるかどうか,やる気が出るかどうかを決めるのだ。それで生産性も変わるだろう。市場の圧力によって自動的にある水準の生産性向上が起こるのではなく,賃金形態によって生産性は変動するのだ。
これは,近代経済学の「賃金は労働の限界生産力に等しい」についても同じだ。これを大きく外せば市場は均衡しないという制約はある。しかし,具体的な賃金の金額は,規制がなければ市場が自動的に金額を特定するというものではないのだ。
賃金は,「何に対して支払うか」という賃金形態を介在させなければ決まらない。だから,職務給(職務の価値に対して支払う)か,職能給(人の能力に対して支払う)か,成果給(職務の成果に対して支払う)か,年功給(人の年齢または勤続に対して支払う)か,時間給(労働時間に対して支払う)か,といったことは重要なのだ。それによって経済システムのパフォーマンスも変わるし,「均等」や「公正」や「差別」に関する争いの結果も変わり得るのだ。
現代の資本主義社会に生き,今後も相当長い間資本主義とともに生きなければならない者が,マルクス労賃論から得るべきヒントはここにあると思う。
2015年3月4日:初稿。ただちにサブタイトル付加と字句修正。
『資本論』における労賃論の課題は,本質的には「労働者は資本家に搾取されており,賃金は労働力の価値分しか支払われず,労働の一部は不払い労働である」にもかかわらず,なぜ現象としては「すべての労働に対して賃金が支払われている」ように見えるのかを説明することにある。マルクスはそれを時間賃金と出来高賃金を例にして説明している。
問題は,マルクス主義の歴史において,このことがどう解釈されてきたかだ。もっとも単純な解釈はこうだ。「どんな賃金形態であっても,その本質は搾取を隠ぺいするものだ。だから,理想の賃金形態というのはない。賃金形態を改良することにこだわるのは改良主義であり,労働者の真の利益にならない。全体としての賃上げを要求しながら,賃金制度自体が搾取の隠ぺいであることを暴露し,資本主義そのものを批判する運動を高揚させることが重要だ」。つまり,賃金形態の改良よりも搾取の暴露が重要だという重みづけだ。私は,労働者向けの『資本論』学習書や,マルクス主義の影響が強い労働運動の実践書で,この種の賃金論を何度も読んだ。
もしも,労働運動が,遠くないうちに資本主義を廃止して,それより優れた社会システムを構築する見通しを持っているならばそれでもよいかもしれない。しかし,そんな局面はめったにあるものではない。今の日本がそうであるように,相当長い間,資本主義社会のままで暮らし,資本主義社会の範囲内で,より労働者によってすみやすい社会への改革を進めなければならない場合は,どうするのだろうか。この賃金論は,こうした当たり前の問いに対して無力である。なぜこのような賃金論が長い間,それなりの影響力を持っていたのか,私には理解できない。
相当長い間,資本主義をなくせない以上,たとえ労働者が搾取されることが避けられなくても,その範囲でも,よりましな賃金形態を追求しなければならないのは当たり前のことだ。マルクス経済学を是とする人も,そう考えるべきだ。
その観点からマルクス労賃論を再解釈すると,実は重要なことがわかる。時間賃金と出来高賃金という二つの例が出されていること自体が重要なのだ。つまり,資本・賃労働関係は,賃金形態という具体的な形を介して現象する。しかも,その現象の仕方は一つに決まってはいないということだ。「時間」に対して支払うのか,「出来高」に対して支払うのかは自動的には決まらない(もちろん,労働様式によってどっちがなじみやすいということはある。現在よく言われるように,成果を測定しにくい労働に出来高賃金(=成果主義)はなじまない)。物理的に同じ行為をしていても,時間賃金と出来高賃金では受け取る額は異なるだろう。もちろん,社会的には,全体として「労働力の価値」を大きく下回る賃金が払われていては労働力が再生産されない。その制約は逃れられない。しかし,具体的な賃金は,賃金形態で異なっている。市場は自動的に賃金を決めないのだ。
またマルクスが出来高賃金について述べているように,賃金形態は,労働の全体に対して支払われているという意識を労働者にも持たせるだけでなく,その労働意欲を左右する。公平と思えるかどうか,やる気が出るかどうかを決めるのだ。それで生産性も変わるだろう。市場の圧力によって自動的にある水準の生産性向上が起こるのではなく,賃金形態によって生産性は変動するのだ。
これは,近代経済学の「賃金は労働の限界生産力に等しい」についても同じだ。これを大きく外せば市場は均衡しないという制約はある。しかし,具体的な賃金の金額は,規制がなければ市場が自動的に金額を特定するというものではないのだ。
賃金は,「何に対して支払うか」という賃金形態を介在させなければ決まらない。だから,職務給(職務の価値に対して支払う)か,職能給(人の能力に対して支払う)か,成果給(職務の成果に対して支払う)か,年功給(人の年齢または勤続に対して支払う)か,時間給(労働時間に対して支払う)か,といったことは重要なのだ。それによって経済システムのパフォーマンスも変わるし,「均等」や「公正」や「差別」に関する争いの結果も変わり得るのだ。
現代の資本主義社会に生き,今後も相当長い間資本主義とともに生きなければならない者が,マルクス労賃論から得るべきヒントはここにあると思う。
2015年3月4日:初稿。ただちにサブタイトル付加と字句修正。
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2016/1/6 Google+
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